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道具と人間
アジサイの広場
風間こと大2
 今日の社会はコンピュータが動かす社会といっても過言ではない。軍事にし
ても政治にしても教育、経済活動にしても様々な分野でコンピュータが幅を利
かせている。しかしコンピュータに限らず複雑なハイテク機器を自在に使いこ
なすのは容易ではない。『エンジニア』という言葉が示すように今日の社会で
コンピュータを自在に扱える人は『専門家』として認知され、その逆は『使え
ない人間』というレッテルを貼られてしまうことになる。だが人間の『できる
・できない』を、このように一言で片づけて良いものか。コンピュータを代表
するハイテク機器は所詮『道具』でしかない。そもそも『道具』というものは
使いやすく分かりやすいものでなければならない。『道具』に人が合わせるの
ではなく『道具』が人に合わせるのが理想であり、そのようにするのが企業や
社会の使命だろう。
 
 近年、音楽機器の発展が著しい。MDコンポやCDラジカセは、その性能の向上
と比例するように構造、操作方法を複雑化させた。その複雑化は中年以上では
、とても太刀打ちできる代物ではない。そのどれもが若者向けである。私の親
戚の叔父さんは幼児が使用する玩具風のCDラジカセを使っている。当然、幼児
が使用するのだからボタンは再生、早送り、巻き戻し、一時停止などの最低限
の機能しか無いため操作は非常に楽だ。本来メーカーは高性能で操作が簡略化
されたものを製造しなければならない。ここでも人間が『道具』に合わせてい
る。
 
 この様な一連の現象の要因は『日本社会の仕組』にある。日本は『模倣国家
』と呼ばれるように勢いのある国を模倣することで自らを成長させてきた。勢
いのある国の『経済を発展させる道具』を模倣し、その『道具』に合わせたの
だ。私たちが『道具』に合わせてしまうのも日本の社会システムから考えれば
仕方のないことなのだ。
 
 私たちが『道具』に合わせれば物事を『できる・できない』で済ますことが
できる。それは非常に効率的で楽だ。しかし『道具』に合わせている限り、そ
の『道具』の性能は決して進歩しないだろう。人間は『道具』を使いこなして
初めてモノを作ることができる。より良いモノを作るには『より良い道具』を
作らねばならない。社会の発展はこの繰り返しなのだ。『道具』に合わせた社
会は、それ以上の進歩はない。