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私はこの数年間テレビ(感想)
アジサイの広場
石井つと
 日本の大きな報道機関は、同一のテーマを同一論調で報じることが多い。ま
た、テレビなどでは、個人の意見と客観的事実が混同され、正義の基準が曖昧
で、刺激的な報道に流れやすいと著者は指摘している。報道の自由が保証され
ているだけに、その自由の行使には、注意が必要であると警告している。
 
 なるほど、ニュース報道は事実のみを放映しているとは言い難い面が多々あ
る。例えば、消費税の導入、引き上げなどの際、マスコミはこぞって反対キャ
ンペーンに打って出た。大衆受けの良い、「一円に無く庶民」などと極端な言
葉を乱用し、税金の直間比率の問題や、長期的な財政の問題など、議論しなけ
ればならない話題は置き去りであった。本質的な問題を片隅に、商業的に受け
の良い報道ばかりしていては、「寄らしむべし、知らしむべからず」の政府に
対して、第四権力としてのマスコミは市民にとっての力とはなり得ない。
 
 過激な報道といえば、最近のテレビニュースには映像に効果音まで用いて、
刺激を高めている。普通の報道番組を見ているのに、まるでゴシップを扱う、
いわゆるワイドショーを見せられているような気分にさせられてしまう。作り
手の質も問われているのだろう。マスコミに勤務している友人の話だが、犯罪
被害者の写真をニュースに間に合わせるため、泥棒まがいのことをして、被害
者宅からアルバムを入手した、などということも聞く。現場の人間も、報道の
意味を履き違えていて、速報性と刺激性に走り、本質を見失っているのではな
いだろうか。
 
 民主主義は衆愚主義に陥りやすい。民衆の最大の武器であり、味方である情
報を一手に扱うマスコミにはもっと自覚を求めたい。ただ視聴者の求めるまま
商業的に利益があるからと、何をしても良い訳ではないであろう。マスコミは
、実質的に報道の自由を担っているのだから、それなりに、見識と誠実さが求
められて当然ではないだろうか。子供が欲しいものを好きなだけ与えられ、好
き放題に育てられることには、誰もが異を唱えるであろう。同様に一般大衆も
ある程度他律的に律されるべき節度と言うものがあるのではないだろうか。マ
スコミの影響力が大きいだけに、自由と制限のさじ加減は非常に難しいもので
はあろうが、ある程度の限度があると言うことは、常に報道する側は意識して
おくべきであると考える。