以前、言葉の森のホームページのコメントに、「『子供』の『供』は、『お供』のように人を従わせる意味があるから、『子ども』と書くべきではないか」という投稿がありました。
私(森川林)は、そういう考えがあることは知っていますが、敢えて「子供」と書くようにしています。
それは、なぜかというと、言葉のニュアンスという主観的なもので物事の良し悪しの判断を下すことは、一種の宗教と同じだと考えるからです。
もちろん、私は、宗教とその裏付けとなっている信仰には、それなりの意味があると思っています。
鈴木大拙の「日本的霊性」には、その信仰というものの深い本質が書かれています。
それはひとことで言えば、人間には、そして人生には、理屈や理論では超えられないものがあるということです。
しかし、宗教は個人の内面の問題としてとらえれば意味がありますが、それが集団で行われるようになると、そこに民主主義の対極となるものが生まれます。
集団で行われる宗教は、どちらが正しいかということではなく、どちらが好きかということが基準になります。
キリスト教とイスラム教の争いにしても、簡単に言えば、一方はイエスが好きで、一方はアラーが好きだというレベルの争いなのです。
このレベルの低い争いには、当然話し合いによる解決という余地はあまりありません。
言葉のニュアンスというのも同じです。
大事なのは、その「こども」という言葉で書き表されている内容であって、その書き方が「子供」か「子ども」ということは、個人の好き嫌いの問題です。
好き嫌いは、理性の話し合いにはなりません。
最近の日本では、よく言葉狩りのようなことが行われています。
おおまかに言えば、考える力のない人ほど、言葉のニュアンスにこだわります。
言葉狩りの広がる社会は、文化の程度の低い社会です。
大事なことは、その言葉で表現されている内容を読み取ることであって、言葉自体をチェックすることではありません。
そういう考える力のある子供たちを育てることが、これからの教育の役割になると思います。