ひとこと(5月1週)
勉強の意味
アジサイの広場
武照あよ高1
 
 明治時代の学生の勉強量というものは受験勉強に追われる時代に生きる我々
が見てもすごいものがある。やはりそれと比べるとアパシー状態に陥っている
大学生などはなにをしているとやり玉に挙げられても仕方がない面もある。し
かし勉強のやる気の喪失は学生だけの問題ではなく教育における「勉強の意味
」が変わってきているというところにもあるであろう。自分を動かす原動力と
なる思想を見つけ出す教育が今求められているのではないだろうか。
 
 現在の勉強の意味には「市民運動」に似た所があるようだ。周りが主張する
とそれに巻き込まれて一時盛り上がりはする。しかし市に対する運動であれば
市長が辞めてしまえば条件が飲まれなくてもその運動は一気にさめてしまうこ
とが多い。なぜか、それは思想の欠落にあるであろう。宮崎駿の参加している
「トトロのふるさと基金」がなぜ現在においてもなくなってしまわないのは宮
崎駿の映画「となりのトトロ」による優れた思想の流布にあるであろう。現在
の使い終われば意欲もなくなる。熱しやすく冷めやすい勉強のあり方には個人
個人が歴史の勉強であればその歴史を通して思想を身につけるといったように
その「思想」を重視することが必要であろう。
 
 しかし現在の教育にはその「思想」が無視されているように思う。現在の勉
強と言えば取り入れて出すという情報処理能力を高めるためのものがほとんど
である。倫理という教科があるが本来それは国語と歴史もしくは経済の勉強を
通して学ぶことができるはずであろう。その倫理までもが暗記分野と化してい
るのはどういうわけか。このような使うことを第一の目標とする勉強はテスト
のために勉強しテストで知識を使って名にも残らぬと言った使い捨て主義の低
いレベルに留まっている主な原因となっているであろう。ドイツでは大学入試
で経済や環境問題、哲学などから自分の得意な分野を選び題にそって日ごろ考
えていることを記述するといった問題を一科目としてどの大学も採用している
と言う。いっそこれを日本で始めたら日本の勉強も少しは変わるのではないか
と思う。
 
 確かに使うことを目標とした勉強と言うものも必要である。いくら優れた考
えであってもそれが机上の空論であっては仕方がない。だが使うがための勉強
は近視眼的になりやすい。得た知識を使えばおしまいと言った勉強では何も生
まれないであろう。勉強の根底にしっかりとした思想があればより高いものを
目指していくことができる。いくら立派で高い建物でも土台がしっかりしてい
なければ一度の地震で崩れ去ってしまう。