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記事 1020番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/2/1
作文教室「言葉の森」の受験作文指導 as/1020.html
森川林 2010/09/17 11:34 



 世の中には、作文教室という名前の教室はいくつもありますが、言葉の森のように作文だけを専門に教えているところはほとんどありません。しかも、幼稚園年長から高校3年生、場合によっては社会人まで一貫して指導しているところはまずありません。

 世間の多くの作文教室は、国語の勉強に付属する形で作文の指導をしています。それは、ひとつには、作文を学びたいというニーズが生徒の側にそれほどないからです。もうひとつには、作文の指導は教えるにも評価するにも手間がかかるが、そのわりには成果が出ないからです。国語の勉強として漢字の練習や読解の練習などを中心に行えば、教えやすく成果も出やすくなります。

 言葉の森で、国語的な勉強をほとんど行わないのは、国語の力は先生が教えるようなものではなく、生徒が自分で身につけるものだと考えているからです。その具体的な方法として、今力を入れているのは、長文の暗唱、毎日の読書、問題集読書、四行詩、課題をもとにした親子の対話などです。

 作文力は、国語力の集大成のようなものです。作文の実力の中に、その子のトータルな国語力が表れます。しかし、その作文に見られる実力は、国語力の結果ですから、作文だけを指導しても作文力はなかなかつきません。親や先生がよく誤解するのは、ここです。

 樹木を育てる例で言うと、問題は根っこの部分にあるのに、つい表面に出ている葉っぱや花の部分を手直しすれば、いい木になるように勘違いしてしまうのです。根の部分をそのままにして、葉や花の部分を注意するという形で指導することはできなくはありません。しかし、それは指導をする形ができているだけであって、そういう指導で作文の実力がつくわけではないのです。

 よくたっぷり赤ペンを入れることがいい指導をしたことになるような錯覚を多くの人が持ちがちですが、その赤ペンには先生の努力のあとが見られるだけであって、生徒の実力がつくことにはつながりません。生徒の実力がつくのは、根の部分である家庭での暗唱や読書や対話を充実させることによってです。

 ですから、毎週作文を書くのは、その作文を直して上手にするためではなく、毎日の自習の成果が作文に出てくることを確認するためなのです。


 ところで、受験に合格するための作文は、少し性格が違います。根っこの部分を充実させることはもちろん大切ですが、受験までの数ヶ月で実力をつけるというわけにはいきません。

 受験のための作文は、今既にある実力の範囲で、できるだけ合格できそうな作文を書くことにあります。(つづく)

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記事 1019番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/2/1
国語力の不思議(その2) as/1019.html
森川林 2010/09/15 00:53 



 算数・数学の勉強は、できるかできないかが、問題が解けるか解けないかという形で表れます。だから、解けない問題が解けるようになるように、教え方をブレークダウンしていけばやがて解けるようになるという道筋があります。

 しかし、国語はそうではありません。できるかできないかということが、白黒はっきり決着がつくような形で表れるのではなく、その子の読解力に応じて、浅くわかるところから深くわかるところまで限りなく曖昧に広がっているのです。

 それは、ちょうど同じ健康体でも、すごく元気のいい人と、あまり元気のない人との差のような形で表れる差異です。原因の特定できる病気であれば、人工的な治療が成功することもしばしばあります。しかし、元気のない人をもっと元気よくするというのは、人工的な治療ではなく、自然の対応が向いています。

 健康で元気のいい人は、野菜を中心に食べる、適度の運動をする、自然に接する、明るい心でいる、など共通する特徴があります。

 国語の勉強も、これに似ています。国語の得意な子に共通しているのは、特に国語の勉強などしていないということです。国語の得意な子は、本が好きで本をよく読んでいるうちに自然に国語が得意になったというケースがほとんどです。

 このように考えると、逆に国語の勉強法がわかってきます。それは、いい文章を繰り返し読むことです。マンガを繰り返し読んでも国語の力はつきません。逆に、難しい文章をたまに読むだけでも国語の力はつきません。難しくて面白い文章を何度も繰り返し読むというのが、国語の力につながっています。

 算数・数学のできない子は、前の学年まで戻って勉強することで力がつきます。算数・数学は、低学年から高学年に向けて積み上げていく勉強だからです。

 国語のできない子は、前の学年に戻るという方法が取れません。国語は、低学年からの積み上げの勉強ではないからです。

 国語の力の土台は、前の学年ではなく、その子の家庭の国語環境にあります。家庭で、読み聞かせや読書や対話のある子は、国語力の土台が自然にできています。それらの中でも特に重要なのが読書です。受験生の場合は、通常の読書の時間はあまり取れなくなるので、読む勉強の密度を高めるために、問題集読書などを取り入れていく必要があります。

 国語の学力と、算数・数学の学力とは、性質が根本的に異なります。国語の勉強は、文章を読む練習をすることで、算数・数学の勉強は、問題を解く練習をすることで進めていくものです。しかし、国語のテストも、問題を解く形で出されるので、多くの生徒は国語の勉強も、問題を解く形でやろうとしてしまうことが多いのです。

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国語力読解力(155) 

記事 1018番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/2/1
国語力の不思議(その1) as/1018.html
森川林 2010/09/13 21:55 



 言葉の森が、30年前、作文教室を始めたとき、この教室を国語教室のようなものにはしないという一種の信念のようなものがありました。なぜなら、国語は普通に生きていれば自然にできるもので、教えたり教わったりするものではないという確信があったからです。

 ところが、作文教室を始めてみると、国語が得意で作文が好きという子も多くいましたが、国語が苦手で作文が嫌いという子もかなりいたのです。

 そこで、学習塾というものの話をよく聞いてみると、国語教室というような国語を専門とした教室はほとんどないということがわかりました。むしろ、学習塾は、成績を上げやすい算数、数学、英語などを中心に教えていて、国語は、一応全教科をカバーしているということを示すだけのおまけのような位置づけでした。その証拠に、「塾に行っても、結局国語の成績は上がらなかった」という声を多くの保護者から聞きました。

 国語は、できる子は自然にできる、しかし、できない子は教えてもできるようにはならないという不思議な教科だったのです。

 ところが、よく考えてみると、練習して上達するというのは、ある意味で人為的な分野です。現代の社会は人工的なものに囲まれているので、練習して上達するということが当然のように思われがちですが、自然のものについては、練習ということ自体が成り立たないのです。

 例えば、見た目をよくするために服装を変えるというのは、だれでもすぐにできます。衣服は人工的なものだからです。しかし、見た目をよくするために顔つきを変えるというのはまずできません。顔は自然のものだからです。

 これが、病気と健康の関係になると、もう少し微妙になります。人間の健康とは、本来自然のものです。しかし、近代医学は、そこに治療という人工的なものを導入しました。

 風邪を引いたら、ゆっくり寝ていれば治るというのが自然の対応です。しかし、薬を飲んで治すとなると、これは人工的な対応です。風邪ぐらいであれば、どちらで治そうが大した違いはありませんが、これが自然治癒率のきわめて低い感染症になるとそうではありません。

 医療の世界では、パスツールのワクチン治療のように人工的な対応が際立って成功する場面がしばしばあったため、その成功が過大に評価され、それが人間の本来持つ自然治癒力の意義を忘れさせる方向に進んでいきました。

 これと似ているのが教育です。英語や数学というものは、教えなければ自然に身につくものではありません。その意味で人工的な教科です。しかし、国語という教科は、これらの人工的な教科と違い、生まれたときからの環境で自然に身についてきたものです。

 この自然に育ってきたものに、人工的な教科の学習で成功した方法をあてはめようとしたところに、これまでの国語学習の混乱があったのです。(つづく)

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記事 1017番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/2/1
7月の森リン大賞(中3の部) as/1017.html
森川林 2010/09/11 08:42 

 7月の森リン大賞です。

 掲載されていない作品の中にも、力作がたくさんあります。




 1位の作品は段落のマスが空いていなかったので入れておきました。ワードなどのワープロで作る空白は見た目だけのものなので、いったんメモ帳などのエディタに貼り付けて空白を作っておくといいと思います。


7月の森リン大賞(中3の部59人中)

目的のための所有とは
arugebak

 学校の公民でも習うが、世の中で買えるものには二種類ある。財とサービスだ。この財のなかには一度使うと無くなるものもあるが。一年に何回も使わないものや使う機会が一度しかない割に高価なものさえある。耐久消費財にも使用頻度があるわけだが、結局は捨てる事となる。こういったものを持ち続けるのはムダではないだろうか。今はエコの時代。不景気もあり、一時のためだけに大がかりなものを買って捨ててしまうのは環境にも財布にも悪い。温暖化どころか懐が寒冷化だ。

 そこでどうすべきか。考えられる案の一つがレンタルだ。レンタルと言えばレンタルビデオショップとかレンタカーとかが頭に浮かぶと思う。要は“必要なモノを必要な時に借りていらなくなったら返す” ということ。

 私たち地球人はレンタルの考え方で生きていくべきではないだろうか。

 そのための方法としてまず一つ、モノを持っているということそのものに対する価値観を取っ払うことが挙げられる。

 いわゆる所有欲というのはモノを持っているということそのものに対する価値観を顕著に表す例だ。おとぎ話にでてくる王はこの傾向が特に多いように思える。どんなものでも手に入れたがり、そしてたいして使わずに終わる。また、衝動買いにも同様の傾向が見られる。ぱっと見の印象で高価な買い物をしてしまい結局損をしてしまう。ここで問題なのは買う人の感情がいきなり「買いたい!!」になっているところだ。そもそも買い物というのは「~したい。だから買う」という思考のステップを踏むものだ。この「~したい。」の部分はその買い物の目的を表している。そしてその買うモノに求めるのは目的達成のための機能である。つまり「それを持つとうれしい」などの思考は本来挟まれないのだ。この思考が入る事で思考に余計な雑念が入り結果的に無駄な買い物をしてしまうのだ。

 この本当に必要とされている“機能”の最も純粋なかたちがサービスだと考える事ができる。サービスは“モノ”という付加要素を含まないのでサービスを買うということは“目的の遂行”を買っていると言えるだろう。所有欲の挟みようが無いので冷静な判断が出来る。

 そしてこの考え方に近いのがレンタルの考え方だ。レンタルはその“モノ”を金を出して一時的に買うということ、だがモノの実体は貸し主が持っている。つまり実質的には付加要素“モノ”を含んでいないわけだ。サービスと同様に冷静な判断ができる。

 また、レンタルの考え方は全体に適用したときが特に効力を発揮する。その方法、二つ目は社会全体で互いにレンタルをし合えるよう社会を整備することだ。

 この地球全体の資源は限られている。貴重なモノが社会全体に十分に行き渡らないこともあるだろう。だから社会全体でそういったものをレンタルし合い共有された状態にすることで、社会全体にまんべんなく必要なモノが行き渡るのではないだろうか。

 そもそも貴重な資源の共有は昔、町などで行われていた事と本質的に何ら変わりはない。例えば水をくみに行くという目的の遂行のために町全体で井戸を共有していた。温故知新の精神で効率的な社会を取り戻すべきだと思う。

 とはいえ、こんな共産主義的システムが浸透するには国が大きな力で人々を動かすための努力が必要だ。また、持っていることで生じるただ持っている事以上の要素。思い出、誓いの証、形見を忘れてはいけない。しかし、これらは思い出、誓いの証、形見を意味上の機能としたモノだといえるだろう。しかし「成功の秘訣は目的への節操である。」という名言もあるように、ただモノを持つ事ではなく目的のための所有をし、他人と助け合う無駄のない生き方をしたい。


順位題名ペンネーム得点字数思考知識表現文体
1目的のための所有とはarugebak89151862819089
2制服の利点S-124089126261758484
3「人助け」という社会貢献音楽大好き少年89125064737990
4見えぬものに宿る価値おむふ8818336811410781
5自分なりにだるまー8699858748197
6カメうさちゃん8098649617381
7目標に向かってsnow boy7687752546887
8ウサギとカメAIRIOKA7682653576389
9ウサギと自分疾風7680556606386
10「レンタル」の考え方ショウ7682652536097


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じゃじゃまる 20100914  
この作文で、地球の資源は限られているから、資源を供給しあうためレンタルする、というアイデアに、とても驚きました。大きな視野で物事を見ていて、面白かったです。確かに、使わないものを自分以外の人が欲している時、その人へ貸してあげれば、ものは一つで済むかもしれない。もし、壊れたり返さなかったら、買い取ってもらえばいい。なんて、自分でも色々考えさせられるアイデアでした。


森川林 20100915  
 今、カー・シェアリングなどで自動車を共有して利用する会社が伸びているようです。これからこういう形が増えると思います。
 考えると、派遣労働などというのも、一種のレンタルですが、人間のレンタルというのは、何か問題がありそうですね。

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7月清書の森リン大賞(中2の部) as/1016.html
森川林 2010/09/10 08:38 



 掲載が遅くなりましたが、7月清書の森リン大賞です。

 中学2年生は、複数の意見を総合化する練習なので、まとめの意見を書くところがかなり難しいと思います。



7月の森リン大賞(中2の部66人中)

子供と大人
文鳥

 日本には赤ちゃん言葉が多い。お母さんは子供に語りかけるときに「ご飯食べる?」の代わりに「マンマ食べる?」や、車を指差して「ブーブーよ!」と言う。同一の女性が他の成人に対してそのような言葉を言ったら、奇異に受け取るのは間違いないとみて良いだろう。反対に、フランス語では、赤ちゃん言葉は殆ど使われないという。4語といくつかがあるだけで、あとは大人と接するのと大差ない言葉を使用する。ただ、口調の音は高くなり、抑揚は通常以上に誇張されることが明らかにされている。また、日本では家族の呼び方についても子供中心である。このような背景がいくつもかさなり、日本では優しいが依存心の強い子供ができ、反対に、欧米では独立心はあるが気の強い子が出来るのだ。

 日本人のように、子供の視点にあわせた子育ての仕方は良い。なぜなら、その方が親からの愛情を感じやすいからである。子供は大人のコピーではない。故に、いきなり大人に普通の言葉を使われても難しいだろうし、子供の視点にあわせた子育ての仕方からも学べることはあるはずだ。例えば、優しさや、思いやりである。自分がそのように育てられればその子供が大人になってもまた、自分の子供だけでなく、他人の子供にも合わせて会話が出来るようになるのだ。また、他人に合わせてコミュニケーションをスムーズかつ温和に進めることが出来るということもある。だから、「日本人は自分の意見を言わずにはっきりしない」とか言われてしまうのかもしれないが、そこにも前述したようなメリットがあるのは否めないだろう。短所も裏を返せば長所になり、反対に長所も裏を返せば短所になる。長所と短所は表裏一体なのだ。コミュニケーションを温和に進めることが出来れば、それは外交でも役立つだろう。外交で役立てば日本は良くなる。・・・・これが勝利の連鎖!!!何の勝利かは私にも不明だが、まあ、善であることには違いないだろう。

 しかし、フランスのように子供を小さな大人として扱う子育ての仕方にも良いことがある。このように小さい頃から育てておけば、自分も社会の一員、大人の一員であるという意識が早々に芽生え、マナーも守れるし、ルールも破らないと思う。まあ、人間十人十色なので、中にはルールを破ってしまう人もいるかもしれないが・・・。だが、フランスだけでなく、ヨーロッパの諸国は食事のマナーや、振る舞いに厳しい国だという。男の子は小さい頃から紳士としての心得を学ばされ、女の子も立派な女性になるために様々なマナーを成長していくうちに学んでいく。確かに、平成になってから女も対等に扱われるようになってきたとはいえ、日本にはいまだに男尊女卑の傾向があることは否めない。それに対して、ヨーロッパはレディーファーストの精神があり、女性も男性も対等に扱う・・・下手したら女性の方が敬われているかもしれないが・・・というマナーが存在する。この点はやはり、ヨーロッパの子育ての仕方が影響しているのだろう。

 確かに、子供の目線に合わせた子育てにも、子供を小さな大人として扱う子育てにもそれぞれの良さがある。それは、欠けてはならないし、必要不可欠なものだ。だが、一番大切なのは『ロバが旅に出たところで、馬になって帰ってくるわけではない。』という名言があるように、自分の手で愛情を持って子供と接することだ。そのことを忘れてはいけない。


順位題名ペンネーム得点字数思考知識表現文体
1子供と大人文鳥88139264727886
2太陽と地球こゆき88139259717792
3場面に合った態度をとるえみり86107159868886
4手助けとおせっかいたけたけ86112968687487
5障害者なまず大使84145159616595
6善か悪かさくら83111754597987
7ベビートークひよこ82105859719287
8子育てシャミ82113747586983
9小さな社会人を育てるきとみ81105062586486
10信頼される人間201系79115646828583


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森リン(103) 子供たちの作文(59) 

記事 1015番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/2/1
言葉の森のビジョン(その4) as/1015.html
森川林 2010/09/09 09:02 



 言葉の森のビジョンの図解説明の最終回です。やっと(笑)。




 これからの教育、特に子供時代の教育は、どのような形で行われるのでしょうか。

 これまでの学校の一斉授業形式の教育は、現在既に行き詰まっています。それは、消費生活の多様化に伴って家庭環境が多様化し、ある子供はゲーム漬け、ある子供はテレビ漬け、逆にある子供は豊かな読書や対話の環境と、子供たちを取り巻く家庭環境の格差が拡大してきたためです。

 学校の一斉授業は、均質の子供たちを教えることを前提にしていたため、同学年でも出発点に大きな相違のある子供たちの教育に対応することができなくなっていったのです。

 しかし、一斉授業の人数を少なくするという方向は、ある程度の効果はあるものの事態の本質的な解決にはつながりません。少人数化の到達点はマンツーマンの個別教育ですが、1人の子供を教えるために1人の大人が必要になるという状態を小中学校の基礎教育の分野で行うというのは、やはり不自然です。

 ここで参考になるのは、江戸時代に行われていた寺子屋の教育法です。寺子屋では、先生1人が小1から小6のころまでの年齢の異なる生徒十数人を毎日早朝から昼過ぎごろまで休みなく教えていました。しかし、そのころの寺子屋の絵を見ると、教える先生はいかにも暇そうに本などを読んでいます。一方子供たちは思い思いに遊んだりふざけたりしています。

 そのように雑然として学ぶ生徒と、特に何を教えるでもないような余裕のある先生という光景にもかかわらず、江戸時代の寺子屋教育は日本の子供たちの教育に大きな成果を上げていました。それは、寺子屋教育の基本が、教える教育ではなく学ぶ教育だったらからです。

 未来の社会の基礎教育も、このように子供たちの自学自習を基調としたものになるでしょう。そして、勉強の喜びは、競争に勝つ喜びではなく、自分の勉強の成果を発表する喜びに変わっていきます。

 また、教育が子供たちの人生に結びつくという点から、教育は学校の中に閉ざされたものではなく、地域と家庭にもっと深く結びついたものになるでしょう。更に、教える役割は先生が一手に引き受けるものではなく、年長の生徒が年少の生徒を教えるなど、生徒どうしの交流や協力を生かしたものになるでしょう。




 このような未来の教育の費用はどのようになっているのでしょうか。基礎教育は、すべての子供の教育を保証するという立場から、限りなく無償に近いものになっていきます。

 しかし、すべての教育がより低価格になるかというとそうではありません。教育が修行社会のダイナミズムの中核になるためには、ある意味で限りなく高価格になっていく必要もあるのです。

 さて、ここで、話は変わって、価格というものについてのこれまでのいくつかの考え方を見てみます。

 第一は、「よりよい品をより安く」というダイエー型の価格の考えです。この考えは、豊かな消費生活を万人が享受できるようにするという哲学に根ざしたものでした。

 第二は、これとは反対に、「適正価格で適性利潤を」という松下電器型の価格の考えです。松下幸之助の考えは、技術の発達のためには適度な価格と適度な利潤が必要だという哲学に基づいたものでした。

 第三は、「付加価値をつけてより高く」というバブル時代の考えです。日本でも、不要なおまけやサービスをつけて価格を高めることが企業の戦略のように考えられていた時期がありました。

 第四は、「価格破壊でひとり勝ち」という考えです。低価格を可能にする低コストは、多くの場合何らかの形で人件費の低下と結びついています。低価格は、消費者にとっては恩恵ですが、低コストを生み出すために不要になった労働力を、より高コストで活用する場を社会が作り出していかないかぎり、恩恵とともに失業という摩擦も伴っています。

 明治政府は、急速な近代化の波で多くの職業が不要になる際に、さまざまな工夫で失業対策を行いました。例えば、大井川に橋がかかるようになった結果不要になった川渡しの新しい職業として、近隣の山々の茶畑開墾を押し進めました。

 企業は、自社の利益のために低価格・低コストを追求します。しかし、それに対して個人が自助努力でリストラされないように工夫するというだけでは、社会の仕組みとしてはあまりにも不安定です。政治の役割は、規制を緩和するとともに、その規制のない自由競争の結果生まれる摩擦を、より高い次元で新しい発展に結びつけて個人を救済することです。

 さて、以上のように考えると、望ましい価格の考え方がわかってきます。それは、一つには、古い経済を代表する分野に対してはできるだけ低価格で、しかし、低価格による摩擦の少ないように社会全体で工夫していくということです。もう一つは逆に、新しい経済を代表する分野に関してはできるだけ高価格で、人も物も金もふくらませて更に発展させていくことです。




 現在の教育には、三つの面があります。

 第一は、基礎教育の面で、これは、江戸時代の寺子屋のように、能率のよい低価格と低コストと高い効果を目指していく分野です。

 第二は、これからもしばらく続く受験競争の面で、これは、高い効果を優先する結果、中価格と低コストで成り立つ分野です。

 第三は、これから生まれる向上と創造の教育という面で、これは、新しい発展の可能性を拡大していくために、人と物と金を集める高価格と低コストを目指す分野です。つまり、未来の産業は高価格の魅力のあるものになることによって、社会全体の利益を新たに生み出していくのです。

 共通しているのは低コストですが、その低コストを低い人件費で成り立たせるのではなく人件費はむしろ高めに設定するとともに、基礎教育については低価格・低利潤で、受験教育については中価格・中利潤で、向上と創造の教育については高価格・高利潤で対応するというのが今後の教育の価格の考え方になっていくと思います。




 言葉の森の目指す将来のビジョンはどういうものでしょうか。(やっとタイトルとつながった(^^ゞ)

 それには四つの面があります。それを山の姿になぞらえて説明してみます。

 第一は、山の頂上にあたるところで、ある特定の分野におけるダントツに優れたオンリーワンの教育です。

 第二は、山の中腹を取り巻く雲にあたるところで、その教育を言葉の森だけが直接担うのではなく、一般の多くの指導者を養成することによって行うという仕組みです。

 第三は、山の裾野(すその)にあたるところで、頂上のダントツの教育を支えるために全教科のバランスのとれた学力を育てる教育です。

 第四は、山の麓(ふもと)の湖にあたるところで、教育を、地域と家庭における生徒と保護者と先生の相互の交流を通して行うという仕組みです。


 今、言葉の森は、生徒を教える教室から、先生を育てる教室へと大きく変化しようとしています。その場合の先生とは、大きな組織に守られた専門職としての先生ではなく、地域で生活する子供たちと同じ場面で生活する(しかし、自ずから権威と親しみのある)共同生活者としての先生です。

 そして、その先生もまた、保護者から教育の分野だけを専門に引き受ける、閉ざされた専門家ではなく、父母や地域の人々とともに子供の教育に協同して取り組む一種の羅針盤としての役割を果たすような意味での先生なのです。


 言葉の森は、この秋からいくつかの地域で通学教室を展開します。それは、通学教室というスタイルが、これからの日本の子供たちの教育にとってより必要になると考えたからです。

 その考えの根底にあるのは、日本の社会を守り発展させるために、今何が必要かという歴史と社会の認識です。(これまで書いてきた話です)

 マネーを価値観の中心とした社会は、これから次第に自己向上の価値観を中心にした新しい社会に変わっていくでしょう。その変化を加速させるために、言葉の森もこれからがんばっていきたいと思います。

 (長い文章を読んでいただきありがとうございました。)

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記事 1014番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/2/1
9月9日(木)8時52分ごろ作文のファクスを送ってくださった方 as/1014.html
森川林 2010/09/09 08:56 
 9月9日(木)8時52分ごろ作文のファクスを言葉の森あてに送ってくださった方、3枚送られてきましたが3枚とも白紙です。^^;
 再度お送りくださるようお願いします。

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生徒父母連絡(78) 

記事 1013番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/2/1
言葉の森のビジョン(その3) as/1013.html
森川林 2010/09/08 09:34 



 言葉の森のビジョンの図解説明の第3回です。




 さて、これまでの経済の特徴の一つである工業の発達によって豊かになった社会を工業社会と呼ぶと、工業社会の教育は次のような形で進められてきました。これが、現在まで行われていた教育です。

 個人は、豊かな消費生活を実現するだけの収入を得るために企業に勤めます。その企業で求める人材は、工業生産の優れた歯車として使える広範な基礎学力を持ち、企業の特定の専門分野で高度に能力を発揮できるような人材です。

 広範な基礎学力と優れた専門能力は、企業が求める人間像であるとともに、個人が自ら求める人間像でもありました。

 そのため、教育のスタイルは、ある目標をめざして全員が同じ方向で努力するものになり、その目標を達成するためにテストによる競争と勝敗が教育の中に自然に組み込まれるようになりました。

 同じ方向とは言っても、小中学校では比較的幅広い教科にわたって、高校大学ではある程度専門化された教科の枠の中で行われるという違いはありました。しかし、基本的な仕組みは、共通する目標に向かって一本道を進むという点で同じものでした。




 では、新しい時代の社会の仕組みはどうなるのでしょうか。

 自己の向上を欲望の焦点にした社会は、次のようなサイクルで成り立ちます。

 まず、個人はよりよい自分を求めて生きていきます。そのために、自分を向上させる何かを習おうとします。

 何かを習うことによって自分が次第に向上するとともに、やがて自分自身もほかの人に何かを教えることができるようなレベルにまで向上していきます。それは、向上をつきつめていくと創造が生まれてくるからです。

 その習い方を修行と呼び、習う場所を道場と呼ぶとすると、その道場での修行が権威を持つようになるにつれて、更に多くの優れた人がそこに参加するようになります。

 その修行者の増加によって生まれるものは、その修行自体の質の向上と修行の方法における技術革新です。その技術革新の結果、ますます多くの人がより高いレベルの修行に、より短期間で到達するようになります。

 工業社会では、技術革新によって生まれるものは主として省力化で、それは人間の労働力を不要とする方向で発展しました。それは、ある面では労働時間の短縮というプラスの面を生み出しましたが、他方では就業機会の減少や失業というマイナスの面も生み出しました。

 修行社会では、技術革新によって生まれるものは修行自体の発展で、それは人間の修行を効率化する方向で発展していきます。それは、修行の到達レベルの上昇と、修行の多様化を生み出します。工業社会では、技術の進歩につれて人間の労働が不要になるのに対して、修行社会では、技術の進歩につれて人間の修行内容がより豊かになっていくのです。

 このような時代は、人類の過去の歴史でも何度かありました。

 古代ギリシアでは、自由民と男性だけに限られてはいたものの、哲学や芸術やスポーツや政治の分野で市民が自由に自己を向上させることが社会のダイナミズムの中心になっていました。

 江戸時代の日本では、武士階級から町人階級まで広がる形で、武道、茶道、歌道などさまざまな分野の芸術や技能や武術や学問が多様に発展していました。

 しかし、江戸時代は、その修行文化を更に押し進め完成させる前に、近代ヨーロッパの科学技術文化に遭遇し、列強の植民地化の脅威に対抗するために、自らの文化を工業社会の文化に変容させざるを得なかったのです。

 簡単に書くつもりが、どんどん長くなっていく。(^^ゞ




 さて、新たに生まれようとしている修行社会の教育はどのようなものになるでしょうか。

 一つは、全面的な基礎教育です。工業社会の教育は、英数国理社美技音体と一応バランスのとれた多くの教科によって成り立っていますが、工業社会の人材を生み出すためにある限られた範囲で競争する必要があるため、点数の差のつきやすい英語、数学、国語などの主要教科が勉強の中心になります。

 しかし、修行社会の教科は、個人が将来どの方面に自分を開花させるにせよ、その可能性を広げるためにできるだけ多様な教科を身につけておく必要があることから、本質的に全面的な教科を学ぶという性格を持っています。

 もう一つは、個性を生かしたオンリーワンを目指す教育です。工業社会では、個性を生かすということは、往々にして趣味の分野で生産活動から離れた形で一種の逃避に近い活動として行われことがありました。修行社会での個性とは、そのような根のない個性ではなく、その個性がそのまま社会での仕事に結びつくような個性です。

 したがって、学校教育も、学校の中での教育として完結したものではなく、常に、個人が社会で個性的に活躍するために何が必要かという観点から行われるようになります。それは教える教育ではなく、アドバイスする教育であり、生徒の側も、教わる勉強ではなく自ら学ぶ勉強として学習に取り組むようになります。

 未来の教育では、一斉授業とテストによる評価というものは、基礎教育の初期には行われるものの、その後の教育の大部分は、自学自習と人生設計の相談という形で行われるようになるでしょう。




 現在の教育には、まだ工業社会の影響が色濃く残っており、ある決められた範囲の教育内容を競争を通して学ぶということが主流になっています。

 その反対に、自己の向上のために学ぶという未来の社会の教育は、まだ小さな流れにしかなっていません。




 しかし、今後、急速に競争教育の前提そのものがなくなっていき、それとは逆に、自己の向上のための教育が大きな流れになっていくでしょう。


 早めにまとめる予定だったのに、なんだか、まだ続く(笑)。

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