教育の役割は、人間の能力を高めることにあります。
人間の能力の中心は知力です。知力の中心は創造力ですが、創造力が現実に役立つものになるためには、材料となる知識や技術が必要です。だから、現在学校で行われているような基礎的な知識や技能の習得が、教育の大きな目標になります。
人間の能力の中には、知力以外のものもあります。その一つが体力です。体力には、持久力、瞬発力、巧緻性などがあります。また、病気や怪我に対する抵抗力、治癒力などもあります。この体力を高めることも、教育の大きな目標です。
人間の能力には、知力、体力以外のものもあります。日本では、昔から知育、体育、徳育ということが言われていました。知育が知力を育て、体育が体力を育てるものであるように、徳育は徳力を育てるものです。教育の大きな目標の第三は、この徳力を育てることです。
徳力は、現実的な形では、次のような力として表れます。
まず、物事がうまく進む力です。現実世界は、物理的な法則のもとに動いています。だから、物事が生起する現象は確率的なはずです。しかし、人間が関わるものには、確率をわずかに超える現象があります。このわずかな差を生み出すものが徳力の一面である想念力です。
想念力は、知力や体力ほど確実な目に見えるものではありません。しかし、人間社会では、この想念力のわずかな差が、しばしば大きな結果の違いとなって現れます。
徳力のもう一つの面は、身の回りの危険や安全を察知する力です。人間は、二つの選択肢があった場合、そのどちらかをランダムに選ぶのではありません。客観的な裏付けはないものの、勘によってよりよいものを選びます。このよりよいものを選ぶ微妙な力が、徳力のもう一つの面である心眼力です。
この想念力と心眼力、つまり心身力を伸ばすのが、心身教育の目標です。
教育には、評価の手段と習得の方法が必要です。
心身力の評価の手段は、想念力や心眼力の小さなシミュレーションです。
心身力の習得の方法は、あらゆるものに対する分け隔てのない愛のようなものです。
これは、具体的にはさまざまな形で表れます。関英男さんの述べた洗心のようなものや、塩谷信男さんの述べた前向きな心や、中村天風さんが述べた積極心のようなものと考えてもよいでしょう。つまり、怒らない、不満を言わない、愚痴をこぼさない、不安を持たない、周囲に感謝し思いやりを持ち、いつも明るく幸福な気持ちでいて、勇気を持ち積極心で生きていくというような心の姿勢のことです。
世間一般で考えられている人間の徳というものは、徳育教育の目的ではなく方法として考えていくものなのです。
心身力の習得の重点には、個人差があります。ある人にとっては怒らないことが、他の人にとっては愚痴をこぼさないことが、また他の人にとっては勇気を持つことが重点になります。課題は、人によって違うのです。だから、その内容は、他人が決めるものではありません。また、他人がその度合いを評価するものではありません。ここが、道徳や宗教と違うところです。
心身教育が進むことによって、人間の能力は大きく発展します。しかし、人間は生身の肉体を持った存在ですから、どれだけ心身力が発達しても、知力と体力は別の課題として追求していく必要があります。
そして、やがて、知育、体育、徳育のバランスのとれた人間になるというごく平凡なことが、教育の目的として改めて了解されるようになるのです。