日本人は、世界の中でも珍しいほど正直な人が多いと思います。
それは、財布などの落とし物が届けられることが多いということに表れています。
しかし、世界の標準はたぶんそうではありません。
見つからなければ平気で嘘をつくという人は、かなり多いと思います。世界の犯罪の発生件数の統計などを見ると、そういう国ごとの差がよくわかります。
また、ビジネスでも普段の生活でも、賄賂が日常的に行われている国も多いようです。
日本の場合は、江戸時代の昔から、役人が清廉潔白でした。
江戸時代、日本に来たシュリーマンがそのことを詳しく書いています。
さて、こういう倫理感というものは、教育でどうにかなるものなのでしょうか。
もし、これがテストの問題で、
「人のものを盗るのはよいことですか、悪いことですか。正しい方に○をつけなさい。(1)よい、(2)悪い」
などという問題があったとしたら、どの国の人でも正解率は百パーセント近くになると思います。
なぜ、悪いことをする人でもよい方に〇をつけることができるというと、倫理感は、知識の問題としては測定できないからです。
これが、道徳教育を困難にさせている原因です。
道徳というものを従来の教育の延長で行おうとすれば、このような知識の問題として出すしかありません。
そして、すべての人が百点を取れたとしても、その社会が道徳的な社会になるわけではないのです。
すると、そのあとに出てくるものは、罰則を厳しくするという方法です。
これは、外見上は確かに効果があります。
しかし、人間の性格の根本が変わらないかぎり、罰則がないところでは平気で悪いことをするということは残ります。
そして、強力な罰則は、社会全体の共通ルールになるよりも、リーダーシップを持つ個人の恣意的な運用で実施されることが多いので、その個人がいなくなれば、また元に戻る確率が高いのです。
では、江戸時代までの日本の社会は、この道徳や倫理のような文化の教育をどのように行っていたのでしょうか。
教育は、理解してほしいことを知識として教えるのが基本です。
だから、江戸時代のころも、「嘘をつくのは悪いことで、正直なことがよいこと」という知識を教えたのです。
しかし、それを定着させる方法がありました。それは反復によって自然にそれが自分の血肉になるようにさせるという方法です。それが、素読と暗唱だったのです。
倫理観の基礎が素読によって形成されている社会では、読み物やことわざや日常会話の中でも、その倫理観に根ざした言葉が何度も繰り返されます。
それが社会全体の倫理観を更に強固なものにしていったのです。
よいものと悪いものを見分ける能力は、よいものを繰り返し見ることによって育ちます。
教育の基本は、よい言葉、よい行動、よい知識の反復で、その中でも最も身近な方法が素読と暗唱だったのです。
スペインでのできごとですが・・・8歳の子どもが、他の子のかばんから物を盗みました。盗まれた子が気づいて、返すよう言っても「だって欲しいんだもん」と泣いて返すのを嫌がる。そばにいた親も「返しなさい~買ってあげるから~」といかにも「なんでこんなことうちの子に言うのよ、大したもんじゃないのに」と言わんばかり。
日本だったら、親は泣いて謝り、子は真っ青になって震える・・・というところではないでしょうか。
日本の文化・教育に基づく倫理観は、本当に他に類を見ない素晴らしいものだと思います。
古くから読み継がれている絵本や本にも、こうした文化が背景になっている作品がたくさんありますね。日本人として、こういうものを子供にしっかりと伝えていきたいと、心から思います。