農業時代、工業時代のあとに来る社会を、これまでは、修行社会とか、文化産業の時代とか、教育革命の時代とかいろいろな形で書いていましたが、今回は、それらをまとめてポスト工業社会の時代という言葉で書いていきます。
社会が、農業→工業→ポスト工業へと進むにつれて、生産力の概念が変わってきます。それは、価値の中身が変わるからであり、豊かさとしてイメージするものが変わってくるからです。
豊かさとは、その人が何を求めているかによって変わってきます。飢えている人にとって、米倉(こめぐら)が豊かさの象徴です。これが農業時代の豊かさのイメージでした。
工業時代には、消費財の豊富さが豊かさの中身でした。そして、この工業時代には、工業生産のための資金が重要だったので、資本=お金も豊かさの象徴でした。この工業時代に、今突入しているのが発展途上国なのです。
しかし、先進国では、豊かさの中身はもはや消費財ではなく、自己の向上のようなものに変化しています。このポスト工業時代に必要なのは、資本ではなく創造的な研究開発つまり独創性です。そして、独創性は、投下した資本の量に比例しません。
だから、工業時代からポスト工業時代に移行するとき、企業は株式会社という組織である必要はありません。また、上場して資金を集めやすくする必要もありません。むしろ、資本によって他からの支配を受けないようにするために、工業時代の組織から抜け出る方がいいのです。
では、なぜ、今工業時代からポスト工業時代に向かっているはずの日本で、豊かさの実感がないのでしょうか。それは、日本人が、自分たちの本当に消費したいポスト工業的なものを生産せずに、依然として工業時代の生産を行っているからです。
以前、
「中国から離れ、日本の文化創造に目を向けよう」という話を書きましたが、工業時代に突入しようとしている途上国の消費の量に目を奪われて、それに合わせた生産を行おうとすればするほど、日本は豊かさの実感から遠ざかることになります。
日本は、過去の工業時代の生産から離れて、自分たちが本当に求めているポスト工業時代の生産に向かう必要があります。それが、「日本の文化創造に目を向けよう」ということです。そうすれば、突然日本の中でお金が回るようになり、新しい豊かな社会が生まれてくるのです。
そのときの消費は、工業生産物の消費ではなく、より文化的な消費になるでしょう。消費というよりも、文化的な自己向上そのものが消費の中身になっていくのです。
そのために必要な教育は、幅広い教養、自分の好きなものを発見する力、そしてそれをビジネスとして組み立てる力を育てるものになるでしょう。
これからは、大きな会社に勤める時代ではなくなってきます。今の大会社の多くは、工業時代の会社です。それは、第三次産業の会社である場合もありますが、その場合でも、工業時代の社会に合わせた第三次産業の会社です。それらの会社は、これから常に人件費削減のベクトルを伴って運営されていくようになります。現実にリストラに合うということはないとしても、人件費の削減が経営の柱になる会社で仕事をすることは、あまり幸福なことではないでしょう。
これからの社会は、自分で起業する、又は家族で起業するような人が増える社会になってきます。この場合、その会社では、商品を売るのではありません。商品を売る会社であれば、工業時代の会社で規模の大きい方が有利ですから、新たに個人が起業する余地はありません。ポスト工業時代の会社は、商品を売るのではなく、自己の向上を目指す顧客がサービスを受けにくるという形の会社になります。
このポスト工業時代に必要な教育は、工業時代に必要だった教育とある面で重なっています。しかし、重なっていない部分もあります。重要な教科をしっかり勉強するというのは、工業時代にもポスト工業時代にも必要です。しかし、ポスト工業時代には、それに加えて、受験には直接関係のないような科目も含めて幅広く勉強することと、自分の好きなことをできるだけ早く発見することが重要になってくるのです。
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ポスト工業社会ですか。
工業社会が人間的、自然的な方向に変化あればと思うのですが、フイーリングだけで、具体策は浮かびません。
自然と共存できる工業社会であってほしいものです。
今、工業社会に済む私たちが、例えば、「農業の生産力が2倍になった」と言われても、それで自分たちの生活が豊かになる感じはしません。農業は、人間の生存に必要な産業ではあっても、既に過去の産業だからです。
同じように、工業における技術革新も、先進国においては、それが自分たちの豊かさや幸福度を増進するものとしては受け止められなくなりつつあります。それは、先進国の人たちの欲望が、工業生産物を超えたものに向かっているからです。
だから、今、発展途上にある中国やブラジルが、工業生産物を豊かの基準と感じて旺盛な消費を行っているとしても、日本まではその消費に合わせようとする必要はありません。
しかし、日本の企業はこれまでの成功体験の延長で、「アメリカの消費が終わったから、次は中国だ」と勘違いしているのです。本当は、アメリカと同じように、中国もアメリカの過去をなぞっているだけです。
だから、日本のすることは、中国から離れて、自分の国の新しい文化創造に目を向けることなのです。
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人類の生活は、最初、狩猟と採集から始まりました。
やがて、狩りの場所が確保されるようになると、生活に一つのサイクルが生まれ、それは牧畜へと発展していきました。しかし、牧畜は広大な土地を必要とするため、集積した文化は発達しませんでした。
一方、採集文化でも、採集の場所が確保されるようになり、循環する生活ができるようになると、採集文化はやがて、栽培、そして稲作文化へと発展していきました。稲作文化は、狭い場所で成り立つので、集積した文化が成立しました。
稲作によって増加した生産力の中身は食料で、当時は食料による生存が人間の欲望の中心でした。
これが農業革命で、日本では弥生時代にこの農業の生産革命が始まりました。そして、これが、日本が国家として統合してゆく出発点になりました。
当時の動力は、水車、牛馬、人力、そして太陽エネルギーのようなものだけでしたから、生産力の増加には限界がありました。
ところが、ヨーロッパで動力としての水蒸気が利用されるようになると、内燃機関の発達と呼応して機械工業が発達していきました。
この機械工業によって大きく増加した生産力の中身は、衣料品などの消費財でした。つまり、この当時の人間の欲望は、食料を求めての生存の欲望から、便利で快適な生活を求めての生活の欲望に変わっていったのです。
この消費財への欲望が、更に、耐久消費財の欲望や生産財への欲望へと発展していきます。このころから人間の欲望の中身は、単なる便利さや快適さだけではなく、他人よりも優位に立ち、他人を支配することに変化していきました。そして、この欲望が、企業、国家、金融、軍事へと組織化されていったのが現代までの歴史です。
ところが、現在、エネルギーの分野でフリーエネルギー革命が起きようとしています。エネルギーがフリーで豊富に手に入るようになると、富によって他人を支配するという仕組みが無意味なものになってきます。
すると、そのあとに登場する人間の欲望は、生存でも便利でも快適でも優位でも支配でもなく、自分自身の向上になっていくと思います。自己向上という財産に対する生産力が飛躍的に増加する、これが今後予想される教育革命の中身です。
しかし、今はまだ、この教育革命と正反対の状況が見られます。例えば、細分化する個別指導、複雑化するメディア教材、そしてそれらを利用したテストの成績のための教育です。現代は、テストや学歴という外面的なものから、自己の向上という内面的なものへ人間の欲望が進化する一歩手前の時代なのです。
一方、このような人類の生産革命と並行して進んできたのが、人類の精神革命です。
直立歩行と道具の使用によって大脳を発達させた人類は、右脳の感覚を共有する時代から、左脳の言葉による伝達の時代へと進化していきました。言葉による伝達は、当初音声による伝達、つまり話す力聞く力が中心でしたが、やがて文字による伝達が生まれ、それが印刷の時代、学校と出版の時代へと進化していきました。そして、現代は、インターネットとブログの時代になり、文字による伝達、つまり読む力と書く力が求められる時代になっています。
この精神革命における最後の到達点で人間が求めているものは、もっと知りたい、そして考えたい、更に考えたことをみんなに伝えたいという欲望で、この精神革命の到達点が、生産革命における自己向上の欲望へと結びつこうとしているのが現代です。
現在は、教育における生産革命の萌芽状態にあり、新しい生産のためのツールが登場するのが待たれている時代なのだと思います。
言葉の森の教材作りを考えるとき、当面の受験に合格するための教材にももちろん力を入れていきますが、それ以上に、自己を向上させる教材ということを念頭に置いていきたいと思っています。
今回も、またかなり大きい話になってしまいましたが。(^^ゞ
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子供の成長にとって、父親と母親の役割は、それぞれ違う形で重要です。
父親は主に躾を担当し、母親は主に愛情を担当します。もちろん、どちらにも両方の役割が必要ですが、敢えて役割を分担すればそのようになるということです。もちろん、逆の家庭もあるとは思いますが(笑)。
教室で、時々次のような子がいます。先生に何かを言われても、すぐに返事をしない。「これをして」と先生が言っても、平気で「いやだ」「やらない」などと言う。一度で言うことを聞かずに、何度か言われて初めて言うことを聞く。
いずれもかわいい子供たちですが、やっていることがにくたらしいのです(笑)。しかし、これらは、すべて子供たちの問題ではなく、家庭でこれまで子供たちがそういう態度をとっていても、親がそれをそのままにしてきたという問題なのです。
しかし、子供ですから直すのも簡単です。教室で一度厳しく注意すると、次からはちゃんとできるようになります。
子供と犬を比較するのは問題がありますが、吠えるなと言っても吠える犬、噛むなと言っても噛む犬、待てと言っても待たない犬、おいでと言っても来ない犬などは、もともとの犬の性質による面もありますが、大部分は人間の躾の仕方によるものです。
躾の最も決定的な場面は、褒めて直すところではなく、叱って直すところにあります。確かに、いつでも優しく褒めるというのも難しいことですが、もっと難しいのは、肝心なときに、しっかり短く厳しく叱るということです。
本当は、優しく褒めるだけでいい子に育てばいいのですが、人間の先祖はもともとサルですから(という理由は変かもしれませんが)、たまには叱らないと、やはりいい子にはならないのです。
肝心なときに叱ることができれば、普段は、子供も親も楽しい関係を保つことができます。しかし、それが、多くの家庭では、逆になっています。つまり、肝心なところで叱っていないから、いつも小言を言うような接し方をして、子供も親も一緒にいるとくたびれるということになるのです。
肝心なときに叱っていない最大の理由は、主に父親が叱りなれていないということにあると思います。そして、父親が叱りなれていない原因は、それまでに子供を叱る経験があまりなかったことによるものです。
では、叱る経験を増やすためにはどうしたらいいのでしょうか。
そのためには、まず小学校低学年のころから、家庭での絶対に守るルールを一つ決めておくことです。例えば、朝起きたらあいさつをする、玄関の靴をそろえて脱ぐ、席を立ったらイスをしまう、家の仕事を手伝うなどです。実行しやすいものをどれかひとつ決めておき、そのことに関してだけは絶対に妥協せず厳しく守るということにします。
ただし、これは、両親がともに実行できるものでないと徹底しません。お母さんが子供に、「玄関の靴をそろえるのよ」と言っても、お父さんが平気で脱ぎ散らかしていては子供に徹底できません。子供は、何回か叱ればできるようになりますが、大人は何回注意しても直りません。それは互いに人生の価値観が違うのですから仕方ないとあきらめて、両親がともに無理なく実行できるルールを家庭でのルールとして決めておくことです。
そして、家庭でこのようにルールを決めておき、子供がそれを実行できていないときに厳しく叱るようにします。そのときに厳しく叱る役割は、やはり父親の方が向いています。そのときに、母親は、「そんな強く叱らなくても」などとは言わないことです。これは、叱り叱られる練習をしていることだからです。そのかわり、母親はあとで優しくフォローしてあげればいいのです。間違っても、父親が子供を叱っているときに、母親も一緒になって子供を叱らないことです。
このように、家庭の中で、やれば当然できるというルールを決め、できていないときは厳しく叱るということにして、それを年齢に応じて少しずつ変えていきます。
よく中学生や高校生で、母親に乱暴な言葉づかいをする子がいると思います。例えば、母親が何か注意すると、「うるせえなあ。わかったよ」などと言う子です。いるでしょ(笑)。そういうときは、即座に間髪入れずに、「何だ。その言い方は! ちゃんと言い直せ」と叱らなければなりません。
そういう叱り方ができないとしたら、それは、小学校のころから親が厳しく注意をしたことがあまりなかったからです。しかし、小学校のころに厳しく叱って育てていない子に、中学生になって厳しく叱るというのはまずできません。叱り方も、親が試行錯誤の中で少しずつ身につけていくものだからです。
ところで、「厳しく叱る」というと、多くの人は「かわいそう」という感じを持つと思いますが、そういう叱り方ではありません。厳しく叱っている最中でも、親は心の中では全然怒っているわけではありません。だから、叱ったすぐあとに、さらりと冗談を言って笑わせるようなこともときどきするといいのです。
そういう厳しいが明るい叱り方をするというのも、やはり試行錯誤の積み重ねの中でできるようになることだと思います。
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日本人以外のすべての民族が、子音を含む言語だけを左脳の言語脳で処理し、ほかの音は全部右脳で処理するのに対して、日本人だけは、子音の言語だけでなく、母音だけの音、自然の音、邦楽の音、感情の動きなど、楽器音や雑音以外のほとんどの音を左の言語脳で処理しています。この日本人の脳の仕組みを日本語脳と言います。
では、その日本語脳を勉強を生かすためには、どうしたらよいでしょうか。
まず最初に考えられるのは、勉強の邪魔にならないような脳の使い方です。
日本人は、言語だけでなく、自然の音や、琴・尺八などの邦楽の音も、左脳の言語脳で処理します。したがって、考える勉強をしているときに、波の音や鳥の声又は琴の音色などが聞こえると、それらの音が言語処理の左脳に入ってくるので、勉強が進まなくなります。
ある会社で、正月に邦楽を流して仕事をしたところ、社員から仕事ができないという苦情が多く出て取りやめになったことがあるそうです。
作文を書いているときは、脳をかなり酷使しているときなので、このような音が流れない環境で書く作業を行うことが大切です。
また、人の話し声は、小さな声でも左の言語脳を刺激します。したがって、勉強をしているときにはテレビなどは消すか、あるいは各人それぞれのヘッドホンで聞くというやり方をする必要があります。
よく音楽を聴いて、ながら勉強をする人がいますが、思考作業と両立する音は、雑音か楽器のみの西洋音楽です。しかし、不快な音は感情を刺激し、日本人の場合は感情も左脳で処理するので、不愉快な雑音では勉強の邪魔になります。
すると、ながら勉強にいい音は、聴きなれた西洋音楽になるので、クラシックなどが静かに流れている中で勉強するのがいいということになります。しかし、もちろん、だれにとってもいちばんいいのは、音のない静かな環境で勉強をすることです。
次に、日本語脳を、勉強を進めるのに生かすということで考えてみます。
頭をよくすることにも、日本語脳を活用することができます。
その前に、「頭をよくする」といった場合の「頭のよさ」とは何かということを考えてみます。
私は、頭のよさというのは、(1)物事を理解する力、そして、(2)物事を創造する力、更にもう一つ付け加えるならば、(3)物事を表現する力、の三つになると思います。理解力、創造力、表現力の三つです。
理解力というのは、主に、知識を吸収する力です。創造力というのは、吸収した知識を組み立て直す力です。表現力というのは、その組み立て方をわかりやすく美しく表現する力です。
知識の吸収は、左脳の言語脳で処理されますが、これを左脳で処理するだけでなく、右脳のイメージ脳や音楽脳に結びつけていくことが、これらの力を発達させる要因になっていると思います。つまり、頭をよくするということは、左の言語脳と右のイメージ音楽脳との連携をよくすることなのです。
こう考えると、暗唱というのは、言語を一種の音楽として右脳に結びつける働きがあります。また、言葉の森で作文の前に書いている構成図は、言語を右脳のイメージ脳に結びつける働きがあります。つまり、暗唱練習や構成図の練習が、頭をよくすることに結びついているのです。暗唱は主に理解力育成の面で、構成図は主に創造力育成の面で役に立ちます。
ただし、創造力という能力が現実的な力として発現するまでには時間がかかるので、構成図が創造力に役立つというのは、ある程度の年齢になって知識の蓄積が進んでからになると思います。
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なるほど!おもしろいですね。勉強の方法も、科学的にとらえて理論的に考えると、とても説得力があります。作文といっしょですね(笑)
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日本は、敗戦後の復興を、国内産業の保護、輸出産業の育成という方向で行ってきました。それが、やがて日本と欧米との貿易摩擦を生み出すまでに成功を収めてきました。
この成功体験に目をくらまされているのが、現在の日本の姿です。
アメリカが金融資本主義の行き過ぎで失速し、日本からの輸出を受け入れられなくなってきたとき、日本の輸出産業は、アメリカ以外の新たな輸出先を探しました。
ただし、アメリカの輸入代金は、日本が米国債という形でアメリカに貸したお金でしたから、本当は日本は輸出に力を入れるよりも、もっと国内を豊かにすることに力を入れていけばよかったのです。
さて、日本が輸出先を新たに見つけようとしたときに、最初に目についたのが、発展途上の中国の14億の人口でした。
しかし、これが実は、日本にとって成功体験の罠になろうとしているのです。
アメリカでの消費は、その先進国という性格上、自動車にしても家電製品にしても、比較的新しいものや高級なものに重点が置かれてきました。
中国での消費は、その発展途上国という性格から、既にある古い製品で安いものを中心に需要される傾向があります。
ここで、日本の企業が何しろ売れればいいと考えて生産をすると、日本の産業が、中国の消費の性格から変質する可能性があります。
顧客が高度な審美眼を持ち、製品に高性能を要求するものであれば、生産者は、そういう生産に適応しようとします。顧客が、多少粗悪品でも安ければいいと考えるならば、生産者はやはりそういう生産になじんでいきます。
例えば、観光客用の料理店を考えてみると、その店に来る人が味と雰囲気にうるさければ、洗練された料理を作るために、人にも材料にも配慮しなければなりません。しかし、店に来る客の多くが、味や雰囲気よりも安さやボリュームを要求するならば、その店は、腕のいい料理人よりも安いアルバイトを使い、いい材料の調達よりも何しろ安いものを使うという体制になります。
そして、いったんそういう生産体制になると、ほかにも同じような安さとボリュームの店が次々とできるようになったときに、元の洗練された料理店に戻ろうとしても戻れなくなります。
中国での需要は、そういう性格を持っています。需要に合わせて最初は売れても、やがてそういう製品は中国でも同じように生産できるようになります。そのときに、元の高度な製品作りに戻ろうと思っても、そのための人材やノウハウがなくなっている可能性があるのです。
大きなマーケットに目を奪われて、どこでも作れるものをより安く作る方向に向かうならば、日本の持ち味はなくなります。だから、中国のマーケットに進出することや、中国の観光客を受け入れることは、一考を要することなのです。
もちろん、中国が日本の製品を輸入するとか、日本に観光に来るとかいうことは、拒むことではなく歓迎することです。しかし、それは、日本が日本独自の持ち味を保っていることが前提になります。中国に合わせて、製品を買ってもらうとか、観光に来てもらうとかいう態度で対応するものではありません。
今の日本で、中国に輸出しなければやっていけないという産業は、大きな目で見ると過去の産業です。大きな企業は急には方向転換ができませんから、しばらくは中国のマーケットをあてにしてやっていくことはやむをえません。しかし、長期の戦略は、中国から離れてやっていく力をつけることです。
そして、今の中国から離れる力をつけることは、実は、未来の世界のマーケットを先取りする力をつけていることになるのです。
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日本語脳というのは、自然の音や感情の動きを、左脳という言語脳で処理する仕組みを持った脳のことです。世界中で、日本人とポリネシア人だけがこの日本語脳を持っているため、日本の文化は世界のどの文化と比べても異質な面を持っています。
ところが、この日本語脳は、遺伝的なものではなく、子供時代に日本語の環境にいたかどうかで決まってくるものであり、その適齢期が6歳から8歳であることがわかってきました。
ここから、日本語脳と暗唱の学習について、いくつかの仮説が考えられます。
まず第一は、6歳以前の学習には意味がないということです。幼児期に英会話を習う人も増えていますが、6歳以前に習得したものは、たとえそれが外国の環境で習得したものであっても、環境が変われば数ヶ月でなくなってしまうようです。日本に住んでいながら、外国語の学習をするとなると、その効果は更に一時的なものになると思います。6歳以前は、勉強という知的なことをするよりも、もっと感覚的、身体的なことを身につける時期なのだと思います。
第二に、日本語脳が形成される6歳から8歳の時期の過ごし方です。この時期は、日本にいる日本人の子供にとっても、暗唱の適齢期のようです。言葉の森でも、暗唱の練習が最もスムーズにできるのが、この小1から小3にかけてです。これは、日本語脳が形成されるという成長の時期と、暗唱の学習がぴったり合っているからだと思います。
今後増えることが予想される外国人移民の子供の教育についても、この6歳から8歳の時期にいかに日本語脳を形成させるかという観点から取り組む必要があると思います。
一方、日本人でありながら、この時期海外で暮らさなければならない子供は、かなり大きなハンディを背負うことになります。6歳から8歳の3年間をたまたま海外で過ごしたために、コオロギの声や風の音を雑音としてしか処理できない感性の持ち主になってしまうからです。
それは、逆に言えば、論理と感情をすっきり使い分ける西欧語脳を身につけることにもなりますが、日本人の親で、自分の子供がそのような西欧的な人間になってほしいと思う人はまずいないと思います。
そこで、私は、日本語脳の形成を助けるのに、暗唱の学習が使えるのではないかと考えています。日本語脳と西欧語脳を分けるものは、日本語に含まれる母音という音声です。6歳から8歳の子供がアメリカで暮らしていれば、学校でも地域でも、友達と話す会話は英語です。その英語の量を上回るほどの日本語を家庭で話すことはまずありません。日本人はもともとおしゃべりではないので、家庭での日本語に接する方法は、主に読書などになると思います。そのため、海外で暮らす日本の子供は、家庭でいくら日本語を使うようにしても西欧語脳になってしまうのです。
これをカバーするためには、母音のある日本語を、英語よりも数多く音声として使うことです。暗唱は、普通の会話よりも短時間で密度の濃い日本語音声との接触の機会になります。また、暗唱は意味を理解して読む必要は特になく、音声だけを自分で言って聞けばいいのですから、6歳から8歳でまだ日本語の読書が不自由な子でも十分に取り組めます。
言葉の森では、今後、アメリカで通学指導を行う予定があるので、早速暗唱の自習がアメリカ在住の子供たちにどれぐらい効果があるのか確かめてみたいと思っています。この実験の結果、6歳から8歳の日本人の子供が、海外にいながら日本語脳を形成することができれば、海外に赴任する同じ年齢の子供たちを持つ親にとって朗報となると思います。
しかし、この実験を行う際、脳の機能をイメージングする機器や技術者が必要になります。ご協力いただける方がいらっしゃいましたら、ご連絡くださるようお願いいたします。
さて、第三に、バイリンガルになるための最適な年齢は何歳かということです。6歳から8歳の日本語脳を形成する時期に日本人が例えばアメリカで英語を身につけてしまうと、西欧語脳のバイリンガルになってしまいます。日本語以外はすべて西欧語脳になるからです。6歳から8歳の時期は確実に日本語脳を形成し、そのあとに英語や他の言語を習得する必要があります。すると、その時期は9歳ないし10歳から、13歳ないし14歳にかけてになると思います。
逆に言うと、海外にいかなくても、日本でもこの時期に集中的に外国語を学ぶことが大事だということです。そして、言語は音声ですから、英語の文章の暗唱などが小学校高学年から中学生の時期にかけて効果があるのではないかということが考えられます。
第四に、では、14歳を過ぎてからの、音声による脳機能の変化はないかということです。塙保己一は18歳で般若心経の暗唱を始めました。本多静六がドイツ語の文献の集中的暗唱をしたのは20歳前後でした。話はかなりさかのぼりますが、空海が虚空蔵求問持法の暗唱を始めたのも20歳前だったと思います。これらを見ると、この時期の集中的な暗唱が脳の機能に影響を及ぼすのではないかということが考えられます。しかし、これはまだ実験データがないので、これからの研究課題にしたいと思います。
こんなことばかり考えているから、肝心の仕事が進まない(笑)。
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私の夫の大学時代の友達や、会社関係の友人で、海外駐在を経験している人がいます。
夫の話では、やはり小さい頃に海外生活していても、日本に戻ってきてそのままずっと
お子さんが英語を話せるかというと、まったくいなそうです。小学校時代6年間在住
していてもです。
夫は、社会人10年経験後、アメリカのビジネススクールで勉強しました。
帰国後、社会人の英語論文の指導についたり、香港で働いた経験があり、現在は、
日本で働いていますが、電話・メール・会議すべて英語をつかう立場にいます。
最近、会社の若い男性や女性に「どうしたら英語が上手になるでしょうか?」と聞かれる
そうです。みんな英会話学校に行ったりしてがんばっているけど、なかなか上達しなくて
悩んでいる人が多いです。夫は、「英語を勉強するまえに、もう少し読書をしてほしいなあ」
と思うそうです。まず、たくさん読書をして、きちんとした日本語の文章を書けるように
なってから英語に目を向けてほしいと願うばかりだそうです。
もちろん、まだ、日本語も話せない0歳児、1歳児を英会話学校に通わせるのも反対しています。やはり、小さい頃からの絵本の読み聞かせ、家族との対話など日本語力はとても
重要に思えます。私自身、結婚するまで、大手総合商社で働いていた経験があり、
もちろん、事務職でもそれなりの英語力が必要でしたが、やはり読書や文章力の重要性
をとても身にしみています。
テレビゲーム・DS・携帯電話・テレビなどにかこまれている今、言葉の森はとても
ありがたく思います。娘が言葉の森をはじめてから、まる一年が経ち、この一年で家族の
対話が増え、テレビは決めたものだけ見る、ゲームは1時間だけ、という我が家のルールができつつあります。
それから、前にテレビで、海外駐在ではなく、外国でずっと生活している少し裕福な
家庭が何世帯か紹介されていた番組がありました。みなさん、子供が中学生、高校生くらいになると、きちんとした日本語や日本文化などを勉強させるために子供たちだけを日本に一時帰国させていました。
今後、海外に言葉の森の教室ができれば、日本語の読み書きの重要性が伝わると思います。
ながながと書いてしまいました。 すいません。
貴重なご意見をありがとうございました。
そうなんです。自分でしっかり勉強をした経験のあるお父さんやお母さんは、子供をあまり小さいころから勉強であおらないようです。「やるときはやる」ということがわかっているからです。
しかし、現代の子育ては、ゲーム機などの誘惑が多く、かなり難しいです。また、学習塾なども、得点を上げるテクニックや競争が多く、長い目で見るとかえって子供をスポイルするようなところがあります。
やはり、家庭で子供と両親が知的な対話をする機会を増やしていくのがいちばんだと思います。
言葉の森では、しばらく前から暗唱の自習に取り組んでいるため、課題の長文の音読はいま力を入れていませんが、本当は課題の長文をお父さんやお母さんの前で音読し、その長文をもとにいろいろ話をしていくと楽しいと思います。
日本語脳についての記述を大変興味深く拝読しました。
若いころ、ドイツに住んでいたことがあります。春から初冬にかけて、農家の離れに暮らし、秋には友人たちと庭で食事をしたり、近隣の村々のワイン祭りへ出かけたりしました。まわりには常に虫がわんさかいる環境であったのにもかかわらず、虫の音についての記憶が全くありません。おそらく、虫の音
に注意せずに過ごしていたからではないかと思います。
虫の音が聴こえるか聴こえないかについては、脳の働きだけでなく、聴こうとするかどうかの意思も重要なポイントではないかと思います。(学術的な根拠は一切ありません。)
言葉の森の作文の、季節にかかわる課題は、子供の情緒を養うよい機会だと、改めて思いました。
なるほど。まわりの環境がそうだと、聴こうとする気持ちにならないのですね。
日本人どうしの場合は、たぶんだれかが、「あ、コオロギの声」などと言い出して、みんなで「秋だねえ」などと相槌を打つのではないかと思います。
季節や行事の課題は、うまく使うと、家庭の文化作りに生かせるかもしれませんね。
海外にて作文教室を開いている者としては、漢字が難関だと私は感じます。家庭では日本語、学校では英語で生活している子供ですと、英語、日本語とも発音はほぼ完璧です。
でも、日常生活で漢字を目にしない、(例えば、看板、道路標識、お菓子のパックや、アニメキャラクター、教科書、まんが本でも英語)となると、教える方も一苦労です。見慣れていない、って、大変だなぁと思っています。
バイリンガルとは、会話、読み、書きができるということですよね?でも、両国の文化や歴史も知らないと、知的なバイリンガルにはなれないだろうなぁ。
akkoさん、コメントありがとうございます。
なるほど、日本語の文字環境にいないと、漢字が苦手になりやすいんですね。
漢字というのは、できる人はできて当然ぐらいに思っている一方、できない人はそうは思わないというギャップの強い勉強です。
それは、漢字が単なる知識ではなく、思考のツールとして無意識のうちに使われているからだと思います。
漢字の勉強は、簡単にできると思わずに、本腰を入れて取り組む必要がありそうです。
言葉の森でも、これから漢字の学習について(それから書写の学習について)研究していきたいと思っています。
日本語脳が形成されることで、日本語が母語になるのだと思います。やはり8歳位までの幼少期の過ごし方が大切ですね。
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「続日本人の脳」(角田忠信著 大修館書店)によると、日本人は左脳で、子音の言葉、母音の言葉、自然の音、虫の声などほとんどの音を聞き取り、右脳では、西洋音楽、機械音だけを聞き取ります。
これに対して、日本語以外の世界中のほとんどの言語、例えば、英語、フランス語、ドイツ語、中国語、韓国語などは、左脳で、子音の含まれる言葉だけを聞き取り、それ以外の母音の言葉、自然の音、虫の声、西洋音楽、機械音などはすべて右脳で聞き取ります。
コオロギの声を聞いて、「もう秋だなあ」としみじみ思うのは、日本人だけです。風がビューッと吹いたり、海の波がザブーンと打ち寄せたりするのも、日本人なら、風の言葉、波の言葉として聞き取りますが、日本人以外のほとんどの民族は、無関心か、ただの雑音としてしか聞き取りません。
ところで、この日本人の脳の仕組みを形成したものは日本語です。日本語は、母音だけが単独でも意味を持つ世界でもまれな言語だからです。例えば、「ああ」「いい」「あお」「うえ」「いえ」「いう」「あい」など、母音だけで成り立つ言葉がかなりあります。
日本人は、言葉を処理する左脳で自然の音も処理するため、自然との一体感を持ちやすく、また、論理と情緒が同じ左脳に同居しているため、論理にいつも情緒的なニュアンスが伴いやすいのです。
この日本人に特有の脳を日本語脳と呼び、それ以外の脳を仮に西欧語脳(中国語や韓国語などアジアの言語も含まれますが)と呼ぶとすると、日本語脳と西欧語脳の違いは、6歳から8歳の言語環境で決定されます。
日本人が6歳よりも前にアメリカなどで暮らすようになった場合、現地の英語はすぐに習得しますが、このときの英語力は日本に戻ると消えてしまいます。6歳以前では、習得した言語は定着しません。
ところが、6歳から8歳にかけてアメリカで暮らすと、この時期の言語環境は決定的で、脳の仕組みは西欧語脳になってしまいます。こうなると、たとえバイリンガルとして日本語も英語も同じように自由に使えるとしても、基本の脳は西欧語脳ですから、日本人の持つ情緒がわからないという問題が出てきます。
今、子供をつれて海外に赴任する日本人はかなりいます。その子供たちが、現地の言葉と日本語の両方を自由に使えるようになるということも大変ですが、日本語脳を形成した上でバイリンガルにするとなると、更に難しくなるということです。
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ところで、受験に合格するための作文は、少し性格が違います。根っこの部分を充実させることはもちろん大切ですが、受験までの数ヶ月で実力をつけるというわけにはいきません。
受験のための作文は、今既にある実力の範囲で、できるだけ合格できそうな作文を書くことにあります。(と、ここまでが前回の話)
合格を目的として作文を書く場合も、言葉の森の独自の指導法が生きてきます。言葉の森の指導の特徴は、作文を書く前に事前の指導をする点です。どういう構成で、どういう点に注意して書けばいいかということを事前に指導できるので、子供たちは迷わずに書き出すことができます。
そして、普段からこのように構成的に書く練習をしていると、試験の本番でも自然に全体の流れを意識して書くことができるようになります。
作文を書く場合、ほとんどの人は、まず書き出して、あとは考えながら書き進めるという形で書いていきます。自分の趣味で文章を書く場合は、これでいいのですが、受験という限られた時間で与えられた課題で書くときは、書きながら考えるというやり方では出来不出来の差が大きくなりすぎます。
全体の構成を意識して書くと、常にある一定の文章が書けるようになります。つまり、全体の構成を考えて書く書き方は、上手に書くための条件ではなく、下手に書かないための条件なのです。
そして、この下手に書かない書き方ができたら、あとは、実例と表現の部分で上手に書く練習をしていきます。
作文というものを、構成、題材、表現、主題、表記という5つの面から見た場合、構成は、意識的に構成を考えて書くことによって力がつきます。言葉の森で勉強している生徒は、構成のしっかりした作文を書くという特徴があります。
題材(実例)と表現は、偶然に左右されやすいものです。だれでも、たくさん書く中には、必ずいい実例といい表現が出てきます。その実例と表現を自分の作文の武器としていつでも使えるようにしておきます。合格する作文を書く場合、この実例と表現の練習をすることが最も重要です。
主題(意見・感想)は、人による差がそれほど大きくはありません。人間の考えることはだれでの同じようなもので、特にユニークな意見を書こうと無理をすると大体失敗します。自分が普通に考える意見や感想を書き、そのかわり、実例と表現の部分で個性を出していくというのが上手な作文を書くコツです。
表記というのは、「漢字を使って書く」「誤字がないようにする」「常体か敬体に統一して書く」「段落をつける」などのことです。誤字をなくす練習は、かなり時間がかかります。しかも、誤字は勘違いして覚えているというケースがほとんどですから、実際に作文を書く中で誤字を発見するというやり方しかありません。そのためにも、作文の練習では、まず書いてみるということが大事です。
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