ひとこと
専門化
アジサイの広場
武照あよ中3
 
 現代はあらゆる場において専門化が進んでいる。専門家は自分の専門分野に
ついては良く知っているが他の事柄については無知であることが多い。専門家
が多くの人の理解を得る知恵を伴う言論を行うには、教養が基盤となる。教養
とは一人の素人としての自由人にふさわしいものとして学ばれるものである。
 
 「科学は自然から学び、そして得た科学技術は自然に尽くす為に使われなけ
ればならない。」これは金に成らない若い科学者達に研究資金を与え、そして
自らもノーベル化学賞を受賞した福井博士が一貫して主張していたものである
。このような名言はその専門分野の知識によって語られものではなく、知恵に
よって語られるのである。この知恵を身につけるのが教養というものであろう
。我々は教養を身につけるべきであろう。
 
 専門家は自分の学問の深さを知っている。そのため他のことを学ぶことをす
る欲がなくなるのである。しかし教養の欠落は恐ろしい。その専門分野の暴走
を抑えるものが何も無くなるのである。その良い例であろうか、遺伝子培養に
よって羊の子供が生まれたが、その技術をある科学者が人体に適用しようとし
て科学のモラルというものがどこにあるのか問題になっている。
 
 ではどうすれば教養を身につけることができるのだろうか。知恵は知識では
なく経験によって身につけるものである。よって幅広い教養を身につける為に
は幅広い経験が必要であろう。福井博士も子供の時に山で遊んだ経験によって
自然を尊敬するという考えが身についたと話していた。
 
 確かに専門性が低いとその学問の発達はおそくなる。知識のたりなさによっ
て大切な事例を見落としたり、気がつかなくなったりすることになりがちなの
である。しかし過度の専門化は教養の欠如という意味でひとつの行き詰まりに
きているのである。これを乗り切るには広い教養というものが必要であろう。
事実行われているようだが虫の個体数を調べる為に森林の一部に殺虫剤を巻く
ようなまねはしたくないものである。「自然を尊敬する科学」のように学問の
モラルを個々が持つことが今の専門化の進んでいる社会に求められている。