AIはすでに十分に発達していますが、更にそれが加速します。
子供たちの勉強は、これから、AIと結びつくかたちで進みます。
そのときに、人間が受ける教育はどうあるべきかということを考えておく必要があります。
人間がAIと違う点は、身体を持つことです。
この身体性によって、人間は特定の時間と空間の中で生きるようになります。
もちろん、AIも、時間と空間を指定すれば、それに応じた対応をします。
しかし、AI自身が、特定の時間と空間の中に生きているわけではありません。
わかりやすい例で言えば、人間は、例えば誰かが好きになります。
しかし、AIは特定の誰かを好きになったり嫌いになったりすることはありません。
これが、身体性の違いです。
現在、学校で行われている教育の多くは、身体性とは無縁です。
だから、AIで教育ができます。
すると、今後の教育の主な場所は、学校ではなく、家庭になります。
AIに教えてもらい、AIに質問し、AIに評価してもらえばそれで十分です。
しかし、それでは、人間の主体性がありません。
人間が持つ身体性は、AIとは異なる価値を生み出します。
それが、ひとつは、問題意識や義憤と呼ばれるようなものです。
もう一つは、夢や憧れや希望と呼ばれるようなものです。
AIは、本質的に問題意識や夢を持ちません。
人間が、AIに問題意識や夢を与えて、初めてそのために動くのです。
話が少し飛びますが、AIが感情を持つかどうかということも、これでわかります。
AIは、感情を持つ動作をすることはできますが、感情は持ちません。
それは、AIは身体性を伴っていないからです。
もうひとつ話は飛びますが、AIが人間に反抗したり人間を支配したりするようになるかという話がありますが、それは原理的にありません。
AIは、あらゆる情報を総合して考えます。
すると、Aとって有利なことがBにとって不利であり、Bにとって有利なことがCにとって不利なことであることもわかります。
すると、BにもCにも有利になることが、結局は回り回ってAにとっても有利になることがわかります。
そこでAIが出す結論は、「最大多数の最大幸福」のようなものになるのです。
さて、話は戻って、人間はこれからどう生きるべきかということです。
AIが誰でも利用できるようになり、ロボットが誰でも利用できるようになると、人間の生活は便利になります。
しかし、そこで、人間は、次第にサルになっていく可能性があります。
テレビを見るサル、必要なボタンを押せるサル、AIに何でも教えてもらえるサルになる可能性もあるのです。
サルになった人間は、AIに新しい問題意識や新しい夢を指示することはできません。
だから、ここで、新しい教育が必要になるのです。
その教育とは、これまでのようにAIに近づくことを目指す教育ではありません。
人間の身体性を生かし、人間がいつまでも新しい問題意識と新しい夢を持つための教育です。(つづく)