ひとこと(7月2週)
私が文章を
アジサイの広場
武照あよ高1
 小学校の新任の女教師は悪ガキ七人組みを放課後残した。そして自分も椅子
に座り、言った。「新学期になってクラス替えをする時あなたたちを半分に分
けようという話が職員室で出たの。でも私は反対したの。なぜだと思う。」そ
こまでいって先生は声を詰らせた。これまで先生や警察官にどれだけ殴られて
も何とも思わなかった悪ガキ達の心が動いた。その帰り道悪ガキの一人が言っ
た「先生はみんな悪者や」しかしその声に自信はなかった。
 
  これは「ワルのポケット」と言う児童文学であるが、現在このような叱る
存在がなくなってきているように思う。人は他人の人生に直接手を加えること
はできない。人の人生はその人自身が変えていくのである。よって他人のでき
ることはその人を叱って自分とは違う見方と向き合うきっかけをつくることで
あろう。物事には複数の面が存在する。しかし我々はなかなかそれを知ること
ができないのである。そこで叱る存在が現在の社会に必要であろう。
 
  ではどうすれば良いのか。それには個々の人間がしっかりとした思想を持
つことである。「人はこうあるべきでこのようにすべきである」といった思想
がなければそれを人に伝えることもできるはずがない。叱ることと怒ることを
を混同している人も多い。しかし叱ることは単に腹が立ったから、気に食わな
いからと言う理由で怒鳴ることではないのだ。怒るとは人が笑ったり泣いたり
といった感情的な性格が強い。つまり思想が存在しないのである。怒ることは
他人を自分と向きあわせるきっかけを作らない以上人の人生を変えることもな
いと言えるであろう。
 
  しかし現在の状況はといえば叱る存在が欠落しているようにおもう。帰り
のバスで眠たい目をこすりながら吊革につかまっている学生の立場からすれば
両側に荷物を置いてシルバーシートに高齢者の特権と言わんばかりに座りなが
ら「近頃の若者は」などと友達を相手にのたまっている御老人ほど腹の立つも
のはない。老人に忠告するのは道徳に反すると言った考えに誰も疑問を持つエ
ネルギーも思想もないのである。誰だって疲れているんだから荷物ぐらいはひ
ざの上に置きなさいと直接言う勇気のない私はこの場を借りて言っておく。
 
  たしかに叱ったり叱られたりしないほうがそれに伴うエネルギーも要らな
いし人間関係もうまくいくであろう。しかし叱らないことはその人の視野を狭
くすることにつながるのでありそこから本当の人間関係が生まれるとは思えな
い。現在の社会は人は何もしてもかまわないといった無関心の社会である。叱
る存在が多い社会と言うのはそれだけ思想を持つ存在が多い社会であり、温か
さのある社会であるといえるであろう。