ひとこと(4月4週)
大人になって
アジサイの広場
武照あよ高1
 
 子供は時に自分で疑問荷重う事を自分なりに説明することがある。その場合
外的な説明だけでなく自分の木持ちが込められる。「その時、その人にとって
納得がいく答え」は「物語」になる。しかし現象の「説明」をするためには人
間の内面と関わらせない方が正確になることに人間は気づき始めた。しかし近
代人はそれに伴って自分の心や自分と世界の関わりを無視するようになった。
 
 解剖して調べるために宇宙人を捕まえようとする科学者から宇宙人を守るた
めに少年達が自転車にその宇宙人を乗せて逃げている。捕まりそうになった時
、宇宙人を乗せた少年達の自転車は宙にを飛んだ・・・…。これはSF映画「E
T」の最も有名な場面である。この場面に「実は重力が…」などといった科学
的説明は不要であろう。この場面の面白味はその「理屈を超えた」物語にある
であろう。理屈を超えたものは遊びの心に通ずるものでもあり我々の心を豊か
にするものである。しかし最近科学の発達とともにこの理屈を超えた物語が軽
視されているであろう。これは今の教育の在り方に深く根差しているであろう
。理屈を超えた物語を大切にする教育が今必要であろう。
 
 ではどうすれば良いのであろうか。それはまず情報処理能力を第一とする今
のあり方を変えることである。以前新聞に記者のエピソードとして「自ずから
考えてみることの大切さを記事で訴えたところ、あなたの意見に納得したから
参考になる本を紹介してくれといった中年女性から手紙が届いた。書いたこと
が全く伝わっていない。よほど情報処理第一主義をたたき込まれた人なのだろ
うと私は愕然とした」というのが載っていた。拾って出すという作業からは「
理屈を超えた説明」といったものは生まれるはずがないであろう。
 
 しかし現在の状況は最も人間の内面を大切にしていくべき国語の授業でさえ
も文章を読んでそれを説明するといった、拾って出す作業が最も重要視されて
いる。しかし最も大切にすべきなのは絵を解説できる人間ではなく絵を描ける
人間の育成にあるであろう。人間は部品ではない人間の内面や人間の心と周り
の世界は決して科学的には説明できないものであることを知らせることも教育
の一つの役割であることを我々は認識すべきであろう。
 
 確かに科学的説明とは外界の観察によって導かれたものであるからがいかい
にたいしては非常に正確である。この科学的説明が今のテクノロジーの発達を
多いに助けたであろう。しかしその科学的思考が人間の内面にまで及んだ時人
の心はとても貧しいものとなる。人の心には出口のないトンネルはいくらでも
あるのだ。