ひとこと | (6月2週) |
人間以外の動物 |
アジサイ | の | 道 | の広場 |
武照 | / | あよ | 高1 |
「生き物」と「生物」の違いを知っているであろうか。単に「き」という文 |
字が入っただけのようだが実はここに大きな違いが含まれているのである。地 |
球だけでなく宇宙を含めて命を持つものが「生き物」ある。では「生物」とは |
何か、それは人間が発見し記載し命名した「生き物」の総称である。つまり厳 |
密に言えば「なぞの生き物」とは言っても「なぞの生物」とは言わないのであ |
る。このように人間は雑多で混沌とした世界に言語という道具を通して秩序を |
与えているのだ。「なぞの生き物」いって私が第一に思い出すのが「ネッシー |
」である。このネッシーが謎の生き物であったとき世界の科学者達はどう解釈 |
してきたのかと言えば首の長いアザラシや、クジラや、大きなウナギである。 |
実に夢が無いではないか。それらの解釈がいかに不合理であったとしても科学 |
者にとってネッシーが「今生きているはずの無い」白亜紀の爬虫類であっては |
ならなかったのであろう。そしてネッシーが偽造写真の産物であると報道され |
たとき我々はとりあえず安堵したのである。ここに我々の言語という眼鏡を通 |
した世界の認識の大きな問題点があるであろう。それは言語によって認識でき |
ないものは見ようとせず、排除しようとする我々の姿勢である。しかし我々の |
認識できていないものを認識しようとすることが我々の好奇心のすべてであろ |
う。我々は言語を通して認識できない物をもっと大切にしていくべきである。 |
ではどうすれば良いのであろうか。言語を通さずに物を認識しようといいた |
いところだが人間は言語を通さず物を認識することはできないのである。そこ |
で「疑問意識」をもつことが大切になってくる。疑問意識は言語によって認識 |
された物を認識されていない物として発見することである。我々の周りには見 |
えているからこそ見えない物がいくらでもある。例えば「風」である。目を開 |
いているから見えない風がたった目をつぶるだけで肌を通して見えるようにな |
る。爬虫類は足を広げて歩いているととても辛そうであるが、実は彼らが走る |
と直立歩行の動物よりも少ないエネルギーで活発に動けることが報告されてい |
る。見えているからこそ見えない物をまず疑問視することによって発見しよう |
とする姿勢が大切であろう。 |
しかし現状は「疑問意識」が著しく欠落している。特に顕著だと思うのが教 |
科書である。この本は物事について膨大な量の言語を用いて秩序付けに終始し |
ている。そして教科書がすべての物事の秩序を表しているような扱いを受けて |
いる。そもそも学問は生きている物である。学問の秩序など絶対ではありえな |
いのだ。そこで一定の学問に興味のある者は生きる学問を再発見すべく雑誌を |
あさることになるのである。 |
たしかに言語による認識は我々が多くの物を知る上で重要な道具である。し |
かしながらその重要さに気を取られて認識外の物を排除しようとする姿勢も問 |
題であろう。「雑草とはまだその美点が発見されていない植物のことである」 |
という。その植物が認識されているかいないかということよりもその植物の存 |
在を大切にしていくべきであろう。 |
最近数学の分野では「カオス理論」経済の分野では「複雑系」と、複雑なも |
のを複雑なものとして捕らえようとする学問が注目されている。我々の認識外 |
のものを認識として捉え直そうということである。それにはやはり社会の複雑 |
化にともない縦割りの法則が意味を持たなくなってきたことがあるのであろう |
。これから認識外のものを大切にしなければならない機会というものはますま |
す増えていくであろう。ひょっとしてネッシーも再発見されるかもしれない。 |