学習の基本は模倣です。
模倣のもとになるものは、憧れです。
読書好きな子は、身近にいる読書好きな人を見て、その姿に憧れて本を読み出したということが多いのです。
同じことが作文にも言えます。
親が、構想図を書き、楽しそうに子供の作文を書き、その作文をもとに家族の対話が進むようになれば、子供はいつか自分もそういう作文を書きたいと思うようになります。
ここで大事になるのは、お母さん以外のほかの家族、例えば、お父さんや、その子の兄弟も含めた家族全体の協力体制です。
子供が話したことをもとに、お母さんが作文を書き、その作文に対して、お父さんがコメントを書き、お兄さんやお姉さんもコメントを書くというようなことができるといいのです。
コメントは決してオーバーなものである必要はありません。
絵の好きなお父さんならば、漫画のようなものを余白にかいておくだけでもいいのです。
子供の作文を中心に、家族全体の輪ができるというイメージで考えていくことです。
この家族の協力、特にお父さんの協力は、子供の学年が上がったときに生きてきます。
お父さんは、普通仕事からの帰りが遅いことが多く、子供の生活や教育に深く関わりにくいところがあります。
小学校低学年のころは、それでも親子の対話が成り立ちますが、子供が高学年になり、勉強が難しくなると、普段の対話がない父親と子供は、話す話題が限られてきます。
それで、勉強や成績のことばかりが話題の中身になると、子供とのコミュニケーションは更に薄くなってきます。
本当は、小学校高学年の考える作文のテーマで、社会生活をしている父親がいろいろな具体例を話してあげるといいのです。
そういう高学年になってからの父親と子供の対話の土台が、小学校低中学年の作文をもとにした親子の対話です。
ここで大事なことは、対話はディベートではないということです。
日本人は、イエスとノーを物事に対してではなく、相手に対して言う文化の中にいます。
だから、「それは、ちょっと違うなあ」というような否定的な言葉は、相手の話す気持ちを萎縮させてしまいます。
対等の間柄であれば、そういう批判や反論もそれなりに面白いのでしょうが、親子の間で親が子供の意見に反論を述べると、子供はのびのびと話せなくなるのです。
だから、ここが日本語の工夫の必要なところです。
発言は、相手の話に対する似た例を中心にし、反対意見があるときは、反対意見をそのまま述べるのではなく、反対意見への理解という形で反対論も引用していくといいのです。
例えば、子供が、「僕はAだと思う」という意見で、親がBだと思うときは、「確かに、Bという考えもあるけど、○君の言っているようにAという考えもあるよね」という言い方です。
言うことの中身は同じでも、言い方次第で、楽しい話になったり、言い争うような話になったりするのが、日本語の特色なのだと理解しておくことが大切です。
だから、話し言葉の最初は、「でも」や「だけど」でなく、「確かに」「そうだね」という言葉で始めていくといいのです。
大事なのは、言いたいことの中身ですから、その外側の表現はできるだけ穏やかなものにしおくことです。
(つづく)