昔は、「生き字引」とか「歩く辞書」とかいう言葉は、人を褒める言葉でした。
しかし、今は、「辞書のような人間にはなるな」と、全く逆のことが言われます。
これからは、従来の勉強のように記憶した知識を再現するような勉強は必要なくなってきます。
スマホを使ってインターネットで調べればすぐにわかることを、テストのために一夜漬けで記憶するということの空しさを、多くの中高生は感じています。
知識を詰め込むようなことは、今後ますます必要なくなってくるのです。
しかし、ここで考えなければならないことがあります。
例えば、交通機関が発達したから、もう歩く必要もなくなると言って、足を退化させてしまったとしたら、それは足の退化だけにとどまるのではなく、人間の全体的な生きる力もそこで退化していくはずです。
記憶力も同様です。
知識を記憶する必要がなくなってきたからと言って、記憶力を使わなくなっていくと、それは記憶力の退化にとどまらず、人間の総合的な学力もまた退化していくのです。
典型的な似た例が、論文を自分で書かずに、コピペで済ませてしまう学生です。
手軽にコピーできる時代になったから、自分で考えて書く力はもう必要なくなったのだとは言えません。
たとえ下手でも、自分で書く力をつけておくことが、その人の学力になるのであり、それを成長させることが人間の向上になるからです。
岡潔さんが、「一葉舟」という本の中で、次のように書いていました。
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いまの教育で一番欠けているものとして、目につきますものは、むしろ意志教育です。
意志の教育が欠けるということは、意志を使わさない、ということです。たとえば、以前は習ったものは覚えようというのが原則でした。このごろは記憶しなくてもよいということになっている。ところが記憶しようと思いますと、非常に意志的努力がいるのです。あの意志的努力は重ねていますとある時期──だいたい中学二、三年になれば、精神統一力になるのです。精神統一というのは意志力の現われなのです。
記憶には、二種類ありまして、小学校へはいる一年前から小学校一、二年ごろは非常にある意味で記憶がよい。このころの記憶力は、無努力の記憶です。だから意志的努力はしないのです。その後また小学校五、六年ごろから、第二の記憶力が伸びてきます。この記憶は意志的努力を欠いては覚えられないのです。
クリエーションの働きは、前頭葉で精神統一下において行なわれるので、心を散らしたままするんじゃありません。だから意志教育が欠けておれば、それができんわけです。」
(『一葉舟 (角川ソフィア文庫)』(岡 潔 著)より)
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言葉の森で行っている暗唱も、小学一、二年生の子は、どんなに難しい文章でもすぐに暗唱できるようになります。
だから、この時期は、暗唱の勉強を家庭学習の中に組み入れていくのに最適な時期です。
暗唱の習慣がつくと、語彙力が増え、読む力もつき、将来の書く力も育ちます。
そして、何よりも覚えることが苦にならなくなり、それどころか逆に覚えることが楽しくなってくるのです。
しかし、小学校三、四年生から暗唱を始めると、暗唱を難しく感じる子が多くなります。
それは、覚える力が減退したからではなく、理屈で理解する力が増してきたために、覚えることも理解を媒介にして覚えようとするからです。
その方法のひとつが、語呂合わせです。
語呂合わせは、もちろん元素記号を覚えるような少量の記憶を確実に定着させることにはきわめて有効です。
しかし、長い文章を丸ごと暗唱するには、繰り返し音読して暗唱力を付ける方法しかないのです。
この暗唱力をつけることは、ただの暗唱力にとどまらず、意志力を育て、それが精神統一力と創造力に結びつくことは、岡潔さんの言うとおりだと思います。
今はまだ、教育に携わる人の多くが、この暗唱力の大切さに気づいていません。
入試も含めて、暗唱を評価するような仕組みは、ほとんどどこにもありません。
せいぜい、学校で百人一首大会をするぐらいです。
その百人一首も、カルタ競技のようなわけのわからない方向に進みがちです。
だから、言葉の森が、日本語で書かれた内容的にも表現的にも優れた文章を選んで暗唱文集を作り、暗唱検定を行うようにしたのです。
いつかまた、齋藤孝さんあたりが真似をして、暗唱の本を書くようになると思いますが、大事なことは表面的な暗唱の形ではなく、人間の内面における暗唱の教育的な意味なのです。