言葉の森では、褒める指導ということをよく言います。
しかし、私は、実際にはよく子供を叱ります。すぐにできることをいつまでもしない子には、特に厳しく叱ります。例えば、「○○君、こっちにおいで」と呼んでも返事をしないでほかのことしていたり、「ちょっと待って」と言いながらずっとほかのことしているような場合です。
こういう子は、家庭でも、親が何度言っても言うことを聞かず、そのうちに親がどなって初めて言うことを聞くか、何度か言っているうちに親が面倒になりそのまま忘れてしまうか、どちらかのパターンで生活しているのだと思います。
私の場合は、一度優しく口で言って、わからなければ即ゲンコツです(笑)。そういう対応を何度かすると、みんな一度で言うことを聞くようになります。これは、かわいそうなことではなく、年中小言を言って注意することの方が、子供にとってはずっとかわいそうなことなのです。
そして、こういう厳しい叱り方をしても、子供たちはみんなよくなつきます。それは、厳しい叱り方であっても、それが短く、最後には笑いを入れて、そのあとは愛情を持って接しているからです。
褒めるのは簡単なことですが、叱るのはなかなか難しいことです。そして、しっかり叱ることができるから、褒めることもより効果的になるのです。
そういう意味で、叱ることは大事なことなのですが、では、なぜ褒めることを強調するかというと、それは子供のためというより、むしろ親のためなのです。
今の母親の多くは、頭がよくて話もよくできるので、他人の欠点がすぐ目につき、その欠点を指摘したがるところがあります。もちろん、同じように賢い母親で、もっと謙虚で他人の欠点を見ても温かく包み込み、どうしても言った方がいいときだけひとこと注意をするというような人もいますが。
問題は、欠点によく気が付きすぐにひとこと言いたくなる親の方で、それが子供の方に向けられると、子供はいつも親の目をうかがうようになります。「これ、どうしたらいいの」とすぐ聞く子は、これまで自分の判断で何かをすると、その結果を親に注意されながら育ってきた子です。
例えば、子供が自分から思いついて、ひとりで玉子焼きを作ったとします。子供の行動ですから、うまくできたという面と、必ずうまくできていない面とがあります。例えば、あと片付けをしていない、うまく焼けていない、たくさん作りすぎたなどです。そのときに、うまくできた面だけを褒められる心の広い親ならいいのですが、多くの親は先にうまくできていない面に目が向いてしまい、その注意をしてしまうのです。
もうひとつ例を挙げると、子供が成績表をもらってきたときです。成績ですから、よくできた面と同時によくできていない面があります。よくできた面だけを褒めて、そのついでによくできていなかった面を励ましてあげればいいのですが、多くの親は、最初によくできていない面に目が向いてしまい、そこで注意を始めてしまいます。
こういうことが積み重なった結果、多くの子供が自主的に行動することに自信を持てなくなっているのです。
親は、理屈の上では、子供にのびのびと育ってほしいと思っているはずですが、気になることをつい注意してしまうということで、やっていることは、のびのびとは反対のことをしていることが多いのです。
では、どうしたらいいのでしょうか。
まず第一に、よいことはささいなことであってもすぐ褒めることです。そして、褒めることに飽きないということです。
第二に、親と子供の関わりがいちばん多い勉強について、子供が小学校低学年のときは特に、子供にあまり教え込まないことです。つきっきりで勉強のアドバイスをするというようなことは、極力しないようにします。
子供が勉強しているとき、親は近くで自分の仕事をしているか、ただ横にすわってニコニコしながら見守っているだけです。そして、子供に何かを聞かれたときには、簡単にこたえるようにしますが、決して教えすぎないようにします。
そして、子供がやった結果に対してたくさん褒めてあげて、どうしても直したいことがあるときだけ、1、2ヶ所にとどめて指摘するようにします。
第三に、子供の欠点についてどうしても注意したいことがあるときは、一晩寝て翌日になってから注意することです。寝ている間に潜在意識が働いて、よりよい注意の仕方が思いつきます。
以上のことすべてに共通するのは、子供の立場になって考えてあげることです。
子供を褒めることが大事だという話をすると、多くの親が、「実はそれが難しい」と言います。私が、「子供は作文の勉強で、親は褒める勉強です」と言うと、多くの親は納得してくれます。
何を見てもいつもニコニコしていて、肝心なときだけひとこと注意をする。そういう親になるための褒める勉強だとも言えるのです。
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日本の未来は外需から内需への転換にあると多くの識者が述べています。しかし、肝心のその内需の中身はまだはっきりしていません。それは、その内需がこれから創造されるものだからです
新しい内需の条件は、日本人の感性と合っていること、心からワクワクするものであること、そして未来を志向していることになると思います。
そういう条件から考えると、介護、医療、農業、環境などは、真の内需とは言えません。また、海外旅行など豪華な消費生活を楽しく満喫するというのも、日本の未来の内需にはならないようです。
日本の社会が今後創造する内需は、二つの方向で考えることができると思います。
一つは、自己の向上のための修行という内需です。ただし、自己の向上といっても、単にもう一度大学に入って勉強しなおすという程度のものではありません。新しい自分に生まれ変わるというような劇的な向上という意味です。だから、学習というよりも修行というような言葉がふさわしいのです。
今の自分の人生よりも質的に異なるほどの勇気と知性と愛と美に満ちた、生き生きとした人生を送る人間になるための修行が新しい内需の内容です。
具体的な人物のイメージでいえば、その修行によって自分が例えば中村天風のような人間になるというような目標の内需です。
もちろん目標とする人物は人によって異なりますから、自分が一番なりたい人物を思い浮かべればいいのです。例えば、聖徳太子のような人間、仏陀のような人間、イエス・キリストのような人間になるなど、何でもかまいません。
これをオーバーな想像だと思う人もいるかもしれませんが、もともとはみんな同じ人間であれば、それは本来、誰にとっても可能な目標なのです。
人間にとって一番ワクワクするのは、自分がよりよい人間になることです。多くの人は、もしそういう理想の人物になれるとしたら、全財産を投げ出しても惜しくはないと思うでしょう。だからこそ、この自己向上のための修行は、海外旅行の魅力などよりもはるかに強力な内需になるのです。
理想の人物の人生を毎日の生活のイメージでえがくと次のようになると思います。
まず、朝起きたときから、幸福感に満たされていて、日常生活で接するものが何もかも面白く、あらゆる物事の美しい面ばかりが見えるので、生きていることがうれしくてたまりません。
また、優れた知性によって、見聞きしたことを直ちに理解でき、考えることも、話すことも、書くことも、おのずから正しく美しいものになり、作文、絵画、音楽、工作などの表現は、どれも高い芸術性に溢れています。
いざ何かを実行とするときには、果敢な実行力があり、どんな困難にも負けない勇気があり、誰の前でもどんなところでも堂々と行動することができます。
そして、一日たっぷり仕事をしたり遊んだりしていたあとには、朝起きたときと同じように幸福な気持ちで、充実した満足感の中で眠りにつくことができます。
こういう人生を送る人間になることが、これからの内需の一つの内容になると思います。
人類は、農業革命から産業革命へと生産力を拡大させてきました。物の生産力の延長に、人の生産力があります。産業革命では、物の技術革新が行われましたが、これからの社会に現れるのは、人の技術革新です。
しかしもちろん、まだ、こういう商品やサービスを供給する主体はほとんどありません。それは、日本人全体が、まだ自分たちの本当の内需を自覚していないために需要が顕在化していないからです。ひとりひとりが、自分自身の向上こそが自分の本当に求めているものだと気づき、その方向に向かって行動することが、その行動に見合った供給を少しずつ準備していくのです。
しかし、自己の向上という内需は、まだ車輪の片側でしかありません。自己の向上は、もう一つの内需と組み合わさることによって初めて大きな効果を発揮します。そのもう一つの内需とは、起業です。
(つづく)
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小学校3年生の子のお母さんから相談がありました。その子は、毎週、比較的上手に書けている子です。お母さんも。優しく協力的です。
しかし、そんな子がある日、意外と書くことを負担に感じていることがわかりました。
こういうときは、どうしたらいいのでしょうか。
原因は、二つ考えられます
第一は、2年生から3年生に上がり、課題が自由課題から題名課題になって急に書きにくくなったからです。
しかし、題名課題が書きにくいからといって、自由課題に戻すのはよくありません。題名課題のまま書くことをよく準備して、短くてもいいから書くという対応をしていきます
そして、対策としては、構成図を書くときにお母さんが子供と話をしながら一緒に構成図を埋めていきます。
大人が構成図をどんどん書くのであれば、早ければ5分、長くても10分で全部埋められます。そして、子供に、「これで書いてごらん」と言うと大抵の子はすらすら書き出します。
第二の原因は、作文はもともと負担の大きい勉強中だからです。しかも、学校で作文の勉強をしている子んどはほとんどいません。そこで、子供はどうして自分だけがこういう苦しい勉強しなければならないのかと思ってしまうのです。
この対策は、お母さんだけではなく、お父さんに登場してもらうことです。お父さんが、子供の作文を見て褒めてあげ、言葉の森で勉強することの意義を話してあげるのです。
このように、家族ぐるみで作文の勉強バックアップすることによって、子供は、この負担のある勉強にも楽しく取り組む力をつけていくのです
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取り急ぎご連絡いたします 今日16:00~のレッスンは欠席します。
小野先生によろしくお伝えください。
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作文の勉強を考える場合、勉強一般のことも考えておく必要があります。
勉強の目的は、成績を良くすることではなく、頭をよくすることです。
では、頭のよさは、どのような方法で評価されるのでしょうか。
まず最初に考えられるのは志望校の合否です。志望した学校に合格したかどうかは、確かに、その学校の過去問と相性がよかったかどうか、推薦ではなく実力で合格したかどうかなどの要素もありますが、今の社会では、トータルな学力を評価する一つの尺度になっています。
しかし、入試というのは数年に一度しかありません。もっと手軽なものとしては、PISAなどの学力テストによる評価もあります。
知能検査による頭のよさの評価というものもありますが、これは、子供が主に小さいころに使われるものであることと、本来の検査の目的が頭のよさを評価するものではないことから、一般的な尺度とは言えません。
推薦入試などでよく参考にされる、その子の過去のリーダーとしての実績などは、偶然に左右される要素がかなりあります。
同じく、推薦入試では、英語の試験が課される場合がありますが、英語は、ほとんどの学生が授業で勉強しているという点から見ると、その子の勉強全体の学力にほぼ比例しています。しかし、これは、海外からの帰国子女など勉強の前提に差がある場合も多いので、一概に学力全体の評価になるとは言い切れません。
数学の成績は、遺伝とは最も関係が薄いと言われています。数学の成績は、練習の量や解き方コツに関連しているので、頭のよさとは関係がありません。
国語の成績は、本当ならば頭のよさときわめて高い相関があるはずですが、今の国語の成績はそうではありません。
なぜかというと、現在の日本の国語は、文学の要素が多すぎるからです。文学の好きな子は、国語の文学分野が自然に得意になります。そして、なぜ文学が好きになるかというと、そこには多少遺伝の要素もありますが、それよりも、子供のころ熱中するような文学に出合ったということがかなり決定的な理由になるようです。
しかし、文学が好きな子は、数学が逆に苦手になるという傾向があります。文学的な発想と数学的な発想は、その方法がかなり違うからです。
では、頭のよさに最も関連があるのは何かというと、それは作文だと思います。思考力とは、そのほとんどが日本語力ですから、作文に使える語彙の豊富な子は、考えることも理解することも得意です。
しかし、作文の点数は、個人が主観的に評価するだけでは、評価する人による差もかなり出てきます。
そこで、森リンによる点数と、人間による内容の評価の点数が組み合わされれば、そのときの作文の評価が最もあてになる子供の頭のよさ(学力)になると思います。
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野口悠紀雄さんの「
世界経済が回復するなか、なぜ日本だけが取り残されるのか」「
日本を破滅から救うための経済学 再活性化に向けて、いまなすべきこと」を読みました。これらは、日本の現状に対する危機感と、日本の未来に対する責任感が伝わってくる本です。
以前、言葉の森のホームページで、「中国から離れ、日本の文化創造に目を向けよう」という記事を書きましたが(9月25日)、野口さんの著書にも、その記事と同じ問題意識があることがわかりました。
現在、日本の企業の中には、アメリカの需要に代わって中国などの新興国家が新しい需要を創出するという考えで、中国での市場開拓に関心を向けているところがあります。しかし、目先の中国市場に経営資源を投入することは、長い目で見ると日本経済の崩壊につながります。
日本は、日本よりも遅れた中国で生まれる古い内需の供給者になるのではなく、日本で新しく生まれる高度な内需の自己供給者になるのでなければなりません。その新しい内需を作ることが、今の日本に求められているのです。
しかし、その新しい内需は、現在一般に考えられているような介護、医療、農業ではありません。
アメリカは、新しい内需として、IT、金融という他国が追随できない高度な需要を創造しました。日本がこれから創造する内需も、他国が追随できない新しい魅力あるものでなければなりません。
戦後すぐの日本では、腹いっぱい食べられることが魅力の対象でした。高度成長期には、テレビや自動車が魅力の対象になりました。高度成長のころ若者だった人が、家に初めてテレビが来たときや、初めて自動車を持ったときの喜びがどのくらい大きかったかは、今では想像できないくらいのものでした。
そして、1980年代にはコンピュータが、90年代にはインターネットが魅力の対象となりました。このころは、ITの可能性が持つ魅力にだれもが燃えていたのです。
しかし、今では、ケータイも、mixiも、ブログも、ツイッターも、単なるコモディティとしての商品やサービスになってしまい、熱い魅力の対象にはなっていません。
中国をはじめとする新興国で今生まれている大きな需要は、かつて日本人がテレビや自動車に燃えていたころの需要です。すでに過去の歴史となった、先の見通しのわかった需要なのです。
その過去の需要に、これからの日本の産業が対応して、日本の社会が発展するというようなことは、もうありません。日本は、中国やアメリカがまだ見出していない、新しい魅力的な需要を自らの力で開発する必要があります。
考えただけで胸がわくわくするような需要。そのためには食べる時間も寝る時間も惜しくなるような需要、寝ても覚めてもそのことばかり考えているような需要が、これからの日本人が創造していく需要なのです。
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国語と算数の勉強の仕方には、大きな違いがあります。
算数は、わからなくなったら、わかるところまで戻り、わかるまでやるという勉強の仕方です。算数の難問というのは、いくつかの要素が組み合わされている問題で、易しい問題は、その組み合わせの数が少ない問題です。ですから、難しい問題にぶつかったときも、個々の要素に分解して、それぞれの要素を理解して積み上げればわかるという仕組みになっています。
算数は、教科書に書かれていることをマスターすることが勉強の目標です。受験勉強も、その延長にあります。
ところが、国語はそうではありません。小学校5年生で国語の成績が下がったら、小学校4年生の教科書まで戻ればいいというのではありません。その学年の教科書を全部マスターしたからといって、成績が上がるわけではありません。
国語の勉強は、できる子はできるし、できない子はできません。そのできるできないを分けるのは、ひとことで言えば読書の差です。読書の質と量が優れている子は、国語の勉強を特にしなくても成績はいいのです。ただし、国語でも漢字の書き取りだけは、勉強しなければできるようにはなりません。しかし、国語力の本質は、漢字力ではなく読解力です。
算数と国語の違いを、列車の旅の比喩で言うと、次のような感じになります。算数は、あるところまで来て、今いる場所がどこかわからなくなったら、前の駅に戻ればわかります。国語は、あるとこまで来て、今いる場所がどこかわからなくなったら、前の駅に戻るのではなく、周りの景色をよく見なければなりません。たとえ、前の駅に戻ったとしても、やはりそこで周りの景色をしっかりと見なければなりません。周りの景色を見るということは、日本語の日常生活を豊かにすることです。
逆に、算数の力をつけるために、日常の算数的な生活を豊かにするということは見当違いな努力になります。算数は、経験の中で身につける面ももちろんありますが、それ以上に勉強の中で身につけるものだからです。
ときどき、保護者の方から、「うちの子は作文が苦手なので、実際の学年よりもずっと下の学年から始めたい」という要望を聞くことがあります。下の学年に戻って勉強することは簡単ですが、しかし、それが上の学年に進む準備にはなりません。勉強するのは、下でも上でもかまいませんから、何しろ今その学年で読む力をつけることが重要なのです。これが、暗唱や読書の自習の意義です。そして、国語の問題に取り組むよりも、この読む勉強が、いちばん確実な国語の勉強法になるのです。
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先日、でき太くんの算数クラブの人が教室に来て、いろいろ話を聞かせてくれました。(以下わかりやすく、でき太くん)
http://www.dekita.co.jp/
私は、学習塾の関係の人とはこれまであまり知り合いがなく、塾での勉強の実際の姿というものを知らなかったので、とても参考になりました。
でき太くんの話を聞くと、言葉の森がこれまで作文の学習で行ってきたことと理念的な共通点がきわめて多くあり、正直驚きました。
いちばん納得したのは、「教え込まない教育」ということです。
でき太くんの話では、これまでの教育は、先生や親が教えることで、子供が自ら学ぶ力を阻害していたということでした。
ふりかえってみると、私自身も子供のころから人に教わることが嫌いで、自学自習で自分のペースで勉強していくのが好きでした。
自分の子供が小学生のときも、算数などで子供から何かを聞かれたら教えるが、できるだけ教え込まないようにしていました。教えるということはおもしろいことですが、教えられるということはつまらないことだとわかっていたからです。
教えないということは、この場合、長い時間をかけては教えないということです。子供に聞かれたことに対してできるだけ簡単に説明すると、子供はその場ではわかったような気がします。しかし、またすぐ同じことがわからなくなり聞いてきます。そこで、またできるだけ簡単に説明します。その際、「さっき教えたばかりだろう」などということは決して言いません。何度でも同じことを同じように明るく簡単に説明しました。
自分自身が、一度で聞いて理解するタイプではなく、何度も聞いて次第に理解するというタイプだったので、子供もそうだろうと思っていたのです。そのかわり、難しいことでも、易しいことと同じように回数さえ繰り返せば誰でも理解できると思っていました。しかし、これはある意味で、生物すべてに共通する学び方の原理なのかもしれません。
機械は、一度教えればすぐにその動作を正確に行います。だから、柔軟性もないし創造性もありません。人間を含めた生物は、一度教えてもすぐに忘れます。何度も何度も教えられる中で、次第にその動作がその教えられた回数のウェイト付けを伴いながら蓄積されていきます。
つまり、あらゆることをすべて同じように正確に理解するのではなく、あるものごとはすぐに忘れ、あるものごとはアバウトに理解し、あるものごとは正確に理解する、という理解の仕方に濃さの違いがあるのです。
もし、人間がすべての物事を機械と同じように一度で即座に理解するようになると、その人は社会生活をうまく送れない可能性があります。勉強のよくできる子には、実は、多かれ少なかれそういう傾向があります。何でも同じような一律の重要性で正確に理解して行動するので、悪いことをしているわけではないのに、なぜか周囲とぎくしゃくしてしまうことがあります。だから、勉強はほどほどにできないぐらいがちょうどいいのです。いいのか(笑)。
さて、私の子供が中学生のときの勉強法も同じで、子供は塾に行かず自宅で勉強をしていましたが、その勉強法は、本人が自分で数学の問題集を解き、自分で答え合せをして、間違えたものについては自分で解法を読んで理解して、解法を見てもわからないものだけ私に聞くというものでした。ところが、父親である私も、聞かれて即答できるわけではありませんから、解法を見ながら一緒に考えるというやり方でした。しかし、解法がくわしく書かれている問題集であれば子供が自分で理解できるので、教える人というのはほとんど必要ないと思いました。
算数・数学の勉強というのは、特に、先生が生徒に教えたがる勉強です。しかし、それを先生が教えるのではなく、子供が自力で学べるようにしたのが、でき太くんの教材の優れた点だと思います。このやり方であれば、楽しく自主的に勉強してしかも実力がつく、ということがよくわかりました。
今の教育は、教える教育なので、子供にとってはおもしろくありません。私も、子供のころ、学校でイスにすわって先生の話を聞くだけの勉強が嫌でたまらなかったのでよくわかります。小学校高学年のころの教科書は、挿し絵や図表のあるところには全ページ落書きを書いていました。落書きだけが、授業で唯一楽しいことだったのです。真似しないでね。
人間は、自分で学ぶことがいちばん楽しく、人に教えてもらうことがいちばんつまらないことなのだと思います。これは日常生活の会話でも同じで、楽しいのは自分が話すことで、つまらないのは人の話を聞くことです。カラオケでも同じです。人の歌を聴くのが好きというのは、ただ歌の下手な人だけです。私は、下手でも歌う方が好きですが(笑)。
しかし、そこで、人の話を聞いたり人の歌を聴いたりするのが好きという人は、実はかなり人間的にできた人です。子供は、そんなにできているわけではありませんから、先生の話を聞いて何かを教わるよりも、私語で喋っている方が楽しいのです。しかし、いちばん楽しいのは、自分自身で学んでいるときです。
ところが、ほとんどの学校や塾で行われているのは、このつまらない教えられる勉強で、それをテストや競争や賞罰によって煽るという勉強法です。その結果、現在の日本では、学習塾が盛んになればなるほど、子供の全体的な学力が低下するという現象が起きているのです。
でき太くんのような明確な教育の理念と方法を持った教室が増えると、これからの日本は、大きく変わると思いました。
でき太くんの教材を見させてもらうことによって、算数・数学と国語・作文の勉強の違いと共通点もよくわかりました。このことは、また別の機会に書きたいと思います。
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昨日届いた「言葉の森新聞」に「でき太くんの算数クラブ」に関する記事を見つけて驚きました。子供にも見せましたところ、「どうして言葉の森にでき太先生が…?」と不思議そうにしていました。
現在小5の娘は1年生から言葉の森にお世話になっていますが、もうひとつ「でき太くんの算数クラブ」も同じ期間受講しています。二つの通信教育には、なんとなくですが似たような理念を感じていたものですから、今回の記事を拝見してうれしく思います。
3年生のころは作文を重荷に感じていた時もあったようですが、毎回ほめて下さる先生や、無理せず長い目で見て下さるシステムのおかげで、ほとんどお休みせずに続けてこられています。豊富な読書量や暗唱能力、すぐに手を動かして(最近はキーボードですが)書き始められる表現力などは、この先も大きな財産になってくれると感じています。たとえ中身が大した作品ではなくとも(笑)、続けていくうちにゆっくり成長すると信じてこれからも見守っていきたいと思います。
> おそさ母様
コメントありがとうございます。
そうだったのですか。それは偶然というか何というか、不思議なめぐり合わせでしたね(笑)。
早速、でき太くんの先生にもお知らせしておきます。
でき太くんの教材は、とてもよく考えられているので、言葉の森も教材ももっと使いやすいものに工夫したいと思っています。
小5のお子さんに、これからもがんばってね、とよろしくお伝えください。ヽ(`▽´)/
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私は、自分のブログではあまり長い文章は書かずに、ほとんど四行詩という形式で書いています。なぜかというと、長く書くのが面倒なのと、読む人がいた場合もやはり長い文章を読むのは面倒だと思うからです。
しかし、子供たちの作文の場合、文章の実力という点では、字数の長さと内容のよさとの間には高い相関があります。
受験作文で、短時間に長く書くことを要求されることが多いのは、短い時間で長く書ける子には、上手な子が多いからです。もちろん、上手な子がすべて長く書くわけではありませんが、全体の傾向で言うと長さと上手は関連があります。
短時間で長く書く子が上手だというのは、だれでも漠然と感じていることのようで、小学校低学年の子に一斉に作文を書かせると、字数の競争になることがあります。そして、「○○ちゃんは○枚書いたんだって。すごいね」などということが子供たちの間で話題になります。ところが、字数がとびぬけて長い子の中には、「、」や「。」もなく、ひらがなばかりという子もかなりいます(笑)。
小学生だけでなく、大人になっても、長く書くことがいいことだと思っている人がいます。しかし、文章は、人に読んでもらい理解してもらうことが大事なのであって、時間をかけて長く書くことが大事なのではありません。
では、理解されやすい文章を短く簡潔に書くには、どうしたらいいのでしょうか。
一つは、ぶっつけ本番で考えながら書くのではなく、全体の構成を念頭に入れてから書くということです。長い文章を書く場合は、構成図で考えを整理してから書くということも必要になるでしょう。
もう一つは、やはり大人の文章では、読み手にわかる範囲でできるだけ簡潔に書くことが大事だと常に考えておくことです。
「葉隠」に、「武士は、十言で言うことを一言で済ませるものだ」という内容の言葉があります。短く簡潔に書くというのは、日本文化の美学でもあるのです。
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