10月の新学期から、長文の数を増やし、読解マラソンができるようにしていく予定です。
それに関連して、長文を横書きにして、ルビをつけるようにするつもりです。
今日は、ルビを自動的につけるスクリプトを作っていました。
●https://www.mori7.info/musi/123456.php
苦労したのは、「取り組む(とりくむ)」などとなってしまうのを「取(と)り組(く)む」と表示できるようにしたところです。(大した苦労ではありませんが(^^ゞ でも、いろいろ手直しが必要で、ほぼ一日かかってしまいました。(T_T))
月曜日は、新しい課題フォルダを作る予定です。
以上、ささやかな近況報告。
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子供たちの思考力・記述力の低下が指摘されています。
朝日新聞7月15日の記事より。
「国立教育政策研究所は14日、全国の小学4年〜中学3年の約3万7000人を対象に初めて実施した国語と算数・数学の「特定課題調査」の結果を公表した。難点として浮かび上がったのは、論理的に考えたり、筋道立てて考えを表現したりする力。答えは出せても、そこに至る過程を説明できない傾向もあり、研究所は「国数ともに、文章をもっと書かせる指導が必要」と指摘している。」
同じく、朝日新聞9月1日の記事より。
「単純計算よりも理解力に難点——。文部科学省所管の財団法人「総合初等教育研究所」が全国の小学生約9000人を対象に実施した計算力調査で、単純に数式を解く計算技能よりも、計算技能を支える「理解力」に課題があることがわかった。理解力を試す問題では、正答率が3〜6割と低いものもあった。単純な計算技能については、98年の調査結果とほぼ同じ水準だった。」
教室の子供たちを見ていると、考える問題に喜んで取り組む子と、考える問題を最初から放棄する子に分かれるようです。
その差は、ひとことで言えば日本語力の差です。考えることが苦手な子は、考える問題に対して、自分の日本語力がついていかないために考えることをあきらめてしまうのです。
その原因は、単純な技能や記憶が評価される一方、じっくり考える力が評価されない今の教育環境にあります。
学習教材のほとんどは、単純な技能や記憶の再現を評価する形で作られています。eラーニングというと、名前こそ新しいように聞こえますが、その中身は旧態依然の知識の定着度を調べるだけのものです。
基本的な技能や知識を習得することはもちろん大切ですが、問題は、そこに重点が置かれすぎていることです。漢字の書き取りや、算数の計算問題は、先生も教えやすいし、子供も取り組みやすいし、親も満足しやすい勉強形態です。そしてまた、そういう教材は作成が容易です。
このために、現在の日本では、理解を伴わない単純な反復型の勉強が主流になり、その結果が思考力低下という教育調査として表れているのです。
では、家庭ではどのように対策を立てたらいいのでしょうか。
いちばんやりやすいのは、日常生活の中で、親が子に理解力を必要とするような会話をすることです。
例えば、「たまごやきを作ったこと」などの作文課題で、たまごやきを親子で作るときなどに、「はい、たまご」「ほら、割って」「ふた、しめて」「それ、できあがり」というような言葉の羅列だけで会話をしていてはだめです。
「たまごの殻というのは、ヒナが割って出てこられるぐらいにやわらかく、でも、親鳥が温めるために上に乗っても壊れないぐらいにかたくできているんだよ。だから、たまごを割るときはそのヒナが殻を割るぐらいの力加減でやる。それ。あ、失敗しちゃった」などのように、子供が実際の必要性から聞きたくなるような場面で、理由や原因がわかるような長い文を、面白おかしく楽しく話してあげることです。
小学生のうちに、このような会話の環境で育った子は、自然に理解力・思考力が備わってきます。
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子供向けの本というと、ほとんどが物語です。もちろん物語も大事ですが、自然科学や社会科学などの本があまりにも少ないように思えます。
しかも、その数少ない科学の本の多くは、子供向けに内容を薄めて書いているようです。言わば、学習漫画を文章にしたような内容なのです。その結果、科学の本の多くは、断片的な知識だけを提供するような作りになっています。
私はもっと、原因や結果を構造的に考えさせるような子供向けの科学の本が登場するべきだと思っています。その点で評価したいのが、今は絶版となった「世界ふしぎめぐり」シリーズです。また、毎日小学生新聞などに掲載される子供向けの解説記事にも優れたものがあります。また、物理学者寺田寅彦のエッセイは、この分野では古典と言ってもいいでしょう。
世間でよく売れている科学の本に共通する大きな弱点は、文章が雑だということです。知識をわかりやすく伝えるという目的のために、表現をくずしているところがあるのです。例えば、次のような書き方です。
「気孔は、二酸化炭素をすって、酸素をはき出す場所だったよね。○ちゃんが葉っぱの裏側に多いって言ってたけど、実は表や茎にも少しはあるんだよ。ただ、圧倒的に葉っぱの裏側が多いんだけどね。」
知識を必要以上に正確に伝えようとすれば、文章はどうしてもつまらなくなります。そこで、話し言葉を多用して敷居を低くしようとしているのです。それはもちろん善意の試みです。しかし、子供の本という本来の目的から見るとやはり方向がずれているのです。
子供向けの本は、理科や社会の知識を詰め込むために読ませるものではありません。自然や社会の構造の不思議さに感動するためにあります。そのためには、細かい網羅的な知識は大胆に省略し、肝心の仕組みだけを格調の高い文章で書く必要があります。
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森リンの点数を修正しています。
1、カタカナの一部も重量語彙に含まれるようにしました。
2、素材語彙・重量語彙・強力語彙のそれぞれに文書出現頻度の重み付けをしました。(これまでの1万件の作文から約10万語について、「idf=log(全文書数/出現文書数)」を計算し、その数値にこれまでの点数との継続性があるように係数をかけました。
その結果、普段あまり使われていない語彙で書かれた作文は点数が高めになっています。
本当はこのあと、課題と文章の一致度を評価する仕組みも入れるようかと思っていましたが、実際上の効果があまり見込めないので見送りました。
※idf……inverse document frequency(文書の頻度の逆数)
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欠席の連絡があるときは、「伝言メール」のページから送信すると、先生にメールで直接連絡が行きます。
https://www.mori7.com/outi/d/
授業のある時間の直前に連絡をしても対応できますのでぜひご利用ください。
(これまでのように、電話で教室にご連絡いただいてもけっこうです)
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桑田です。昨日は用事があった為電話に出ることが出来ませんでした。連絡が遅くなってしまいすみませんでした。
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作文教育の目標は、正しく分かりやすく書くという基礎力をつけることだけにあるのではありません。また、入試に合格する作文小論文を書くということのためだけにあるのでもありません。作文によって創造性を育てることにあります。
創造性が、三角形の高さだとすると、その底辺は材料の豊富さです。作文を支える材料は、読むこと(読解)によってもたらされます。
読解教育も、現在、速く正しく読むという目標と、受験の国語で高得点を取るという二つの目標に分化しているように見えます。
速く正しく読むことは読解の基礎力をつける点で大切ですが、速読力だけを独自に追求するような読む力では、ある程度の読解力までしか育ちません。内容を消化しつつ読む場合のスピードは文章の難しさにもよりますが大体2000字が限度ですから、5000字や1万字も読むような速読力は、読解力とは関係のない別の能力です。
受験の国語力は、ある程度までは読解力を反映していますが、難度が増すにつれて読解力よりもクイズを解く力が必要になってきます。つまり、読解力の低い子に低い点数をつけることはできますが、読解力の高い子には高いなりの評価を出すことができません。そのために、国語の難問は、悪文をもとにした悪問になりがちなのです。国語の勉強をしすぎると作文が下手になるのはこのためです。
読解力の本質は、向上です。それは、知識を向上させることから始まり、ものの見方や考え方を向上させ、自分自身を向上させることにつながります。読むことが、ただ単に一時的な知識を増やすだけであれば、文章を読むことは辞書を引くことと変わりません。
読むことによって、知識や思考の枠組みが向上するからこそ、最初の読み方よりも後からの読み方の方が、読む深さが増すのです。同じ文章を同じように読み、その文章をもとにした国語問題で同じような点数を取っていても、実はその文章を読み取る深さは人によって違います。
この読み取りの深さを評価する方法は、それを作文の材料としてどのように生かせるかということです。それは、作文に留まらず、自分の人生や身の回りの状況にどのように生かせるかということにもつながっていきます。
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社会に出てから使える能力は、単純にその人がもともと持っている能力の総和ではありません。
その人が既に持っている能力を前提として、それらをそのときどきの目標に向けて、創造的に組み合わせる能力こそが社会で生かせる能力です。
通常、学校ではそのような能力の教育はなされません。学校の目的は、能力を伸ばすことですから、そのためには自由に選択できる手段を制限して、限られた細い水路の中で、特定の能力だけを伸ばす訓練をする必要があるからです。例えば、社会に跳び箱のような障害物があった場合、それをうまく跳び越す人ももちろんいるでしょうが、中には迂回したり、跳び箱そのものを片付けたり、はしごをかけて跳び越えたりする人もいます。それらすべてその人にとっての創造的な解決策なのです。
では、この創造的な能力はどこで身につくのでしょうか。それは、主に遊びの中でです。遊びには、目標はあっても手段の制限はありません。この遊びの中で子供たちは、自分の持っている能力を最大限に生かすための創造性を学んでいくのです。
この遊びによる創造性と同じ役割を果たす勉強が作文です。
作文の中で身につく能力は確かにあります。それは、一定の時間に目標とする字数を正確にわかりやすく書く力です。しかし、作文の本当の目標はその先にあります。それは、自分が今持っている材料(実例、語彙、思考力)を有効に組み合わせてよりよい文章を書くという能力です。
作文を書く面白さは、実はここにあります。書くことによって、新しいものの見方、新しい表現の仕方、個性、感動、共感、ユーモアなどを美的に創造するというのが作文の目的です。
現在の作文教育は、正しくわかりやすく書くという初歩的な段階の指導と、作文小論文入試に合格するために書くという受験対策的な指導とに分化しています。しかし、作文教育の本道は、創造性を育てる作文という第三の道にあるのです。
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世間では単線的な学力観が根強くあります。例えば国語の成績で言えば、学力の高い方から順に5・4・3・2・1という成績がついていくという考え方です。この考え方は、子供が小学校から高校に通っているころには、そのまま子供社会の現実とほぼ一致します。したがって、子供が小学生から高校生にかけての親も、学力は高い方から低い方にピラミッドのような構造で成り立っているという考え方をしがちです。その考え方はもちろん間違っていません。問題は、そのピラミッドのような構造がそのまま社会に出てからも続いていくように考えがちな点にあります。
ピラミッドの上にいる子は、そのまま将来もその位置が約束されたかのように感じ、ピラミッドの中間にいる子は、そのまま将来もその位置に甘んじなければならないように感じてしまうのです。
ところが、実際の社会を見てみると、そのようなピラミッドとは違った構造があることに気づきます。世の中には、多種多様の職業があり、IT産業で働く人もいれば、八百屋さんで働く人もいます。歌を歌うことを仕事にしている人もいれば、会計の記帳を仕事にしている人もいます。それぞれ自分の置かれた立場で、自分の持ち味を生かして仕事をしているのです。
学校時代が、学力を育てるための時代だとすれば、社会は、その学力を生かす時代です。高い学力があることは、広い底辺を持つという点で有利なことですが、それだけでは学力を生かしたことにはなりません。学力を生かすとは、既にある学力を前提にして、それを創造的に組み合わせるということです。この創造性こそが、社会に出てから重要な能力なのです。
ピアニストの舘野泉(たてのいずみ)氏は、脳溢血で右手の自由を失います。しかし、彼は左手だけで弾ける曲があることを発見します。過去の時代にもやはり、舘野氏のように病気や事故で片手を失ったピアニストたちがいたのです。彼らは、不足している片手の能力を嘆くのではなく、今自分が使えるもう一つの片手の能力を生かすことで音楽活動を続けようとしました。
今自分が使えるものを生かす。これが作文的な勉強です。
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