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鶏口の良さと牛後の良さ
アジサイの広場
冨田あよ高1
 「我々ドブネズミはぁ、これまでこの都会を我らの楽園としてきた。しかし
今クマネズミが勢力を取り戻してきている。今こそ我らドブネズミはぁ、クマ
ネズミを追い出し再び我らの世の中を取り戻そうではないか。」その言葉に公
園に集まって演説に聞き入っていたねずみたちは、わあと歓声を挙げた。
 
  これは「グリックの冒険」に出てくるドブネズミの演説の様子である。え
らそうに話す口調とその話しているのが小さなドブネズミであるというアンバ
ランスさがとても面白い。続編ではこの演説に聞き入っていたドブネズミ達が
すごい冒険を繰り広げるのである。我々はこの小説をネズミの視点で読むが、
ちょっと視点を変えて人間の視点で見てみると、そのスケールがとても小さい
ことに気づくであろう。車の通る道を渡るのに四苦八苦したりロバの引く荷台
に乗ったはいいが止まらなくなったり。しかしスケールは小さくとも大きな我
々も出来ない冒険をするというところにこの物語の面白さがあるであろう。我
々はとかくスケールの小さな世界での大きな存在よりもスケールの大きな世界
での小さな存在を評価する傾向がある。例えば中小企業の社長より、大企業の
平社員のほうが良いといったように。しかし我々は小さな社会で大きな存在を
評価していくことが大切ではなかろうか。
 
  大きな世界では自分の小ささだけが見えてしまう。日本教育では個人の尊
重などと言いながらみんなの中の一人ばかりを強調している。自分の小ささば
かりが見えている社会で大きな事をする人間が生まれるとは思えない。ベンチ
ャー・ビジネスが日本でも発達してきているがそのほとんどが中小企業から出
発していると言うことは自分の大きいところも見えるということと無関係では
ないだろう。小さな社会の大きな存在のほうが大きな事をできるひとつの好例
である。
 
  ではどうすれば良いのか。それには個人個人が自分の強いところを知るこ
とが大切であろう。自分はこの世界では大きな存在になれるという自覚は個人
の向上欲にも繋がる事である。
 
  たしかに小さな世界での大きな存在と言うのは小山の天狗になりやすいの
も事実である。小さい世界で満足して鼻ばかり伸ばしていると何もしないで終
わってしまうことになり兼ねない。しかし大きな世界の中の存在では小回りが
利かない、言いかえると無鉄砲さが失われると言うのも事実である。多くの日
本人が無難に仕事をこなし安全な生き方に落ち着いている現状では小さい世界
での大きな存在のほうが大きな事を成せるのではないだろうか。たまには人間
だけにこだわれずドブネズミになって冒険の一つでもしてみてはどうだろう。