塩谷信男さんは、次のようなことを言っています。
宇宙は、地球の自転や公転も含めて完璧な秩序の中で動いている。だから、人生も本当は完璧であるはずで、それは人間以外のあらゆる生命も含めて、完全な平和と幸福の中に本当は生きられるはずなのだということです。
私たちはつい目先のことに追われ、暑いとか寒いとか忙しいとかいうことばかりをよく言っています。そして、とりあえず、今日か明日、もう少し長くて今年か来年うまく行けばよいという考えになりがちです。
しかし、本当は、自分以外のあらゆる人間や生物も含めて、完璧な秩序と幸福の中で生きることのできる世の中を目指すべきなのです。少なくとも、その役割を持っているのが人間だと思うことなのです。
その塩谷さんの言っていたことに、「愚痴をこぼさない」ということがありました。
私は、最初この言葉を見て、「ふうん、そうだろうなあ」と思っただけでしたが、実はここに重要な意味があるのではないかということがわかりました。
話は変わりますが、松久正さんという人がいます。松果体のことを書いている人ですが、この人が次のようなことを言っていました。
それは、自分に起きたことは、それがどんなことであっても、自分が選んだことで、それがよかったことなのだと思うということです。
また、話は変わりますが、日月神示という本に次のような一説があります。
「今の自分の環境がどんなであろうと、それは事実であるぞ。境遇に不足申すなよ。現在を足場として境遇を美化し、善化してすすめ。」
私たちは、よく失敗をしたり、間違いをしたりします。又は、ほかの人からそういうことをされることもあります。また、偶然の事故や災難に巻き込まれることもあります。うっかりつまずいて転ぶとか、水の入ったコップをひっくり返すなどということは日常茶飯事です。また、朝起きたら雨が降っていたとか、乗ろうとした電車に間に合わなかったなどということもよくあります。
しかし、そういう自分にとって嫌なことだと思うことすべてを、自分が選んだことであり、それがよかったことだと思い直すのです。
小さな理屈の世界では、嫌なことは嫌なことで、それはない方がよかったことなのですが、いったん起きてしまったことに、それがない方がよかったと言っても、ものごとは何も変わりません。
その境遇を美化し、善化して進むという姿勢が大事なのです。
大きな目で見れば、人間はひとつの大きな存在のようなものです。
自分と相手がいるのではなく、自分も相手も同じひとつの存在の一部です。
自分が得して相手が損したとか、逆に自分が損して相手が得したとかいうことはなく、同じ一つの損得を自分と相手で分かち合っているということです。
そのように思うことによって何が変わるかというと、その境遇を卒業するのです。
嫌なことを嫌なことだと思い続けていれば、それはその嫌なことを卒業できていないことですから、同じような嫌なことにまた形を変えて挑戦しなければなりません。
嫌なことをよかったことだと思うことによって、その嫌なことを卒業し、今度はもっと先にあるより大きな創造に挑戦するようになるのです。