江戸時代の日本の教育は世界で最も進んでいました。徳川300年間の安定の中で、子供の教育の理想というものが長い時間をかけて検証されてきたからです。
子供にとって無理なく高度な学習をいかに幅広く普及させていくかということで、さまざまな実践家が教育法の提案をしてきました。
その実践家の代表的な一人が貝原益軒です。益軒は、その著書の中で、「教育には本末がある。学問をすることが本で、諸芸をまなぶことは末である」と述べています。
江戸時代の豊かな庶民生活の中では、さまざまな習い事が生まれていました。しかし、益軒は、子供たちが最初に学ぶものは定評のある古典の文章をしっかり読むことであって、それができたあとの余技として乗馬や剣術や歌や踊りを習うべきだと言ったのです。
これは、現代の社会にもあてはまります。保護者からの勉強の相談を聞いていると、ときどき本末を勘違いしているのではないかと思うことがあります。
現代は、コマーシャルによって考え方が左右される時代です。スポーツもできて、音楽もできて、英語もできて、勉強もできて、人気もあってというような子供に育つのは、多くの親の夢ですが、限られた1日の時間に詰め込みでそのようなことができるわけはありません。子供の生活には、ゆっくり好きなことをするという余裕の時間も必要ですから、なおさらあれもこれもということはできなくなります。
そのときに大事なのは、何を本として何を末とするかということです。
運動系と音楽系は、決して悪いものではありません。あるスポーツや楽器が得意であったために社会人になってからも同好の人と楽しく趣味の時間を過ごせるという人はたくさんいます。しかし、運動系の習い事の問題は、勝ち負けが出てくるためにどうしても過度の練習をしがちな面があることです。音楽系は、上達が練習量に比例する面があるために、やはり発表の場があると練習のための時間がかなり長くなります。
時間がかかること自体は問題ではないのですが、その長時間の練習によって本を読む時間がとれなくなったとすると、それは本末転倒なのです。
同じような本末転倒は、語学系の習い事にもよくあります。特に、低学年から楽しく学べる英語ということで、子供が小さいうちから英語をうまく話せるようになると、そのときは学力を先取りをしたような感じがします。しかし、英語の力の土台となっているのは日本語ですから、中学生になって全員が英語の勉強を始めるようになると、結局、日本語力のある子の方が英語も得意になるのです。
図式的に言うと、子供たちの勉強には次のようなパターンがあるようです。
1、低学年のうちから楽しい勉強で→実力がつかないから→高学年で詰め込み勉強をして→勉強嫌いになる
2、低学年のうちから詰め込み勉強をして→勉強嫌いになるから→高学年で力が発揮できない
3、低学年のうちは読書と対話で→本当の実力がつくから→高学年でやる気になったときに伸びる
低中学年の勉強の基本は、読書と対話です。そのためには、作文の学習を中心として、長文を読み、読書をして、親子の対話をするという勉強が最も役に立つのです。
作文を中心とした読書と対話の勉強は、高学年になってからでは間に合いません。高学年になると課題が難しくなるので、そのころから作文の勉強を始めるのはかなり難しくなるからです。
コマーシャルや世間のムードに流されず、何が本で何が末かということをしっかり見て子供たちの教育を進めていくことが大事です。