子供のころ、近所の原っぱで泥団子を作って遊びました。だんだん、粘土質のあるいい土のあるところがわかるようになり、そこで硬い団子を作って遊んでいました。
そのうちに、その硬い団子にロウ石の白い粉をつけたらどうなるだろうと思い、団子の周りに塗ってみると、つやつや光る団子になりました。
そのうちまた、この白い粉に炭を混ぜたらどうなるだろうと思い、ロウ石に炭を混ぜて塗ると、銀色に光る団子になりました。
そのうちにまた、この泥団子の上にまた泥を塗るとどうなるかと思い、何重にもなった硬い銀色に光る泥団子を作りました。
遊びの面白さとは、このように次々と創意工夫が生まれてくることです。
これに対して、小学生のころの勉強は、本当につまらないものでした。
答えの既にある話を聞いているだけですから、退屈で退屈でたまらず、教科書のほとんどすべてのページに落書きを書いて遊んでいました。
勉強というものは、小中学生のころは,大部分が枠の決められた世界です。
これが、高校生や大学生になれば、やり方によっては創意工夫が生かせるのだと思いますが、小中学生の義務教育には、まずそういうことはありません。(灘中の橋本先生の「銀の匙」の授業などはその数少ない例だと思いますが)
だからこそ、義務教育は教育の基礎として大事なのだとも言えますが、子供にとってはそのつまらなさはやはりできるだけ避けたいものです。
だから、学校の勉強の枠の決められた時間を取り戻すかのように、放課後は夢中になって遊んだのです。
遊びがなぜ楽しいかというと、自分の自由意志でいくらでも工夫ができるからです。
コンピュータ・プログラミングの初期の世界は、こういう遊びで溢れていました。使える材料が少なく必要な知識が限られていたので、誰でも遊びに参加でき、そこで新しい発明や発見をして楽しむことができたのです。
ところが、その後コンピュータが発達すると、プログラミングの世界は、次第に勉強の世界になっていきました。
今の若い人が、昔の若い人のようにはコンピュータ・プログラミングに燃えないのは、遊びの要素よりも勉強の要素の方が多くなって来たからだと思います。
ところで、これからの時代に必要なのは、すべての人が自分の個性と創造性を発揮していくことです。それが、個人にとっても社会全体にとっても、理想となる生き方です。
すると、これからの教育は、答えのある勉強を教えるだけではなく、創造性を育てる遊びを教えるようになっていくと思います。
今の教育は、つまらない勉強にカラフルな彩りとおいしそうな味付けをして、何とか子供にたくさん食べさせようとしていますが、本当はそういうところにはもうこれ以上力を入れなくてもいいのです。
なぜなら、人間には、誰でももともと知的な向上心があるのですから、基本的なところだけをきちんと押さえておけば、あとは必要に応じて学んでいくのです。
大事なことは、子供たちの創意工夫ができる遊びを考案して、そこで子供たちが自然に工夫することを学ぶ機会を作ることです。
これからの教育は、勉強の教育と同じぐらい、自由な遊びの教育が必要になってくるのだと思います。
昔からある鬼ごっこのような単純な遊びにも「イマドキルール」ができていて面白いと思うことがあります。今、環境自体が昔とは変わりつつありますが、その中で、子供は自由な発想で、遊びに創意工夫をしているですね。