小学1年生から中学1年生の国語と算数と理科の問題集を見ていてふと思いました。
ここで勉強したことの多くは、忘れてしまっても、生涯困ることのないようなものだろうということです。
ただテストがあるから覚えなければならない、といった類の勉強が問題集のかなりの部分を占めているのです。。
例えば、国語の勉強で、どの言葉がどこにかかるかというようなことは、小学生が覚える必要はないことだと思います。
文章を読んで内容を理解することさえできれば、主語がどうしたとか述語がどうしたとかいうことは二の次、三の次のの問題です。
また小カッコや大カッコや分数や小数を使った複雑な計算も、計算する順序さえ理解していればいいことであって、それを間違えずに早く計算する能力は、電卓の時代にはほとんど必要ありません。
中学生の理科で、左心房、左心室、右心房、右心室という区別をする勉強がありますが、それもそういう区別があるということを分かっていればいいのであって、どこからどこに血液が移動するかというようなところまでは覚えておく必要はありません。それらの知識は人間が覚えていなくても教科書を見ればすぐにわかることだからです。
というようなことを考えると、現在の教育を改善するには、テストで、辞書持ち込み可、電卓持ち込み可、教科書持ち込み可、インターネット検索可を原則にするのが、いちばん手っ取り早い方法になるではないかと思います。
そういう、すべて持ち込み可のテストで残るのは何かと言えば、やはり作文と口頭試問です。
その作文と口頭試問の実力をつけるのは、読書と対話と文章を書く練習です。
特に重要なのは、高度な読書です。
しかし、なぜそういうテストが行なわれないかというと、採点する手間がかかりすぎるからです。
教わる側のことを考えるよりも、教える側の都合で教育が行なわれていることにいちばんの問題があるのです。
これが、心に残らない勉強です。
では、心に残る勉強とはどういう勉強でしょうか。
それは、逆説的に聞こえるかもしれませんが、今挙げた細かい知識の勉強でもあるのです。
ほとんどの人にとって生涯不要になる煩瑣な知識であっても、それが人類の学問からも不要になるのかというとそうではありません。
心臓の細かい働きに強い興味を持っている子は、その知識を学校のテストで求められる以上に深めたいと思うかもしれません。
言葉と言葉の関わりに興味を持った子は、主語や述語や修飾語という区分を超えて、更に深く文法の研究をするようになるかもしれません。
大事なことは、興味を持った人がその興味の範囲で高度な研究をしていくことであって、そのための基礎学力は今のように高く設定しておく必要はないということなのです。
今の学校の勉強のほとんどは、興味の持てない知識をテストという評価によって子供たちに強制しています。
だから、そこで得た知識は、テストが終わればほとんど忘れてしまう心に残らない勉強になっているのです。
心に残る勉強とは、自分が興味を持ったものを研究し、その研究成果を発表する勉強です。
受け身の勉強は心に残りませんが、主体的な勉強は心に残る勉強になるのです。
これからの教育を考えた場合、本当の学力をつけるのは、そのような心に残る勉強の時間をできるだけ多く取ることです。
言葉の森が今取り組んでいる
寺オン作文コースや
発表学習コースについても、その目的は、自分から進んで興味のあることを学ぶという心に残る勉強の時間を大事にしたいということです。
これまでの終身雇用時代の価値観で考えると、人に教わるとか、テストで強制されるとか、間違いを直されるとかいう勉強が、勉強らしい勉強だと思えると思います。
しかし、そのような勉強は、その子のその後の人生にほとんど何ももたらしません。
本人が興味を持って取り組んだことが、あとまで生きる心に残る勉強になるのです。