ひとこと(5月2週)
私たちが日常
イチゴの広場
隆史きね中3
 
 ことばというのはあるようでないようなもの、存在しながら、存在していな
いような、何か透明になってしまっているような感じがする。ところが、詩を
読むと、ことばがそこでは不透明になって、私たちの意識が素通りすることを
許してくれないわけである。日常のことばだと、私たちがまず何かを経験して
、それをことばで表すということをする。ところが今の場合は、ことばが新し
い経験を生み出すということが起こっています。そこで、どうしても、日常の
ことばの枠を超えるということが必要になってくるのである。実用的なことば
は大切だが、詩的なことばも大切だ。
 
 第一に、いろいろなことに耳や目をむけることである。例えば、学校の授業
でどんなにつまらなくても、先生がいろいろなダジャレを言ってみんなを楽し
ませてくれるのである。僕は、いつも学校でよくダジャレを言う人と話してい
る。すると、ことば一つ一つの意味は分からなくてもなんだか話が面白く感じ
てくるのである。
 
 第二に、たくさんの俳句や詩などを読むことである。例えば、「柿食えば鐘
が鳴るなり法隆寺」という俳句があるが、柿と法隆寺はあまり関係ないが、何
か面白くて、風流な俳句だと初めて聞いた時に思った。その他に、歴史を覚え
る時も、いろいろな駄洒落のような分であまり忌みはないが、面白く年代が覚
えられる。確かに、実用的なことばは必要だが、詩的なことばもなければ楽し
くないと思う。「雑草とは、まだ、その美点が発見されていない植物のことで
ある。」ということばにあるように、詩的なことばもまだその美点が発見され
ていないだけで無意味なことばではないのである。だから、実用的なことばも
使いつつ詩的なことばも使うようにしたほうがいいと思う。