「差は家庭でつく」というのは刺激的なタイトルですが、実は、これは単に学校の成績の差がつくということだけではありません。もっと大きな人間の能力の差が家庭でつくということです。
全国の学力調査の結果は、いろいろなことを示しました。はっきりわかったことの一つは、地域によって学力の差があるということでした。この地域による差がどこに帰因するかを考える必要があります。
学校教育のレベルは、地域によって大して変わるものではありません。学校よりも広い範囲をカバーする大規模学習塾のレベルは、更に差が少ないと思われます。そう考えると、差の原因は、家庭教育にあるのではないかということです。
この学力の差として表れた家庭教育の差は、実は学力の差よりももっと大きな人間力の差を生み出しているように思います。
理想的な家庭は、昔で言えば厳父慈母の家庭です。現代風に言うと、父親の勇気、母親の愛、そして子育てのノウハウとしての家庭教育の知恵がある家庭です。
家庭教育の充実を考えるとき、経済状態の差も考慮しないわけにはいきません。しかし、現代よりももっと貧しい昔の時代にも、立派な家庭教育は行われていました。また、当然、現代でも、貧しい環境の中で立派な家庭教育が行われている例はいくらでも挙げられます。経済状態の差は、知恵と努力によって克服できる二次的なものに過ぎません。
この家庭教育のノウハウとしての知恵を提供するのが、今後の教育機関の役割になると思います。
現在の学校教育や塾教育の形態は、過渡的なものです。例えば、通信教育は、通学が行えないというやむをえない状態で生まれた形態です。逆に、駅前に立地する大きな学習塾は、生徒数をたくさん集めて規模の経営をせざるをえないというこれもやむをえない状態で生まれた形態です。更に、学校が教育のすべてを担うということ自体が過渡的な形態です。なぜならば、学校と子供の間にある地域や家庭が、現在の教育では抜け落ちているからです。
将来の理想的な教育の形態は、次のようになると思います。第一に、現在の学校のような数百人単位の拠点は引き続き必要です。第二に、その学校の中に指導の中核となる数十人単位の学級があります。しかし、この学級は学校と同じ場所に置かれるのではなく、地域の中に置かれるべきだと思います。地域の運営に任される寺子屋的な学級は、雰囲気としては現在の公文教室のようなものになると思います。つまり、教育の中核である学級は、隣近所という地域に根ざしたものになるということです。これは、核家族化や少子化に対する教育的な対策にもなります。第三に、家庭においては、生活を通した教育が行われます。この学校—地域の学級—家庭という三つのレベルが組み合わさった形が、将来の安定した教育形態になると思います。
戦後の日本において家庭教育が崩壊したのは、核家族化の進展と無関係ではありません。祖父母から父母へと伝えられてきた家庭教育の伝統が、核家族化によって切れてしまったことに一つの問題があります。
家庭とは、決して宿題対策やテスト対策の場ではありません。また、単に食べてテレビを見て寝るという場でもありません。もっと豊かに子供たちの根を育てる場所になるべきです。
言葉の森は、今後、通学教室を広げていく予定です。そこで、理想的な家庭教育のノウハウを広げていきたいと思います。例えば、読書、ゲーム、テレビ、対話、しつけなどをどう行うかというようなノウハウです。もちろん勉強のノウハウが中心になりますが、もっと総合的な人間教育を伴うことが、勉強のノウハウをより根の深いものにしていくと思います。
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
音声入力
構成図をもとに音声入力した原稿を2倍速にしたものです。
2倍速
ブログ
森川林のブログに四行詩を更新しました。
「googleの先にあるもの、youtubeの先にあるもの」
http://ameblo.jp/kotomori/entry-10172432717.html
家庭が教育の基本であるというのは、本当にそのとおりだと思います。我が家は、共働きのため、ゆっくり子供と対話する時間が取れず、ジレンマを感じることも少なくありません。でも、子供と接する時間の長さよりもその温かい雰囲気のようなものの方が重要なのだと自分に言い聞かせつつ、子供と向き合っております。ときには、子供との間にすきま風が吹くこともありますが…。
今後、通学教室を広げていかれるとのこと、神戸にも是非是非進出なさってください。楽しみに待っています。