ひとこと(7月3週)
◎私が文章を(感)
アジサイの広場
文康つと
◎私が文章を(感想文)
 
                                 石井
 文康
 
 
 
  相手のことを思えば、間違えをきちんと指摘すること、つまり叱るという
ことはとても
 
 大切なことであると著者は指摘している。この文章の著者である、ある作家
が先輩の作家
 
 から、文中の言葉遣いについて指摘された。指摘に対して反発をしがちな若
者に対して、
 
 気遣いながらも、あえて苦言を呈した先輩達の行動を、ありがたい行為と回
想している。
 
 
 
  私なども、若い頃は、親の忠告や注意を受けると、反省よりも反発の気持
ちを強く持っ
 
 たものである。それでも敢えて私の間違えを叱ってくれた親は「こんなこと
は、親ぐらい
 
 しか言ってくれないよ、世間の人はそんな注意はしてくれない。叱ってくれ
る人がいなけ
 
 れば、損をするのは自分なんだから」とよく言っていた。なるほど、今思え
ば、その通り
 
 である。叱るというのは、相手のことを思った上での行為であり、思いやり
と強い意思、
 
 そして自信がなければ出来ないことである。
 
 
 
  狼が来たと何度も嘘をついては、村の人々を驚かせ、最終的には狼に食べ
られてしまっ
 
 たという、嘘つきの狼少年の童話があった。これも、村の誰かが、最初の嘘
で、少年に対
 
 して真剣に叱ったのなら、少年が狼に食べられてしまうことはなかったであ
ろう。他人に
 
 対して真剣に叱れる人は、現在なかなか見られない。それどころか、自分の
子供にさえ、
 
 嫌われることを恐れて、叱らない親が多いと言われている。世の中には、叱
られたことの
 
 ない人間が増え、自由をわがままと勘違いしている、困った人が多くなって
いる気がする。
 
 
 
  人を叱れる人というのは、本当に愛のある人だと思う。誰しも、わざわざ
人に苦言を呈
 
 するのは、気分の良いものではない。それを敢えて、憎まれ役を演じるのは
、他人のこと
 
 を本当に心配して、世の中のことを思っての行動である。叱ることを放棄し
て、友達のよ
 
 うな親子関係を築いて満足している親の多い今日。彼らは、本当に子供を愛
しているので
 
 はなく、自分を愛しているにすぎないと感じてならない。