ひとこと(4月4週)
「効力感は」を読んで
アジサイの広場
武照あよ高1
 
 自分の望む活動や達成を選び、そこで自己向上が自覚されてはじめて効力感
は獲得される。熟達を例に取れば、子供は内発的により難しい課題に興味を持
ちそれを達成することによって効力感を獲得する。子供の生活の中には様々な
熟達のお手本がある。お手本を選ぶ権利は子供にあり親が押し付けるものでは
ない。親に求められることは子供の向上の環境を整え行動を導くものになるの
を助けることだ。
 
 現在の日本では自ら興味を持ち効力感を得ようとする意識が欠落している。
大学生、新入社員、退職した社員が無気力な状態になってしまうことはよく知
られている。仕事や試験のつっかえ棒がなくなってしまったときに自ら興味を
持ち達成しようとすることが出来ないのである。社会の体制自体がそのように
なっているのだがその基は現在の学校教育にあるであろう。学校教育は物事の
達成の楽しみを知らせるという役割を持つべきであろう。
 
 ではどうすれば良いのか。それは学習を嫌なことの回避であるとする教育の
在り方を変えることだ。「これをしなければ将来好きな職業に就けないぞ」と
か「こうならなければ好きな大学に入れないぞ」など学習しなければ~ないぞ
、という嫌なことの回避のために仕方のないこととしてが学習を位置づけてい
る。だから嫌なことがなくなったとき無気力になるのである。アメリカで興味
深い実験が行われた。犬にブザーを鳴らしその直後電気を流す。そして犬には
ブザーが鳴ったら前足を出せば電流を流れないことを学習させる。しかし何度
かに一度犬が前足を出しても電流を流すとどうなるか。その犬は前足を出すこ
ともしなくなりじっと電流を耐えるようになる。つまり結果が約束されないと
き嫌なことの回避という現在の教育は無気力を生むのである。
 
 しかし現在の状況をみて思うことは教科書に夢がないことである。結果ので
ていることを踏襲しているという授業では自ら興味を持つ必要がないのである
。我々の思う科学雑誌の面白さはそこに夢があり自分もその夢を考えられると
いう点にあるであろう。夢のある教育というものも現在の日本に求められてい
るであろう。
 
 たしかに過去の結果を賞罰によって踏襲するという現在の教育は人材の大量
生産の効率を考えたとき最も手っ取り早いであろう。しかしそこで学ぶことは
ほとんど個人の向上に結びついていないように思うのである。社会人になって
未だに自ら興味をもって打ち込むことの出来ない人がいること自体がそれを物
語っているであろう。夢を学ぶ教育はその人の人生に結びつく問題なのである
。読書は他人の頭で考えることであるかも知れぬが教科書を読むことははその
ようであってはならないであろう。