近くの公園では、もうドングリの花が満開。(マテバシイの木)
今日のfacebook記事より。
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国語の苦手な子が増えています。
それは、国語を勉強としてやっているからです。
塾に行って、算数を1時間、国語を1時間、英語を1時間やってバランスよく国語の力がつくのではありません。
国語は、生活の中で、読み、書き、聞き、話す時間を豊かに過ごすことで力がつきます。
だから、国語の得意な子ほど、国語の勉強を特にしていないということがよくあるのです。
今の子供たちの置かれている環境は、物の生活が豊かになった分、言葉の生活が貧しくなっています。
昔は、娯楽が少なかったので、子供たちは夕方よく本を読んで過ごしていました。
テレビが普及していなかった時代には、ラジオを聴くことが家族の共通の時間の使い方でした。
しかし、今は、子供が自分の部屋でひとりでテレビやゲームやインターネットに興じることができる環境も生まれています。
これらの娯楽は、遊びの敷居を低くするために、ますます言語を省略し、ビジュアルな刺激を際立たせるものになっています。
こういう生活の中で、国語のドリルを毎日何ページやるというようなことでは、国語の力は低下していって当然なのです。
子供たちの国語力の低下に危機感を感じた学校が、少しでも読書の機会を作ろうと「朝の10分間読書」を始めると、それを勘違いして、「読書は学校でやっているから、家でやらなくてもよくなった」と思ってしまう人たちもいるのです。
読書こそ、子供たちの国語力を育てるいちばんの要になるものです。
読書、作文、対話の生活を充実させることが、子供たちの国語力ばかりでなく学力全体を成長させるもとになっているのです。
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読み、書き、聞き、話すという日本語の生活を豊かにするといっても、何から手をつけていいかわからないという事情も確かにあります。
ここで生かせるのが、作文を中心として読書と対話の時間を豊かにするという勉強です。
ところが、世の中で行われている作文指導のほとんどは、作文そのものを直すことが中心になっています。
子供たちの書いた作文を直すことは誰でもできます。しかし、いくら直してもそれで作文が上手になるわけではありません。かえって、作文が苦手になり嫌いになっていくだけです。
しかし、では作文を褒めているだけでいいのかというと、それも少し違います。
褒めていれば、子供たちの作文は必ず上手になっていきますが、作文そのものを評価するだけでは、上達にはかなり時間がかかるのです。
それは、作文は、目的ではなく結果だからです。(つづく)