ひとこと(7月3週)
庭は原始社会では
アジサイの広場
武照あよ高1
 鎌倉彫りと聞くと我々は単に高級な器というイメージしかないが、鎌倉彫り
の歴史を見てみると意外な側面が見えてくる。鎌倉彫りは当初、京都から鎌倉
の田舎に移り住んできた禅宗の仏師達が生活に必要な食器として作り出したも
のである。そしていかに長持ちさせるかという実用性の面から漆が表面に塗ら
れるようになった。しかし安土桃山時代になると大名達が高級器として手に入
れるようになった。鎌倉彫り資料館にいってみると豊臣秀吉が持っていたと言
う器が展示してある。この頃鎌倉彫りは庶民の手に入らないようになった。そ
して現在はといえば庶民の手に入るようになったものの所有してもなかなか使
われない高級な伝統工芸品である。多くの日本庭園などの「日本文化」を見て
いると、この様に庶民の必要から始まってそれが上流階級によって形式化され
、再び庶民の手に戻った時には元の機能を失い、閉鎖的で形式的で私的欲求を
満たすため性格の強い物になっていることは大変多いことに気付くであろう。
 
  この様に還元されたときには実体を失っているということは何も伝統文化
だけに当てはまる物ではない。我々の思想にも当てはまることである。例えば
選挙権が一部の人間にしかなかった時は必要から選挙権を要求するわりにいざ
国から選挙権が与えられてしまうとすでに法律と言う形式のみが残って実体を
失ってしまっている。このようなことは当然あって良いはずはない。我々は形
式のみの追求ではなく実体を行使できるようにならなければならないだろう。
 
  ではどうすれば良いのだろうか。それは良く知ることに他ならない。評論
家、小林秀雄は評論のなかで「西洋では自由についてリバティー(個人の内面
における自由)とフリーダム(他者から与えられる自由)という二つの言葉を
持ち使い分けている。それに対して日本人は自由と言う一語しか持っていない
。これは日本人に二種類の自由という認識がない証拠でありそこで自由を求め
ることは自由の死骸を求めるようなものだ」といっている。形式の中からでも
良いそこから考え実体を知ることが大切であろう。
 
  しかし現在の状況はと言えば実体を知ろうとしているとはとても思えない
。花さかじいさんが灰をまいて花を咲かせて殿様に褒美をもらったのを真似て
となりの欲張りをじいさんは灰をまいて何も起こらずひどい目にあった。その
またとなりの現代じいさんは褒美をもらおうと思って灰をまいたが、自分が何
をしていたのか忘れて帰ってしまった。欲がないと言うべきか間抜けと言うべ
きか……。
 
  確かに形式化されたものが価値を持たないとは言わない。日本庭園にしろ
織物といい全て誇るべき日本の文化である。法律なども広い意味では文化の一
つであろう。しかしそれが時代と階級の産物である以上、閉鎖的で形式的の面
を持ちあわせていることを忘れてはならない。そして我々の姿勢によって生き
も死にもするのである。伝統であれ形式化されたもので満足してしまうのがも
っとも意味がなく恐ろしいことではなかろうか。我々が物の実体を探り形式に
意味を与えた時もっと上の物を作り出していくことができるはずである。鎌倉
彫りをどっか奥に閉まっている人、思いきって使ってみてはどうだろう。