言葉の森では、今、ゲームのように楽しくできる勉強というものを考えています。それを、褒美という目標や、競争という強制によって行うのではなく、
勉強という活動自体をゲームのように楽しくできるような工夫をしていきたいと考えています。
勉強は、本来楽しいものです。それは、過去に自分が学んだことが、未来のある時期に生かされるという体験ができるからです。ちょうど、こっちのブロックを積み重ねて、あっちのブロックも積み重ねて、組み合わせてみたら、予想もしなかったすばらしい建物ができたというような体験です。ブロックを積み重ねているときは、単純で退屈な作業のように見えますが、それが未来のある時期に成果として現れると、その退屈だった作業が報われたと感じられるのです。
しかし、問題は、勉強の場合、そういう達成感を味わうまでの時間がかなり長期にわたることです。特に現代のように、学ぶことが多い時代には、退屈な蓄積時間が長く続き、その成果を確かめられるのはずっと先になります。原始時代には、例えば、親から学んだウサギの捕まえ方のような知識が、すぐに実際の成果として生かされるというようなことがよくあったはずです。しかし、
現代の勉強は、それほど単純に成果に結びつくものではありません。だから、勉強という作業の中に、成果が味わえるような工夫をすることが必要になるのです。
■勉強の中心は自習だが、問題を解くような勉強だけでは実力はつかない
勉強というと、多くの人は、解いた問題に○や×がついて点数がつけられ、喜んだり悲しんだりするような光景を思い浮かべると思います。現代の教育では、テストという形の勉強スタイルが一般化しているため、勉強というと問題を解いて○や×がつくという形を連想することが多いのです。
しかし、テストというのは、勉強の成果を測定するもので、勉強そのものではありません。それは、たまに自分のした勉強の定着度を確認するためのものであればいいのです。
ところが、現代では、テストをするような勉強、つまり問題を解くようなスタイルの勉強が主流になっています。それは、勉強が外部の機関である塾や通信教材に委託されるようになってきたためです。
学習塾や通信教材では、問題を解いて○や×をつけるという形に残るものがないと、勉強の形が整えられないからです。
しかし、
問題を解くような勉強や、テストで○×をつけるような勉強では、本当の実力はなかなかつきません。それは、勉強の結果であって、勉強の中身ではないからです。
勉強の中身とは、何かを読んで学び、それを生かし考えるという活動です。だから、本を読むようなことの方が勉強の中身であって、国語の問題を解くことは勉強の外側の結果にすぎません。
その勉強の外側だけに時間をかける形の勉強が多くなっているのです。
■学校で教わったことを家庭で定着させるためにも家庭学習が必要
同じ外部の機関でも、学校というものは、誰もが行って当然と思っていますから、中身のある勉強をすることができます。だから、文章を読むとか、計算の練習をするとか、みんなで話し合って何かを考えるとかいう中身のある活動をすることができます。
ところが、今の学校では、そういう中身のある勉強をすることが難しくなっています。それは、子供の学習環境が多様化しているために、学校の中でまとまった授業をすることが難しくなっているからです。
更に、少子化のため、集団活動のルールになじめない子も多く、クラスの中で全員が同じことをするという時間が取りにくくなっています。
すると、
学校で教えるのは基本のところまでで、それを定着させるのは家庭での学習でということになります。こういう面からも、家庭での自学自習が必要になっています。
ところが、その家庭での学習が、問題を解いて○や×をつけるような形の勉強になっていると、学校では勉強の入口を教えてもらい、家庭では勉強の出口を教えてもらうということになります。
肝心の勉強の中身の時間を確保することが、家庭学習では大事になります。そのために、勉強の仕方を工夫する必要があるのです。 (つづく)