| ひとこと | (5月3週) |
| 「私たちは日常」を読んで |
| アジサイ | の | 池 | の広場 |
| 拓馬 | / | ねき | 中1 |
| 私たちが日常、ことばを使っているときは、普通表される内容がまずあって |
| 、それを盛って運ぶ手段というふうに考えている。しかしこれは、ことばの「 |
| 実用的」な働きなのであって、決してことばすべてが、このような「実用的」 |
| な意味を持ったものではない。例えば、よく小さい子供がいっている意味不明 |
| な言葉が、「実用的」でない言葉、すなわち、「詩的」なことばである。私た |
| ちは「実用的」な言葉の方に関心が向いていてしまう。しかし、「詩的」なことば |
| が、「実用的」な言葉よりも使えることもあるのである。(`0゜) |
| 「詩的」な言葉は間違っている、と考える人はいるだろう。しかし、「詩的」 |
| な言葉は決して間違っているのではなく、私たちの言葉の「枠」を超えている |
| のである。この、「言葉の枠を超えた言葉」、つまり「詩的」な言葉はとても大 |
| 切なものなのである。 |
| その理由は2つある。1つは、「実用的」な言葉だけでは表現できる範囲が小 |
| さくなりすぎること。いつも日常で使っている言葉だけでは自分の感じたこと |
| のすべてが表現できないのである。例えば、ある詩の中にある、「岩に染み入 |
| る」という部分があるが、これを「実用的」な言葉として考えると、岩に染み |
| 込むわけがないじゃないか、ということになる。しかし、「詩的」な言葉とし |
| て考えると、すばらし〜、という風になる。このようなことは、ほかにもたく |
| さんある。 |
| もう1つは、「実用的」な言葉ばかり使っていると、「詩的」な言葉の理解 |
| ができなくなったり、型にはまったことばかりやって、自分で考えることがお |
| ろそかな人間になってしまう。「実用的」な言葉は、言葉の枠の中に収まって |
| いる言葉で、最初からどういうものか決まっている。つまり、こういう言葉ば |
| かり使っていると、自分で考える機会が少なくなり、最終的に、堅苦しい人間 |
| になってしまう。 |
| 脱皮できない蛇は滅びる、というように「実用的」な言葉ばかり使って、新 |
| しい「詩的」な言葉を拒んでいては、自分の考えも広がらずない。「詩的」な |
| 言葉とは、「思考」というボールをふくらませる空気入れのようなものなので |
| ある。 |