ひとこと(6月3週)
「誰かがいつか」を読んで
イチゴの広場
幸裕あつ高3
 
 神経が苛立って眠れない時があるが、神経の労働が、肉体とのバランスを欠
いて、独自に進行してしまった結果である、という論理がある。この場合眠る
には、肉体の疲労を神経の疲労と同程度になるまで高めれば眠れるのである。
神経の疲労それ自体を静めようとするのではなく、肉体の疲労をそれに見合う
べく高めようとする点が独特であり、そこに行動的であり、しかも、積極的な
姿勢がうかがわれる。この手応えの無い世界への不安が我々の中に潜在し、そ
の焦燥感が、勢い手応えのあるものに向かって、やみくもに発散されようとす
る。私は将来、実感と現実とのギャップが広がることが予想されると思う。
 
 その対策として第一に、神経の疲労を自分で認識することである。神経の疲
労というのは自分で認識しにくい。神経の疲労を受けたと感じた時、その都度
何かしら肉体的疲労を与えていけば神経だけ疲労しすぎるということはなくな
るであろう。
 
 第二に生きがいを見つけることである。現実の社会ではメディアが競って精
神的な衝撃の大きいものを情報として流すため、情報を受け取る側はそれに伴
った実態というものを得てバランスをとることが難しい。手応えの無い情報に
慣れると、生活までも手応えが無くなってしまい、生きがいを見失うことがあ
る。精神だけが先走らないためにも生活の中で生きがいを見つけ、実感と現実
の差を広げないことが大切である。
 
 確かに仮想現実もある意味人間にとってやすらぎを与えるものかもしれない
が、私は現実と実感とのギャップが広がりすぎることが問題だと思う。
 
 余暇開発センターのレジャー白書86のなかで、レジャーの目的を仕事の疲
れを癒すものと答えたのは、OLが41%、主婦26%、男性29%となって
いる。しかし、休みをとってどこかに出かけることは容易ではないと思う。少
ない時間のなかでストレスを発散させるためには仮想現実に頼るのが楽な逃げ
道なのではないかと思う。
 
 木を見て森を見ずという言葉があるように自覚しやすい肉体疲労ばかりに気
をとられて、神経の疲労に目を向けないことはよくない。言い換えれば肉体疲
労を見て神経疲労を見ずである。
 
 将来、生きがいを見つけられない人が増えることが予想される。例えば、き
れいな花を見ても感動しない若者によって将来、日本は埋め尽くされるであろ
う。