大きい三角形を作るためには、底辺と高さをともに大きくしなければなりません。底辺だけが広かったり、高さだけが高かったりしても、面積は広くなりません。
勉強も同じです。知識は底辺のようなものですから、ある程度は広くしなければなりません。しかし、その知識に応じて意欲も高めて行かなければ、知識だけが詰まった辞書のような人間になってしまいます。
大人になって社会生活を始めると、学校時代に勉強したことのうち、確かに役立ったと思うものがあると同時に、ほとんど全く役立たなかったものがあることに気がつきます。
そして、基本的な読み書き計算だけはしっかり自分のものにしておく必要がありますが、それ以外の知識は必要に応じてやれば間に合うものだったということがわかってきます。
昔の勉強には、そういうバランス感覚がありました。だから、小中学校時代に朝から晩まで遊んでいるように見えても、学校で必要な知識はしっかり身につけていたのです。
そういう子供たちが大きくなって、知識も意欲もある社会人として成長していったのです。
ところが、今は、知識の底辺だけがやたらに広い子がいる一方、知識の底辺がほとんど作れない子もいます。勉強がバランス感覚をなくしているのです。
勉強の目的は、よい学校に入ることではありません。社会に出て、よい仕事をすることです。
そう考えれば、勉強に自然にバランス感覚ができてきます。
成績さえよければ、一夜漬けでもいいし、わからないところは適当に書いておけばいいし、まぐれで当たったらそれでもいい、と考えているならば、それは成績だけが目的になっているということです。
勉強は、人に勝つためにやるものではなく、自分の向上のためにやるものです。しかし、向上というだけでは目標がつかみにくいから、他人との競争も味付けとして少しは必要になるということなのです。
子供のころは、そういう大きなことはわかりません。だから、ほとんどの子は、親や先生に言われたことをそのまま熱心に取り組みます。
だからこそ、親は折にふれて、勉強の目的や人生の目的などを話しておく必要があるのです。そういう話をしてくれるのは、今の社会では親しかいないからです。
勉強以外の大きな話をする時間を作るためには、知識を詰め込む勉強はほどほどにしておく必要があります。
この一見、無駄に見えるような親子の雑談が、子供の考える力や意欲を伸ばしていきます。
作文の勉強というのも、そういう一見遠回りに見える親子の対話が、重要な役割を果たしています。
作文という結果として表れるものは氷山の上の部分です。水面下に隠れたもっと大きな部分は、経験や読書や親子の対話で成長していくのです。