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自分と他人
アジサイの広場
さやかあおべ中3
 自分に自信が持てなくなるとき、人間はなじみのない物を恐れ、ネガティブ
に自分を規定する。人間は他者と関わってゆくと、自分を知ることができる。
それは、「~してあげる」と言う関係についても同じであり、他者を除いて自
分を考えると自己意識がなくなり、即物的な境界にこだわる。
 
 確かに人間は他人との関係をさまたげて生きてゆくことはできないと思う。
例えば、私にも経験があるように、友達に褒められたり喜ばれたりすることに
よって「私は友達の間でじゃまな存在ではないんだな」と思う。それを、友達
なしで考えると自分はみんなにとってなんなのか、自分とはなんなのかという
ことになりかねない。もしくは、私は誰からも信頼される人なのよ!」と自己
満足にひたる人になる。私自信を知るためには他人は欠かせない存在になり必
ず自分を分からせてくれる存在となる。
 
 私自身の存在をアピールする方法はたくさんあるがその多くが、外見である
。人間はいくら他人と関わっていても自分に自信がもてなくなることが多い。
そんな時、私たちは必ずと言っていいほど外見、つまり、髪型、服装にこだわ
る。私にも、体験は多い。友達と出かけるとき私は前の晩に必ずどれを着てい
こうかなあと考える。(まあ、悩むほどもってないけど…)さて、次の日みん
なで待ち合わせ場所に行くとみんな可愛い格好をしているが、学校の中でもな
んというか変わっていると言えば変わっているようなマイペースと言うような
人は「別に洋服にこだわらなかった」と言う。そんなとき、自分に自信が持て
ている人は別に外見にこだわらないのだと思う。
 
 昔話の中に「かさ地蔵」というお話がある。傘を売って暮らしていたおじい
さんとおばあさんがいて、おじいさんはある雪の晩に頭に雪の積もったお地蔵
さんに傘をかけてあげる。するとその晩におじいさんとおばあさんの元にお地
蔵さんが正月のもちなどをもって来てくれたという話である。これはおじいさ
んがお地蔵さんにやさしく振る舞ってあげたからであり、つまり、お地蔵さん
は普段道端にさりげなくいるだけの存在であるのに、おじいさんが自分の存在
を認めたからお地蔵さんは喜びおじいさんにお礼をしたのだ。誰からも石の像
だと思われていたお地蔵さんはおじいさんという他人によって自分は他人にと
ってなんなのかをわかることができたのだ。
 
 私たち人間にとって他人と関わっていかないということは気持ちの上ではあ
っても、実際にはありえない話である。私たち人間が他人とどのように関わっ
て行くかは自分自身の問題であるが他人無しでは自分自身を見失ってしまうの
である。「なまけ者であることを批判するよりも、人間とはもともとそうした
ものだというところから出発するべきだ。」という言葉があるように私たちが
他人とどう付き合って行くかをかんがえるのではなく、私たちが他人と関わっ
てどのようになるかを考えることが大事である。そして私自身も他人に愛され
、又、自分で自分が好きになれるような自分自身になりたいと思う。