映像技術の発達によって、学習内容を画像や映像や図解でわかりやすく説明することが多くなってきました。
タブレットを使った授業などでも、主に映像を見て複雑な事象を理解するというような使われ方がよくされているようです。
わかりにくいことをわかりやすく理解するという点で、図解や映像による説明は効果的です。
言葉で説明すると複雑になることでも、図や絵で示せば一目でわかるという例は身の回りにも数多くあります。
しかし、ここに映像による理解の弱点もまたあるのです。
それはなぜかというと、映像というものは完全な形として現れるので、それをそのまま事実として受け入れるというような理解の仕方になるからです。
映像ではなく文章で同じことを説明しようとすると、その結論に至るまでの理由や背景や原因を述べなければなりません。
比喩的に言えば、映像が身体の表面の皮膚の様子を映し出すのに対して、文章はその表面を形作る内部の筋肉や骨格も合わせて説明する必要があるというようなことです。
例えば、夕焼けがなぜ赤く見えるのかということを映像で説明しようとすれば、太陽の光の中で波長の長い赤い光が途中の空気中の微粒子との衝突をくぐり抜けて遠くにいる人の目まで届くというような映像になるでしょう。
すると、あたかもその映像で一目瞭然のように、夕焼けが赤く見える現象が理解できるような気がするのです。
そこには、ほとんどの場合、何の疑問もわきません。
ところが、文章で、「光の波長の長さが」というような説明すれば、その「波長」という言葉自体が新たな説明を要する多様な広がりを持ってくるので、現象を理解をするために様々な言葉の理解をする必要が出てきます。
すると、例えば「波長」という言葉で表していたものが、実は別の言葉でも表せるのではないかというような疑問や発見が生まれることがあるのです。
文章を読むということは、この多様な言葉の組み合わせを目で読みなぞりながら自分なりに理解することです。
これが、思考するということです。
ですから、ある勉強を完成されたものとして理解させるために映像を使うのであれば、それは効果的なことです。
しかし、子供に自分自身で考える力をつけるためには、分かりやすい映像の理解ではなく文章を通しての理解をさせる必要があります。
説明文の読書が考える力を育てるというのは、こういう事情があるからなのです。