ひとこと |
テクノロジー科学 |
アジサイ | の | 道 | の広場 |
T.O | / | いう | 高1 |
中世は、人々の考えの中に神の存在が大きく、世の中のすべてが神によって |
包まれているというような考えが主流だった。しかし、ニュートン以降のいわ |
ゆる「テクノロジー科学」の時代になると、その考え方は一変して人間は社会 |
を形成する一つ一つの要素とする考え方となっていった。そしてこの考えは結 |
果的には科学を進歩させ、今日ではごく当たり前の考え方となっている。だが |
、この考え方には老人や身体障害者は社会の一員としてあまり受け入れる気が |
ないというような非人間的要素も持ちあわせており、問題がないわけではない |
。やはり、人間や自然を機械の部品のように見るべきではないと思う。 |
なぜなら人間や自然は生命を持っているからである。王権神授説では、人間 |
はひとかたまりの社会の中では、還元しきれない要素であると考えられている |
。これはすなわち、本当の生きた社会の中では人間は、死んだ部品のような定 |
められた働きだけをするものではないということである。人間が様々なことに |
挑戦し、次々と違ったものを生み出すことによって社会が動くのである。もし |
人間が決められたことしかしなかった、あるいはできなかったとしたら社会は |
いつまでたっても変化はしない。 |
人間が人間らしく命あるものとして生きるためには、自分は何のために生き |
ているのかといった根本的な部分に戻って考えることが大切だと思う。中世以 |
降のように「何をすれば良いのか」とだけ考えていたら、それこそプログラム |
をこなすだけの機械でしかなくなる。自分が今何を目指して生きているのかが |
分からなければ、自分自身の進歩、そして形式だけではない本当の意味での社 |
会全体の進歩というものはありえないと思う。 |
確かに、人間や自然を機械の部品とした考え方は科学を革命的かつ進歩的に |
し、大幅に発達したものに仕上げた。また、そういった考え方があったからこ |
そ現在のような世の中があるのかもしれない。だが、やはり社会は流動性を帯 |
びている、すなわち「生きている」ものであり、精密機械ではないから要素で |
ある人間や自然をすべて足しあわせても埋められない部分がどうしても出てく |
る。その埋められない部分こそひとりひとりの人間が持つ特徴や自然の神秘的 |
な部分なのかもしれない。この先の時代に生きるにあたって、目先のものだけ |
ではなく、こういったものについて考えることが必要になってくると思う。 |