日曜日に、天野敦之(あまのあつし)さんの
「宇宙とつながる働き方 経済を回復させるたった一つの方法」を読みました。天野さんは、一橋大学を出て証券会社などに勤務したあと、現在公認会計士事務所を開いている人です。
この本に書かれていることは、これからは個人の利益追求ではなく、全体とのつながりを取り戻すことが大切だということでした。私はこの本を読んで、経営の最先端で仕事をしてい人からこういう提言がなされる時代になったのだと、世の中の流れの大きな変化のようなものを感じました。
ちょうど、同じ日に読んだ本が、佐藤優(さとうまさる)さんの
「日本国家の神髄」でした。これは、戦前に出ていた「国体の大義」を、佐藤さんの考えを盛り込みながら解説した本です。この本に書かれていることは、日本文化の伝統の最も根本にあるのは、欧米の孤立した個人主義とは正反対のものだということでした。
現代の経営書と戦前の思想書が、不思議にも共通した問題意識で書かれていたのです。(こういう発見があるのが
「パラレル読書」のいいところです。)
現在の日本社会のさまざまな制度を形作っているものは、ばらばらの個人の対立する利害を調整するという欧米文化を反映したものです。日本には、もともと社会全体をひとつの家族のように見なし、互いの思いやりと察し合いで社会を運営しているという伝統がありました。これからは、そういう日本のよさを再構築する時代なのだと思います。
さて、現在の教育も、欧米流の孤立した個人という考えに立脚したものとして運営されています。その表れが、競争に勝つための勉強、点数を上げるための勉強、報酬を得るための勉強という考え方です。この考え方に基づいて子供たちに意欲を持たせようとするのが古い勉強法です。
新しい勉強法は、次のような考え方に基づいています。競争に勝つためではなく社会に貢献するための勉強、点数を上げるためではなく自己を向上させるための勉強、報酬を得るためではなく創造を楽しむための勉強です。
そして、この新しい勉強法が最も求められているのが作文の勉強なのだと思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255) 勉強の仕方(119)
パラレル思考を育てるもうひとつの方法は、言葉の森で使っている構成図です。
人間が何かを考えるとき、考えながら書くという過程が必要になります。
古代ギリシアでは、まだ「書く」という文化が発達していなかったため、対話というものが主な思考の方法でした。今でも、この対話の方法は有効で、ディスカッションによって考えが深まるというのは、多くの人が経験しているところです。
しかし、日本語は、ディスカッションよりも書くことによる思考の方が向いている言葉のようです。
日本語は、漢字かな混じり文という世界でも珍しい文字の使い方をする言語で、文章がビジュアルに読めるという長所を持っています。
アルファベットだけの英語や漢字だけの中国語では、すべての文字が同じように見えて文章全体が平板に目に入ります。そこで、文章を読むときは、かなり逐語的に読まなければ内容が理解できません。
ところが、日本語は、漢字とひらがなとカタカナの混じった文章なので、漢字の方は重い意味のある言葉として立体的に持ち上がるような感じで目に入ります。ひらがなの方は軽いつなぎ言葉として平面的に広がるように目に入ります。カタカナは、漢字とはややニュアンスの異なる現代的な言葉で、やはり立体的に持ち上がる感じで目に入ります。
英語や中国語の文章が一次元の平面で読まれるのに対して、日本語の漢字かな混じり文は、最初から二次元の立体構造をもって読まれるのです。このため、日本語で書かれた文章は、他の言語で書かれた文章よりも理解しやすいという特徴を持っています。日本が、世界で最も海外からの翻訳した文章が豊富な国であるのは、この理由によるものだと思います。
さて、この漢字かな混じり文の持つ立体構造を更に生かすのが、散らし書きというスタイルです。
何かを考えるためにノートとペンを使うとき、シリアルに一列に文字を書いていくのが普通ですが、それではせっかくの日本語がシリアル思考的な使い方になってしまいます。シリアル思考というのは、後に続く文が常に前の文からの制約を受けながら展開していく形です。
もっとも人に読んでもらう文章は、シリアルに一列で書くのがルールです。シリアルであっても、普通は35文字ぐらいで折り返して、段落をつけながら書いていくので、それほど読みにくい感じは受けません。
しかし、考えるときは、わざわざこのようにシリアルに一列で書く必要はありません。それよりも、思いついたことを次々と散らし書き風に広げていき、それぞれの短文を書いた順に矢印でつないでいくと、発想が自由に広がります。これが構成図の考えです。
短文の散らし書きを矢印でつないでいくだけなので、思考に次々と新しい飛躍が生まれます。相互に関係のないことも並行して書いていくことができるので、相互に関係のない本を並行して読む読書のように、通常のシリアル思考から離れた立体的な思考ができるようになります。
しかも、日本語はもともと立体的なので、特にマインドマップのように絵をかいたり、線を太くしたり、カラーで書いたりする必要はありません。1冊のノートと1本のペンだけで、どんどん考えを広げていくことができるます。
このように、IQを高めるパラレル思考の練習に、読書と作文を使うことができるのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。構成図(25) 勉強の仕方(119)
苫米地英人さんは、IQを高めるためにパラレル思考が必要だと述べ、その練習法として次のようなやり方を説明しています。(
苫米地英人作品一覧)
「レストランに入り、メニューを見て1秒で食べたいものを決め、そのメニューを選んだ理由を1秒で5つ考え、その5つに対して1秒で5つの反論を考え、更に、その合計25個の反論に対して1秒で再反論をする」という方法です。
メニューを見て1秒で食べたいものを決めるという時点で、もうだめだと思う人も多いと思います(笑)。
そこで、もっと簡単なパラレル思考の練習方法を紹介します。一つは付箋読書によるパラレル読書法、もう一つは構成図によるパラレル作文法です。
まず、付箋読書によるパラレル読書法から。
読みたい本を10冊から20冊用意して、机の横に積んでおきます(以下、わかりやすく20冊として話を続けます)。そして、1冊を手にとったら十数ページ読みます。きりのいいところまで読んだら、読み終えたところに付箋をつけて、次の本を手にとります。そのようにして、次々と20冊の本を読んでいきます。
本の中には、おもしろくてはかどるものと、難しくてなかなかはかどらないものがあります。はかどるものは、自然にたくさん読むようになりますが、はかどらないものもそれにつられて必ず少しは読むようになります。
こうして20冊をひととおり少しずつ読んだら、また最初の1冊目に戻って同じように読んでいきます。普通、1冊だけの読書を続けていると飽きてきますが、この並行読書は全然飽きません。飽きたら、次の本に移ればいいだけだからです。
このようにして読んでいくと、頭の中で20冊の話がパラレルに進行していきます。相互に関係のない本であればあるほど、いろいろなことを思いつきます。また、読書の量も自然に増えてきます。
(つづく)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。読書(95) 勉強の仕方(119)
前回、
「厳しい叱り方」の話を書いたので、今回は、優しい愛し方の話を書きたいと思います。
優しく愛するというのは、難しいと言えば難しいことですが、簡単と言えば全く簡単なことです。それは、自分を捨てればいいだけだからです。と書くと、それが難しいのにという声も聞こえてきそうですが。(^^ゞ
インドの聖者アマチは、会場に来た人をすべて一人ずつ抱きしめることによって癒すという旅を続けて世界中を回っています。(
「聖者アマチとの対話」)
ある日、会場にハンセン病の男の人がやってきました。顔中から膿(うみ)が出ている患者です。アマチが静かにその額の傷口をなめはじめると、会場にいた人の中に気絶してしまう人が出てきました。そこで、アマチは全員に会場から出てもらい、その患者とアマチの従者との数人だけになったあと、口で傷口の膿を吸い出しては、洗面器に吐き出すという行為を続けたそうです。そして、膿を全部吸い終わると、静かにその人を抱きしめました。
愛というのは、こういうことです。この話を極端に思う人もいるかもしれませんが、すべての愛には同じような本質があります。
教室にも、いろいろな子が来ます。いい子がほとんどですが、時に、いたずらな子、言うことを聞かない子、反抗する子、意地悪な子なども来ます。そのときの大人の自然な感情は、「嫌だなあ」「避けたいなあ」というものです。
しかし、そこで一転、その子を心から好きになってあげればいいのです。その心の転換には、理由も何も必要ありません。ただ一瞬で、心を愛の状態に変えればいいだけです。
あえてコツのようなものを挙げるとすると、小さい子であれば、それが自分の子供だったらと考えてみることです。更に、その子がもうひとりの自分自身だったらと思えばいいのです。どんなに許せないことがあっても、自分を許せないという人はいません。
なげやりで、やる気がなくて、反抗的な子を見ていると、普通の大人であればそういう子を相手にしたくなくなります。しかし、そこで気持ちを愛に切り換えると、なぜか笑いが生まれてきます。目の前のふてくされているような子が、すごく面白い存在のように見えてきます。この広い宇宙の中の、この小さな場所に、だれからも嫌われそうな子と自分がいるということが、すごく可笑しいことのように思えてくるのです。
すると、思わず口から出てくる言葉にも冗談がこもり、子供の反応にも明るさが出てきます。そこで、その子供が急にいい子に変身してしまうこともありますが、別にいい子にはならなくても、その時間がその子と自分にとって楽しい時間になればいいのです。
人間には、あらゆる許せない理由、嫌う理由があるにもかかわらず、たった一つの決心で相手を許すことのできる能力があります。愛も同じです。必要なのは、愛そうという決心だけです。
どんなに許せない相手、嫌でたまらない相手に対しても、決心一つで愛することができます。それができないのは、自分を捨てる決心がまだないからです。
ただし、愛とは、強い相手の横暴を許すことではありません。自分よりも強い相手の不当な行為に対しては、断固として闘うというのは最初の前提です。世界には、最近、そういう横暴な大国が多いので、というのはまた別の話になりますが。しかし、自分よりも弱い相手に対しては、何があっても許すことができなければなりません。
この愛の練習方法としていちばんいいのは、トイレ掃除だと思います。唐突ですが(笑)。
トイレ掃除には、「汚い」「嫌だ」という気持ちがだれにもあります。しかし、ここで自分を捨てることによって、なぜか自然にもっと別の感情が生まれてきます。それも、自分の家のトイレではなく、他人の家のトイレや、公園など公共のトイレであれば、なおいいと思います。
昔、軍隊には人間を鍛えるという教育的な面がありました。旧日本軍の軍隊には、人間をいじけさせる面もかなりありましたが、軍隊が、いろいろな形で人間の規律や自己犠牲を学ぶ場所になっていたのです。
しかし、今日の社会では軍隊はもう必要ありません。そこで、教育の中でトイレ掃除を行うようにすればいいと思います。どうしてもトイレ掃除だけはしたくないという人は、托鉢(たくはつ)でもいいかもしれません。
何か古くさい話になってきましたが、日本の文化にはもともとこういう愛と寛容の精神を育てる仕組みが数多くあったのです。
愛というのは、一つの決心です。動物も、自分の子供を愛するために自己犠牲もかえりみないという愛の行動をとるときがあります。しかし、人間の愛は、愛する理由が何もない中でも、たとえそれが敵であっても愛することができるという、動物の水準を超えた面があります。そして、それは決心さえすれば、だれにもできることなのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。子育て(117)
言葉の森のホームページの趣旨にそぐわないと思われる方もいるかもしれませんが、私たちの生活も子供たちの成長も、急迫する政治情勢とは無縁ではないということで書きたいと思います。
今回の尖閣事件の本質は、日中間で戦争を起こさせようと意図しているグループの思惑が一致したことにある。
具体的には、中国のある特定のグループが、国内の権力闘争に日中間の摩擦を利用しようとしていることが一つ。もう一つは、アメリカのやはり特定のグループが、日中間の戦争で漁夫の利を得ることによってアメリカ国内の今後の破綻を糊塗しようとしていることである。
つまり、中国の一部の勢力とアメリカの一部の勢力が、互いの思惑が一致して、何も知らない日本を中国との戦争という袋小路に追い込もうとしているのである。
したがって、日本は、米中の駒として利用されようとしているというのが、現在の情勢の正しい見方である。
彼らのシナリオは、まず、日本と中国が小さな武力衝突を起こすことから始まる。そして、中国が日本の一部を侵略する。その結果、日本の国内で軍事的な対抗策を求める声が高まり、日本の軍事化が急速に進み、日中間の戦争へとエスカレートする。この間、アメリカは、日中間の戦火が拡大して止められなくなるまで動かない。
ここまで来れば、このシナリオで得をするのはだれで、損をするのはだれかということがわかるが、そこでわかったのでは遅いということである。
私は、自分のブログで、日本は毅然として中国の不法な行為に対峙せよということを書いたが、毅然として対峙するというのは、武力に対して武力で応えることではない。あくまでも平和な議論によって話し合うことである。
そして、その一方で、日本は事態の解決に向けて動かなければならない。日本が動く場所は、中国との交渉ではなく、アメリカとの交渉である。
もともと米中の一部の勢力の隠れた思惑で始まった事件なのだから、日本が当事者ではなく、アメリカと中国が当事者である。そして、このことで、米中が戦争を開始しようとするならば、日本はそこから静かに抜けなければならない。それが本当の勇気である。
日中は争わないという一点を明確にしておくことが必要だ。
以上の見方に賛同される方は、情報を拡散していただければと思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
今、米中で進められている軍事対話の再開も、この文脈で考える必要がある。
一方、ロシアの北方領土訪問計画は、単にロシアがこの機会に自分の利益も拡張しようとしているだけだ。
今回の領海侵犯事件はいわれるような背景があるのかもしれませんね。
一市民が自分の船で遠くの日本領海を侵犯し、相手艦船にぶっつけるという行為を自前で、やるはずがない。
中国人は個人主義で、そういうことをやる人種ではないと聞いている。
そうすれば、裏になにかありますね。
おっしゃるように、日本は毅然と対応すべきです。
もちろん武力はいけません。
100年前と今は情勢が違います。
それを100年前と同じ対応を相手がしても、こちらはしてはなりませぬ。
daikaisuiさん、ありがとう。
裏で操られている人が結構いそうです。中国にも、日本にも。
特に、マスメディアがいちばん裏で操られていそうな気がしないでもありませんが(笑)。
新聞やテレビの扇情的な記事に流されないようにする必要がありますね。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。政治経済社会(63)
農業時代、工業時代のあとに来る社会を、これまでは、修行社会とか、文化産業の時代とか、教育革命の時代とかいろいろな形で書いていましたが、今回は、それらをまとめてポスト工業社会の時代という言葉で書いていきます。
社会が、農業→工業→ポスト工業へと進むにつれて、生産力の概念が変わってきます。それは、価値の中身が変わるからであり、豊かさとしてイメージするものが変わってくるからです。
豊かさとは、その人が何を求めているかによって変わってきます。飢えている人にとって、米倉(こめぐら)が豊かさの象徴です。これが農業時代の豊かさのイメージでした。
工業時代には、消費財の豊富さが豊かさの中身でした。そして、この工業時代には、工業生産のための資金が重要だったので、資本=お金も豊かさの象徴でした。この工業時代に、今突入しているのが発展途上国なのです。
しかし、先進国では、豊かさの中身はもはや消費財ではなく、自己の向上のようなものに変化しています。このポスト工業時代に必要なのは、資本ではなく創造的な研究開発つまり独創性です。そして、独創性は、投下した資本の量に比例しません。
だから、工業時代からポスト工業時代に移行するとき、企業は株式会社という組織である必要はありません。また、上場して資金を集めやすくする必要もありません。むしろ、資本によって他からの支配を受けないようにするために、工業時代の組織から抜け出る方がいいのです。
では、なぜ、今工業時代からポスト工業時代に向かっているはずの日本で、豊かさの実感がないのでしょうか。それは、日本人が、自分たちの本当に消費したいポスト工業的なものを生産せずに、依然として工業時代の生産を行っているからです。
以前、
「中国から離れ、日本の文化創造に目を向けよう」という話を書きましたが、工業時代に突入しようとしている途上国の消費の量に目を奪われて、それに合わせた生産を行おうとすればするほど、日本は豊かさの実感から遠ざかることになります。
日本は、過去の工業時代の生産から離れて、自分たちが本当に求めているポスト工業時代の生産に向かう必要があります。それが、「日本の文化創造に目を向けよう」ということです。そうすれば、突然日本の中でお金が回るようになり、新しい豊かな社会が生まれてくるのです。
そのときの消費は、工業生産物の消費ではなく、より文化的な消費になるでしょう。消費というよりも、文化的な自己向上そのものが消費の中身になっていくのです。
そのために必要な教育は、幅広い教養、自分の好きなものを発見する力、そしてそれをビジネスとして組み立てる力を育てるものになるでしょう。
これからは、大きな会社に勤める時代ではなくなってきます。今の大会社の多くは、工業時代の会社です。それは、第三次産業の会社である場合もありますが、その場合でも、工業時代の社会に合わせた第三次産業の会社です。それらの会社は、これから常に人件費削減のベクトルを伴って運営されていくようになります。現実にリストラに合うということはないとしても、人件費の削減が経営の柱になる会社で仕事をすることは、あまり幸福なことではないでしょう。
これからの社会は、自分で起業する、又は家族で起業するような人が増える社会になってきます。この場合、その会社では、商品を売るのではありません。商品を売る会社であれば、工業時代の会社で規模の大きい方が有利ですから、新たに個人が起業する余地はありません。ポスト工業時代の会社は、商品を売るのではなく、自己の向上を目指す顧客がサービスを受けにくるという形の会社になります。
このポスト工業時代に必要な教育は、工業時代に必要だった教育とある面で重なっています。しかし、重なっていない部分もあります。重要な教科をしっかり勉強するというのは、工業時代にもポスト工業時代にも必要です。しかし、ポスト工業時代には、それに加えて、受験には直接関係のないような科目も含めて幅広く勉強することと、自分の好きなことをできるだけ早く発見することが重要になってくるのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
ポスト工業社会ですか。
工業社会が人間的、自然的な方向に変化あればと思うのですが、フイーリングだけで、具体策は浮かびません。
自然と共存できる工業社会であってほしいものです。
今、工業社会に済む私たちが、例えば、「農業の生産力が2倍になった」と言われても、それで自分たちの生活が豊かになる感じはしません。農業は、人間の生存に必要な産業ではあっても、既に過去の産業だからです。
同じように、工業における技術革新も、先進国においては、それが自分たちの豊かさや幸福度を増進するものとしては受け止められなくなりつつあります。それは、先進国の人たちの欲望が、工業生産物を超えたものに向かっているからです。
だから、今、発展途上にある中国やブラジルが、工業生産物を豊かの基準と感じて旺盛な消費を行っているとしても、日本まではその消費に合わせようとする必要はありません。
しかし、日本の企業はこれまでの成功体験の延長で、「アメリカの消費が終わったから、次は中国だ」と勘違いしているのです。本当は、アメリカと同じように、中国もアメリカの過去をなぞっているだけです。
だから、日本のすることは、中国から離れて、自分の国の新しい文化創造に目を向けることなのです。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)
人類の生活は、最初、狩猟と採集から始まりました。
やがて、狩りの場所が確保されるようになると、生活に一つのサイクルが生まれ、それは牧畜へと発展していきました。しかし、牧畜は広大な土地を必要とするため、集積した文化は発達しませんでした。
一方、採集文化でも、採集の場所が確保されるようになり、循環する生活ができるようになると、採集文化はやがて、栽培、そして稲作文化へと発展していきました。稲作文化は、狭い場所で成り立つので、集積した文化が成立しました。
稲作によって増加した生産力の中身は食料で、当時は食料による生存が人間の欲望の中心でした。
これが農業革命で、日本では弥生時代にこの農業の生産革命が始まりました。そして、これが、日本が国家として統合してゆく出発点になりました。
当時の動力は、水車、牛馬、人力、そして太陽エネルギーのようなものだけでしたから、生産力の増加には限界がありました。
ところが、ヨーロッパで動力としての水蒸気が利用されるようになると、内燃機関の発達と呼応して機械工業が発達していきました。
この機械工業によって大きく増加した生産力の中身は、衣料品などの消費財でした。つまり、この当時の人間の欲望は、食料を求めての生存の欲望から、便利で快適な生活を求めての生活の欲望に変わっていったのです。
この消費財への欲望が、更に、耐久消費財の欲望や生産財への欲望へと発展していきます。このころから人間の欲望の中身は、単なる便利さや快適さだけではなく、他人よりも優位に立ち、他人を支配することに変化していきました。そして、この欲望が、企業、国家、金融、軍事へと組織化されていったのが現代までの歴史です。
ところが、現在、エネルギーの分野でフリーエネルギー革命が起きようとしています。エネルギーがフリーで豊富に手に入るようになると、富によって他人を支配するという仕組みが無意味なものになってきます。
すると、そのあとに登場する人間の欲望は、生存でも便利でも快適でも優位でも支配でもなく、自分自身の向上になっていくと思います。自己向上という財産に対する生産力が飛躍的に増加する、これが今後予想される教育革命の中身です。
しかし、今はまだ、この教育革命と正反対の状況が見られます。例えば、細分化する個別指導、複雑化するメディア教材、そしてそれらを利用したテストの成績のための教育です。現代は、テストや学歴という外面的なものから、自己の向上という内面的なものへ人間の欲望が進化する一歩手前の時代なのです。
一方、このような人類の生産革命と並行して進んできたのが、人類の精神革命です。
直立歩行と道具の使用によって大脳を発達させた人類は、右脳の感覚を共有する時代から、左脳の言葉による伝達の時代へと進化していきました。言葉による伝達は、当初音声による伝達、つまり話す力聞く力が中心でしたが、やがて文字による伝達が生まれ、それが印刷の時代、学校と出版の時代へと進化していきました。そして、現代は、インターネットとブログの時代になり、文字による伝達、つまり読む力と書く力が求められる時代になっています。
この精神革命における最後の到達点で人間が求めているものは、もっと知りたい、そして考えたい、更に考えたことをみんなに伝えたいという欲望で、この精神革命の到達点が、生産革命における自己向上の欲望へと結びつこうとしているのが現代です。
現在は、教育における生産革命の萌芽状態にあり、新しい生産のためのツールが登場するのが待たれている時代なのだと思います。
言葉の森の教材作りを考えるとき、当面の受験に合格するための教材にももちろん力を入れていきますが、それ以上に、自己を向上させる教材ということを念頭に置いていきたいと思っています。
今回も、またかなり大きい話になってしまいましたが。(^^ゞ
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)
子供の成長にとって、父親と母親の役割は、それぞれ違う形で重要です。
父親は主に躾を担当し、母親は主に愛情を担当します。もちろん、どちらにも両方の役割が必要ですが、敢えて役割を分担すればそのようになるということです。もちろん、逆の家庭もあるとは思いますが(笑)。
教室で、時々次のような子がいます。先生に何かを言われても、すぐに返事をしない。「これをして」と先生が言っても、平気で「いやだ」「やらない」などと言う。一度で言うことを聞かずに、何度か言われて初めて言うことを聞く。
いずれもかわいい子供たちですが、やっていることがにくたらしいのです(笑)。しかし、これらは、すべて子供たちの問題ではなく、家庭でこれまで子供たちがそういう態度をとっていても、親がそれをそのままにしてきたという問題なのです。
しかし、子供ですから直すのも簡単です。教室で一度厳しく注意すると、次からはちゃんとできるようになります。
子供と犬を比較するのは問題がありますが、吠えるなと言っても吠える犬、噛むなと言っても噛む犬、待てと言っても待たない犬、おいでと言っても来ない犬などは、もともとの犬の性質による面もありますが、大部分は人間の躾の仕方によるものです。
躾の最も決定的な場面は、褒めて直すところではなく、叱って直すところにあります。確かに、いつでも優しく褒めるというのも難しいことですが、もっと難しいのは、肝心なときに、しっかり短く厳しく叱るということです。
本当は、優しく褒めるだけでいい子に育てばいいのですが、人間の先祖はもともとサルですから(という理由は変かもしれませんが)、たまには叱らないと、やはりいい子にはならないのです。
肝心なときに叱ることができれば、普段は、子供も親も楽しい関係を保つことができます。しかし、それが、多くの家庭では、逆になっています。つまり、肝心なところで叱っていないから、いつも小言を言うような接し方をして、子供も親も一緒にいるとくたびれるということになるのです。
肝心なときに叱っていない最大の理由は、主に父親が叱りなれていないということにあると思います。そして、父親が叱りなれていない原因は、それまでに子供を叱る経験があまりなかったことによるものです。
では、叱る経験を増やすためにはどうしたらいいのでしょうか。
そのためには、まず小学校低学年のころから、家庭での絶対に守るルールを一つ決めておくことです。例えば、朝起きたらあいさつをする、玄関の靴をそろえて脱ぐ、席を立ったらイスをしまう、家の仕事を手伝うなどです。実行しやすいものをどれかひとつ決めておき、そのことに関してだけは絶対に妥協せず厳しく守るということにします。
ただし、これは、両親がともに実行できるものでないと徹底しません。お母さんが子供に、「玄関の靴をそろえるのよ」と言っても、お父さんが平気で脱ぎ散らかしていては子供に徹底できません。子供は、何回か叱ればできるようになりますが、大人は何回注意しても直りません。それは互いに人生の価値観が違うのですから仕方ないとあきらめて、両親がともに無理なく実行できるルールを家庭でのルールとして決めておくことです。
そして、家庭でこのようにルールを決めておき、子供がそれを実行できていないときに厳しく叱るようにします。そのときに厳しく叱る役割は、やはり父親の方が向いています。そのときに、母親は、「そんな強く叱らなくても」などとは言わないことです。これは、叱り叱られる練習をしていることだからです。そのかわり、母親はあとで優しくフォローしてあげればいいのです。間違っても、父親が子供を叱っているときに、母親も一緒になって子供を叱らないことです。
このように、家庭の中で、やれば当然できるというルールを決め、できていないときは厳しく叱るということにして、それを年齢に応じて少しずつ変えていきます。
よく中学生や高校生で、母親に乱暴な言葉づかいをする子がいると思います。例えば、母親が何か注意すると、「うるせえなあ。わかったよ」などと言う子です。いるでしょ(笑)。そういうときは、即座に間髪入れずに、「何だ。その言い方は! ちゃんと言い直せ」と叱らなければなりません。
そういう叱り方ができないとしたら、それは、小学校のころから親が厳しく注意をしたことがあまりなかったからです。しかし、小学校のころに厳しく叱って育てていない子に、中学生になって厳しく叱るというのはまずできません。叱り方も、親が試行錯誤の中で少しずつ身につけていくものだからです。
ところで、「厳しく叱る」というと、多くの人は「かわいそう」という感じを持つと思いますが、そういう叱り方ではありません。厳しく叱っている最中でも、親は心の中では全然怒っているわけではありません。だから、叱ったすぐあとに、さらりと冗談を言って笑わせるようなこともときどきするといいのです。
そういう厳しいが明るい叱り方をするというのも、やはり試行錯誤の積み重ねの中でできるようになることだと思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。子育て(117)