9月の清書をもとにした森リン大賞です。
★1位の作文は、冒頭に要約の部分が残っていたので、代表作品にしませんでした。次回は、清書の場合、要約は省略するか自分なりの説明として書いていきましょう。
9月の森リン大賞(小6の部135人中)
立候補の大切さ
ブレイド
僕は、陸上部で、キャプテン決めを長い間やっていた記憶がある。キャプテンになれるのは、六年生だ。一度、五年生のとき、キャプテン体験をしたことがある。六年生は、キャプテンの仕事をしないで、来年六年生になる五年生が、キャプテンがどんなものか、一人一回ずつ体験することができるのが、キャプテン体験である。僕はキャプテン体験をやった後から、ずっと自分はどうするのか、悩み続けていた。キャプテン以外の六年生の仕事は、あと一つある。副キャプテンだ。しかし僕は、それ以外にも仕事はあと一つ残っているとぼくは思う。クラブ全体を盛り上げる仕事である。その中の仕事で、クラブ員の五年生男子は、
「副キャプテンだったらやっていいよ。」
という人がほとんどだった。どうすればキャプテンが決まるのか、それが一番の問題だった。女子はすでに候補は決まっていて、男子からキャプテンの候補者が出たら、その中の誰がキャプテンになるか話し合うことになっていた。しかし、六年生がクラブを卒業する日がせまっていて、その時までに誰かが、立候補しなくてはいけない。僕は休んでいた人に電話をかけたりして、とても忙しかった。しかしそれでも立候補するひとはあらわれなかった。そんなとき、僕の母が、
「コーチや監督は、キャプテンになってくれたらいいなって思っているのはYなんやって。」
といった。これには僕はびっくりした。自分がコーチや監督の理想の人物だったということは、いままで考えたこともなかったからだ。悩みに悩んだが、まだ決心は付かないままだった。そんなとき、コーチが、
「キャプテンって、一人じゃないんやから。みんながおるねんから、キャプテンであっても、困ったことがあったらみんなで助け合うもんやねんで。」
といってくれた。僕はその時に、
「あっ、そうなんや。じゃあやってみようかな。」
といったのである。他にやりたい人の数は、ゼロのままだった。その後すっかり自信がついて、僕は女子とよく話し合ったうえで、キャプテンになったのである。
しかし、日本人がとてもはずかしがりだと思うのは、間違いかもしれない。僕の学校の友達は、まるで、長文にでてきた外国人のように、よく手を挙げる。僕たちにとって、初めての宿泊学習になる、林間学習のときは、班のメンバーの全員が班長になりたがっていた。僕はつられて班長を決めるジャンケンに参加し、勝ってしまった(笑)。そのため班長になるところだったが、僕はやっぱり責任の重さを感じてしまった。しかし、やっぱりやめると友達の前でいうのがはずかしくて、僕は副班長になった。
これが、僕が何かを自分からやろうとしたときの始まりである。僕は、何でも恥ずかしがらずに、やってみる事が大切だと思う。
人間にとって、何かを進んでするということは、その人自身を成長させることだということが分かった。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●役に立たないものの役立ち方 | ふっくー | 85 | 1119 | 54 | 66 | 78 | 87 |
2位 | ●立候補の大切さ | ブレイド | 84 | 1187 | 52 | 59 | 76 | 89 |
3位 | ●カンサイ弁カンセン症 | コレルリ | 81 | 1127 | 48 | 67 | 82 | 90 |
4位 | ●人の長所と短所 | ピロシ | 81 | 1010 | 48 | 64 | 70 | 87 |
5位 | ●名前は面白い | きろや | 80 | 1100 | 48 | 75 | 84 | 86 |
6位 | ●人を表す長所と短所 | けん | 80 | 966 | 41 | 63 | 77 | 89 |
7位 | ●むだなものを楽しむ気持ち | サスケ | 79 | 944 | 51 | 57 | 72 | 80 |
8位 | ●私の長所短所 | クローバー | 79 | 1008 | 42 | 60 | 71 | 90 |
9位 | ●くり返しすることで | なの花ナナちゃん | 78 | 932 | 51 | 58 | 74 | 84 |
10位 | ●世界じゅう、どこに行っても | ひたえ | 78 | 849 | 47 | 61 | 74 | 92 |
9月の森リン大賞(中1の部93人中)
ルール、規則、そしてまたルール
ことのは
私は、ある程度の自己家畜化は必要なことだと思う。
第一の理由は、ルールが無ければ、その組織の秩序がみだれてしまうからである。ルールはその組織の中での「約束事」だ。守らなくてはならない暗黙の了解が、組織の中にはある。私達中学生が通う中学校の規則といえば「校則」だ。この校則は生徒手帳に細かく記され、守るようにという空気を醸し出している。制服を着るというのも、校則によって義務づけられた項目だからである。「学校生活では私服を着ていてよい。」という校則が無い限り、制服は中学校に存在し続けるのだ。他にも校則の項目は様々な所に及ぶ。スカートの丈、靴下の色、髪の色、ブラウスの下に着るTシャツの色、冬着用してもよい衣類など……。私達にとってはわずらわしいばかりだ。例え靴下がピンクだろうがカーディガンを着ようが、スカートが短ろうがいいだろうと思う。それぐらい自由にさせてくれたっていいじゃないかと思う。しかし、私の中学校に通う人達は校則をほとんど守っている。全て決められた通りに行動しているわけではない。現にスカートの丈をひざより上に上げている女子はいる。それでも金髪や赤い髪の人は見受けられない。「頭髪は脱色も、染色もしてはいけない」という校則があるからである。もしもこの校則は無く何もかも自由であったなら、どうなるだろうか。校則に縛られないと生徒は狂喜乱舞するかもしれない。しかしそうなると誰も制服を着用することなく私服を身につけるだろうし、ゲームや菓子類を持ち込み授業が成り立たなくなるというのは目に見えている。その状態に陥ればもう中学校とは呼べない。校則で束縛されるのは嫌だが、ルールがあることで、「中学校」という組織が成立しているといえる。
第二の理由は、規則を守って生活を続ければ、世の中をうまく渡っていけるからである。例えば会社に着いていなければいけない定刻を守らず、毎日のように遅刻している人がいたら、その人に信頼感はわかない。むしろ仕事を与える気にもならないだろう。上司や部下からの信頼を失えば、給料ダウンにもつながりかねない。また定められた規則をいつも破っているような「違反者」も嫌われる。クラスで決められたルールを守らない生徒が、信頼を失っていくのと同様に。このように、社会の中でも、学校でも、集団生活の中ではルールが必要不可欠なのだ。定められた規則を守ることで他人から信用され、社会のシステムの中を生きていくことができるのである。
確かに、あまりにも規則、規則と言って束縛されるとストレスが溜まってしまう。しかし、「人はその制服の通りの人間になる」という名言があるように、人間は社会のルールとマナーを守って生活することで快適に生きていくことができるのだ。私達は知らず知らずの間、無意識のうちにルールによって支配されているとも考えられる。そのルールによる支配を誰も自覚していない。無意識のうちに私達人間がルールを守っていることで、この社会全体もルールによって守られているのである。この仕組みの中では、ルールを忠実に守る人ほどうまく生きていけるといえよう。だから私はある程度の自己家畜化は必要であると思う。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●ルール、規則、そしてまたルール | ことのは | 91 | 1312 | 69 | 81 | 87 | 84 |
2位 | ●脱・縦型社会 | 闇の女帝 | 90 | 1431 | 64 | 88 | 94 | 89 |
3位 | ●社会に欠かせない人 | きぬこ | 87 | 1363 | 59 | 88 | 93 | 89 |
4位 | ●けんかはコミュニケーションのツールだ | きろゆ | 86 | 1598 | 57 | 64 | 80 | 81 |
5位 | ●秩序と無秩序 | 織田信之助 | 86 | 1225 | 64 | 65 | 71 | 87 |
6位 | ●決まりを守ること | さおりん | 84 | 1276 | 57 | 69 | 84 | 83 |
7位 | ●自己家畜化 | ロールケーキ | 84 | 1121 | 67 | 60 | 74 | 80 |
8位 | ●自己家畜化では個性は育たない | きんぐ | 83 | 1009 | 61 | 64 | 75 | 86 |
9位 | ●正確に伝える | リザードン | 83 | 999 | 53 | 76 | 74 | 83 |
10位 | ●人と家畜化 | ピルル | 82 | 1095 | 61 | 60 | 85 | 80 |
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「ピーター流外国語習得術」(岩波ジュニア新書)を読みました。この本には、日本の中学生や高校生が、これから外国語を勉強するにあたっての意義や勉強の方法がわかりやすく書かれています。その意味で、中高生にはおすすめの本です。
ちなみに、著者のピーター・フランクルさんは、「1953年ハンガリー生まれ。1971年国際数学オリンピックで金メダル。1988年から日本在住。国際数学オリンピック日本チームのコーチ。数学者。大道芸が得意。日本語を含め11ヶ国語を習得している。」という人です。
詳しい内容は、本書を読んでいたことにして、考えさせられる内容がいくつかあったので紹介させていただきます。
ピーターさんは、日本人の使う日本語について、人によって大きな差があると述べています。同じ日本人の中でも、豊富な語彙を持って話す人もいれば、いつも、「あれ」「これ」「それ」「だって」という言葉で話している人もいるということです。
11ヶ国語を学んだピーターさんは、日本語の特徴として語彙が豊富だということを述べています。細かいニュアンスや差異を表す言葉があるという点で、日本語は世界一難しい言語だとも言えるようです。
しかし、現在では、テレビでの対話の影響からか、反応のよい条件反射的な言葉をすぐに返すことが求められる風潮があります。また、メールの普及も、スピードのある返信という傾向を後押ししています。内容よりも、反応の速さを優先する社会になっているようです。
同じことは、読書にも言えます。子供たちに人気のある本の中にも、限られた語彙と会話だけで話を展開させているものがかなりあります。中身はテンポがよくて面白いのですが、事実の経過だけが面白おかしく書かれているような本です。
子供たちの本選びは、内容が面白いかどうかということ以上に、使われている語彙の豊かさをもっとを評価する必要があります。もし、森リンの点数で評価するとすれば、語彙の豊かな日本語を使った小説は上位になるはずです。いつか、代表的な本について統計をとってみたいと思います。
さて、現在、世界の言語の人口は、中国語約10億、英語約6億で、そのあとヒンディー語、スペイン語、ロシア語、アラビア語、ベンガル語、ポルトガル語、マレー語、フランス語と続いて、日本語は1億2千万の人が使っています。
日本語のブログやツイッターの情報発信数は、世界の言語の比率から比べるとかなり高くなっていますが、そこには、日本が先進国でインターネットが広く普及しているという事情もあります。
文化は、その国の言語と不可分のものです。日本の文化を守り発展させていくということは、いまの日本語の豊かさを生かして、日本語を世界の人が使える言語になるように発展させていくことだと思いました。
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日本語のすばらしさの一旦です。
小説も、
「小説なんか役に立たない」
と言われますけど、
実はそこが語彙を増やす入り口でもあるんですよね。
本当に頭がよくなりたいのであれば、効率ばかり求めてはいけません。
小説は、語彙と感動する心を育てていると思います。どきどきとか、わくわくとかいう感じです。
説明文も、小説文も、どちらも大事なのでしょうね。
日本語の「豊富」な語彙は、言い換えると「多くて手間」とも言えます。
私は日本の発展には、日本語の整備がもっとも重要であると考えています。
漢字や語彙の氾濫とも言える日本語の状況は、整備する必要がありますね。
ちしきさん、ありがとうございます。
日本語の整備というのは、当用漢字が制定された背景と共通する面があると思います。(今の常用漢字ですが)
一時はそれで知識がもっと普及しやすくなると思われたのですが、実際には、学力の低下が起こったようです。
だから、これからは、日本語の教育と、日本語の活用が大事になるのではないかと思います。
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未来を切り開く新しい産業は、修行(自己の向上)と起業です。
その修行と起業の社会に最も近い位置にいるのが日本です。
そして、生活の中で自己の向上を目指す人が多くなるほど、その社会における起業のチャンスが増えていきます。また、起業して自分らしく働く人が増えるほど、生活の目標が自己の向上になっていきます。
このように考えると、今の子供たちの目指す勉強の道筋がわかってきます。
第一は、あらゆる教科を幅広く学ぶことです。文系だから理数はやらないとか、理系だから文学はやらないなどというのは、工業時代の歯車の一部として働く人間になるための発想です。自ら起業する人は、幅広い教養を身につけておく必要があります。
第二は、自分の好きなことは何かということをいつも意識して探していくことです。
第三は、常に独立の志を持ち続けることです。それは今の会社を辞めるという選択肢だけではなく、会社に勤めながら空いた時間を自分らしい仕事を持つことにあてるということも含みます。
フリーエージェントになるための社会的条件は整っています。
情報時代には、新しい仕事を始めるのに巨額な資金や設備は必要ありません。
昔は仕事を始めるためにオフィスや事務員が必要でしたが、今は自宅のパソコン1台で間に合います。情報化によってそれだけ管理が楽になったのです。
また、宣伝や販売についても、昔は多額の宣伝費やよい立地条件が起業の条件のひとつでしたが、
今はインターネットが1本つながっていれば、大企業と比べて遜色(そんしょく)のない宣伝や販売ができます。
昔は、会社に就職するまでが人生の勝負どころで、いったん大きい会社に入れば、あとは与えられた役割を果たすだけで次第に給料は上がり、役職も付き、そこに一生勤めることができ、退職後の年金も保証されるという社会でした。
そして、社会全体が発展し企業も発展していたので、そういう組織的人間として勤めることが自分自身のチャレンジにもなり、自己の向上にもなっていました。また、企業も社員を教育し成長させることに力を配ってきました。
しかし、今の企業はそうではなくなりつつあります。経済発展のなだらかになった社会では、ルーティンワークをいかに効率よくこなすかに仕事の重点が移っていきます。
それを企業の側から見れば、成長の止まった分野で利益を確保するために、いかにコストを削減するかということに目が向いていくということです。つまり、これからの組織的人間は終身雇用どころか、常にリストラの圧力にさらされながら生きていかなければなりません。
しかし、それは決して悲観的なことではありません。
現代は、工業製品の大量消費の社会が終わり、これまで社会の発展を担ってきた工業時代の企業が、情報産業も含めて、次々と電気・ガス・水道事業のように公共のインフラになっていく時代です。
その結果、余剰になった人的資源は、今後は物作りではなく、人作りに向かうのです。その人作りが、新たな人作りという需要を生み出し、そのようにして、物ではなく人によって支えられる文化が花開く時代が来ます。
言わば、
今は、地球人全員が芸術家になるような時代の前夜にいるのです。まだこの前夜は長く続くかもしれませんが、そのあと新しい夜明けが来ることに多くの人が気づき始めています。
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日本の未来について、とかく否定的な評論の多い中、森川林先生の前向きなメッセージを読んで、うれしくなり、やる気が出てきました。
> がんばろうさん
ありがとうございます。
個人でも社会でも、よい面を伸ばすのが大切だと思います。
日本のよい面を伸ばしていけば、今あるように見える悪い面はすぐに消えていきます。
その点で、日本は、思い出せるよい面がたくさんあるのが強みです。まだ、思い出していないだけ(笑)。
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フリーエージェントとして生きる自営業者が、同じ分野で企業人として生きる他の8割から9割の就業者と共存し、しかも企業に勤める人よりも平均して高い収入を保っているというのが今のアメリカ社会のひとつの断面です。
なお、「フリーエージェント社会の到来」(ダニエル・ピンク)によると、建設業なども含むすべての自営業者で見た場合、全米で3300万人約4人に1人がフリーエージェントとして働いているそうです。
今はまだ社会全体が大量消費社会の名残を残しているので、高収入の自営業は法律、税務、会計、医療など一部の専門分野に限られています。
しかし、人々の志向が豊かな消費生活から、豊かな自己向上へと向かうにつれて、自己の向上に伴うさまざまな商品やサービスを提供する専門分野が今後要求されるようになります。
このフリーエージェント社会の萌芽は、日本の江戸時代の多様な文化の中に見ることができます。
江戸時代には、花の好きな人は、いろいろな掛け合わせのアサガオやツツジを育て、その専門的な知識や技術をひとつの職業として成立させていました。
鳥の好きな人は、さまざまな声で鳴くウズラを育て、その育て方の知識や技能をやはりひとつの職業として成立させました。
そのほかに、ヒバリをかごの中で一定の高さを保ったまま飛ばせさえずらせる知識や技術、サルを訓練して猿回しをさせる知識や技術、ウソという鳥におみくじを持ってこさせ開かせるような知識や技術、特殊な色合いを持つ布を織る技術、落語など話の内容と話し方で人を楽しませる技術、歌舞伎、短歌、俳句、小説などの技術、また、剣術をはじめとするさまざまな武術の技能などと、各人の好みと適性に合った専門的な知識や技術が多様に花開いたのが江戸時代だったのです。
ちょうど今のカルチャーセンターのようなものが社会全体に広がり、しかもそれぞれの頂点には人並みはずれて優れた専門的知識や技術を持つ人々がいるという、文字どおり文化の花開く社会が生まれていたのです。
しかし、江戸時代は、大量の武士階級という非生産的な人口を抱えていたためと、社会の安定を維持するために経済の発展に歯止めをかけていたという事情から、それらの文化が十分に広がったとは言えませんでした。
ところが、それが今日の日本でこれから花開く情勢ができてきたのです。
未来の社会を先導するのは、軍事、金融、ITなどの産業を中核としたアメリカではありません。
また、古い工業時代を今から再開しようとする中国、ブラジル、インドでもありません。
成熟した工業時代の終焉のあと、創造的な文化を大衆的に作り出すことのできる日本なのです。
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堅い話が続きますが、もうしばらくおつきあいください。(6)まで続く予定です。(^^ゞ 全部読む時間がない方は、
太字の箇所だけお読みください 。
子供たちの勉強を考える場合、数年先の受験を考えるとともに、数十年先の日本の未来も考えておく必要があります。 そして、日本の未来とは、実は世界の未来の最先端なのです。
アメリカの新しい産業と思われていた金融工学はバクチ化しました。また、金融工学産業は、もともと何の創造もないゼロサムの産業でした。
IT産業はこれからも発展しますが、これはITという新しい産業分野における古い工業社会の再生でしかありません。
かつての自動車産業で寡占化が進んだように、IT産業も寡占化が進む進み、しかもデジタル的産業であるためにその速度は極めて速いものになっています。
マイクロソフトやグーグルのように、もとは小さな企業が一挙に巨大な企業に成長し、そのサービスが行き渡るとその社会的役割を終えるようになります。
IT産業は、今はまだ創造的な面がありますが、やがて道路や電気・水道・ガスなどの社会的に重要ではあるが目立たないインフラになっていきます。
例えば、今の日本で、「どんな山奥の村にも電気を送る」ということに情熱を傾ける人がもういないように、IT産業を世界的に支えてきた夢と情熱はもはや半ば終わりつつあります。
このように、
大企業の時代が終わり、金融工学産業とIT産業の時代が終わりつつあるアメリカで、今静かに広がろうとしているのがフリーエージェントの社会です。
企業に勤め、朝から晩まで忠誠を尽くし、その代償として年功序列と生涯雇用を保証されるというかつての古きよき時代は終わりつつあります。それは、そういう組織的人間を必要とした大企業の時代が終わりつつあるからです。
大企業の時代が終わりつつあるのは、そのような大企業を必要とした大量の工業製品を需要する物の経済拡大の社会が終わりつつあるからです。
確かに、まだ中国、ブラジル、インドなど巨大な人口を抱えた国々がその工業社会に入りつつあるので、一見、経済発展の中心がそれらの国々に移行しているように見えます。しかし、それは動いているマネーが巨大になっているだけであり、そこに新しい未来の指針はありません。
アメリカのフリーエージェント化を推進している力は、自分らしく働きたいという欲望です。これが、これまでの豊かな消費を楽しみたいという欲望を経済の動因とする社会と質的に違うところです。
何のために働くのかという動機が、給料をもらって豊かな消費生活をするためではなく、働くことを通して自己実現したいということに変わっているのです。
今のように就職難とリストラの広がる社会では、働くことによる自己実現は夢想のように見えますが、社会の本当の底流はその方向で動いています。
アメリカのフリーエージェントを構成する自営業者の割合は、全就業者の1割に満たない数ですが、しかし既に社会を支える重要な地歩を占めています。
(フリーエージェントの割合は、「U.S. Economic Account」の「
Table 6.7D. Self-Employed Persons by Industry」によるものです。しかし、「フリーエージェント社会の到来」を著したダニエル・ピンクによると、アメリカにおけるフリーエージェントは、全就業者の4分の1で約3300万人と言われています。これはフリーエージェントの定義の仕方の違いによるものと思われます。2010/10/27追加)
ひと昔前であれば、自営業は大きい企業になる前の過渡期の形態とみなされていました。もちろん今でも自営業者の中には、いずれ規模を大きくしてゆくゆくは上場できるようにしたいと考えている人もいるでしょう。
しかし、アメリカにおけるフリーエージェントの割合がほぼ一定になっていることを見ると、自営業はそれ以上の成長に向かうより大きな企業への過渡期の姿ではなく、自営業であることをその企業の目的の重要な属性として持つものであることを示しています。
その目的とは、豊かな消費生活を送ることではなく、自分らしく働くことです。
アメリカの自営業の中で最も安定しているのが三つの分野です。
第一は、専門的知識や技術を伴う企業サービスの分野で、この自営業者の人数は約200万人、この分野の全就業者の約20%を占めています。
第二は、教育、健康などの社会的アシストの分野で、同じく約100万人、10%を占めています。
第三は、その他で、同じく100万人、10%です。
わかりやすく
具体的に言えば、個人でも始められるような、会計コンサルタント、法律コンサルタント、医者、個人の家庭教師、健康ヒーリング業などが、アメリカのフリーエージェントの中心になっています。
フリーエージェントとして分類されるものには、このほか、農業、建築業、タレント、芸術家、著述業、外食産業、コンビニ経営などもありますが、今の不況下でも減少せず、企業に勤めるよりも高収入を維持しているのは、前述の三つの分野です。
ここまで読んで、多くの人は、そういう仕事につけたらいいなあと思ったと思います(笑)。もし確実にそうなれる展望があるなら、そのために、貯金を全部はたいても、借金をしてでも取り組みたいと思った人が多いと思います。
そうです。
フリーエージェントとして働きたいという欲望が、豊かな社会のあとに来る、これからの社会の大きな需要になってくるのです。
フリーエージェントになるために専門的な知識や技能を身につけたいという「修行」と「起業」が先進国の新しい内需となり、その内需に応える産業が次々と玉突き現象的に誕生してくるというのが、先進国における経済発展の未来図です。(つづく)
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フリーエージェントの割合が全就業者の1割だという点について、次の説明を追加しました。
====
(フリーエージェントの割合は、「U.S. Economic Account」の「
http://tinyurl.com/24yz8co" target="_blank">Table 6.7D. Self-Employed Persons by Industry」によるものです。しかし、「フリーエージェント社会の到来」を著したダニエル・ピンクによると、アメリカにおけるフリーエージェントは、全就業者の4分の1で約3300万人と言われています。これはフリーエージェントの定義の仕方の違いによるものと思われます。2010/10/27追加)
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日本の社会がこれから創造する内需の中身のひとつは修行(自己の向上)でした。もうひとつは、起業です。
アメリカは今では自由なベンチャービジネスの社会だと思われていますが、1980年に入るまでは、律儀なオーガニゼーション・マン(組織的人間)の時代でした。
会社は従業員の雇用を保証し、従業員は会社に忠誠を誓い、毎日定時に出社し、退屈な仕事をきちんとこなし、同じ会社に何十年も勤めることによって、次第に安定した豊かな生活を送れるようになる、という価値観の時代でした。
日本はアメリカよりも10年遅れていると言われますが、2000年代、小泉政権時代の自由競争主義の導入前は、やはりオーガニゼーション・マンの時代でした。
アメリカは、企業がそれまでの温情主義を捨てて、従業員のレイオフに踏み出した1980年代は、IT産業が花開いた時期であり、その後に続く金融工学革命の幕開けの時期でもありました。そのため、アメリカは大企業中心の社会からベンチャービジネスの可能性のある社会に進化しました。
一方、日本は自由競争社会の道を開いたものの、新しい産業という受け皿がなかったために自由競争は、大多数の日本人にとって雇用の不安定化と生活の破壊を生み出しました。日本は、アメリカのようなITや金融という新しい産業がない中で自由競争に踏み出したため、その自由化は少数の富裕者と多数の貧困層のますます広がる格差を生み出すことになったのです。
しかし、大企業中心の組織的人間の時代はもう戻ってきません。それは経済の性質が変わってしまったためです。
つまり、先進国では大量の工業製品を需要する、豊かさを目指す社会が終わりを告げたために、その需要に対応していた大企業中心の組織的な大量生産の時代が終わったということです。
現在、そういう豊かさを目指しているのは、中国、ブラジル、インドなどの成長途上国で、これらの途上国の人口が著しく多いために、経済の覇権が移りつつあるかのような印象を受けますがそれは錯覚です。
これらの国では経済の拡大が進んでいるので、動いているマネーば巨額ですが、それはアメリカや日本で既に終わった過去の祭りがただ規模の大きくなった人口で繰り返されているだけです。そこには、新しい時代の指針となるような創造性はありません。
これを象徴する一つが万博です。1970年の大阪万博の入場者は6400万人でした。2010年の上海万博の入場者は、7千万人から8千万人になると言われています。しかし、これは量で比較する性質のものではありません。万博の社会に対する影響力の質が既に違ってきているのです。
一方で古い形の経済発展を始めようとする巨大な新興途上国、他方で古い経済発展が終わったものの新しい産業が見出せない老いた先進国、という二つの世界が併存しているのが現代の構図です。
しかし、老いた先進国にも新しい産業の芽は育ちつつあります。それがフリーエージェントの社会です。(つづく)
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小学校低学年の子供のお母さんで、勉強の重点というものを勘違いしている人がかなりいます。
その原因の一つは、学校です。
まず学校で、訳のわからない宿題を出すところがかなりあります。例えば、小学校2年生までの子に、本を読んでの感想を書かせる宿題を出すなどという勉強です。
子供をよく見ていれば、その勉強が苦痛かどうかはすぐわかります。子供が苦しんでやっている勉強なら、それは無理があるということです。そういう勉強は、やらないのがいちばんです。
小学校2年生の感想文は、みんな親が手を加えています。そういう宿題は、最初から子供にやらせずに親が書いてあげればいいのです。子供の実情を知らない学校の先生に合わせる必要はありません。
感想文を書かせる時間があったら、その時間を楽しい読書や親子の対話の時間にあてた方がずっといいのです。形に残るものだけが勉強ではありません。
もうひとつの原因は、親の多くが、低学年の勉強があとあとまで影響すると思っていることです。
小学校3、4年生までは、親がついて勉強させれば必ず成績は上がります。しかし、その成績にはあまり意味がありません。小学校中学年までは、そんなに熱心に成績を上げても仕方ないのです。それよりも、読書や対話で考える力をつけていくことです。
学校の勉強も、小学校5年生ごろからは考える勉強が中心になります。本当に実力の差が出てくるのは、このころからです。考える勉強が中心になると、それまで勉強で成績を上げてきた子供よりも、読書や対話で考える力をつけてきた子の方が成績が上がってきます。
頭をよくしておけば、英語なども中学生に入ってから十分間に合います。同様に、数学についても小学生のころまでは普通でも、中学生になってからがんばればすぐに成績は上がります。大事なことは、成績をよくしておくことではなく、頭をよくしておくことです。
低学年から勉強をさせすぎるいちばんの問題は、子供に勉強だらだらやる習慣をつけさせてしまうことです。
小さいころから成績をよくして自信をつけさせておいたほうがいいと考えるのは、親に自信がないからです。つまり、親が自分で勉強して力をつけた経験がないから、早めに自信をつけさせたいと考えるのです。
今は、ひとりっ子の家庭が多いので、親はどうしても自分の子供と学校の成績しか見られません。しかし、本当の実力はその成績の中にあるのではなく、子供の考える力の中にあります。
考える力が、最もはっきり出てくるのは作文です。作文がうまいかどうかということではなく、楽しんで書ける子であれば、教科の今の成績がどうであれ、心配はいりません。
しかし、作文の課題によって、「難しい」とか、「わからない」とか、「やりたくない」とか、「長く書けない」などと言う子は、今の学校の成績がどうであれやはり実力不足です。
しかし、心配はいりません。そういう実力不足の子が大多数だからです。
そういう子供たちが、毎日の暗唱や問題集読書などで少しずつ長く自分らしい文章を書けるようになってきます。これが作文の勉強です。
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未来の学校の夢を今見ました。夢の中で、自分が中学生だったころに戻っていました。しかし、世の中だけは未来の社会になっていたようです。
なつかしい友達のK君がいました。K君に、「なんだか過去から来てしまったみたい」と話すと、K君は、なぜかすぐに納得してくれました。
学校の授業は、早めに終わりました。午後2時か3時ごろです。みんな、思い思いに家に帰ろうとしています。
「あれ、部活なんかないの」
と聞くと、K君は、
「もちろん、そんなのはないよ」
と言いました。
「学校の先生だって早く帰りたいし、スポーツをすることを強制されたり、試合やコンクールに向けて競争をさせられたりするのは嫌だから、部活は趣味のものを除いてほとんどなくなったんだ」
「ふーん」
では、塾や習い事やスポーツクラブなどが早めに始まるのかと聞くと、そういうものもほとんどないそうです。
昔の子供たちの生活は、学校の部活、塾の勉強、スポーツクラブの練習、家庭のゲームなどが中心でしたが、今の子供たちの活動は、近所の子供どうしの遊びや勉強や読書や仕事などが中心になっているということです。
不思議に思いながら、K君についていくと、一軒の家に入っていきました。そこは、一種の寺子屋のようになっています。
近所のいろいろな年齢の子が、思い思いに集まっています。小さい子は、おにごっこなどをしています。中に、そういう小さい子供たちのリーダーになっているような少し大きい子が入っています。
もちろん、遊びは自由に参加できるようで、数人の子が集まって、庭に放し飼いになっているヤギやウサギにえさをやっている光景も見えます。何をするのも自由なようです。
部屋の中に入ると、数人で集まって勉強しているグループがありました。教える先生などは、特にいないようです。
勉強していてわからないところがあると、一緒のテーブルにいる友達に聞いたり、よそのテーブルで勉強している高学年の子に聞いたりします。
ネットは自由に使えるらしく、中には息抜きのゲームをしている子もいますが、たいていの子は友達どうしで遊ぶ方が楽しいようです。
大人も、いるにはいます。しかし、子供たちに何かを指示することは、ほとんどないようです。この寺子屋の主人らしい人は、のんびり本を読んだり、小さい子と遊んだりしています。
寺子屋は、いろいろな年齢の子供たちで運営されているので、大人は特に普段は何もしなくていいのです。
高校生のグループになると、自分たちで計画して世の中の仕事体験に行くようです。いろいろな仕事を経験するなかで、自分が何に向いているかだんだんわかってくるので、それを大学進学の参考にするようです。だから、寺子屋の中には高校生はあまりいません。
大学生も、ほとんどいません。専門の学問は特定の大学でやるので、その大学のある都会に出て行くのです。
しかし、時には寺子屋に遊びに来る大学生もいます。みんな近所で昔からの幼なじみらしく、ニックネームで親しげに呼び合っています。
こういう寺子屋は、ほかにも近所にいくつかあるようですが、どの寺子屋に行くかは子供たちの自由で、中には時々行く場所を変える子もいます。しかし大部分は、自分にとって最も居心地のいいところにずっといるようです。
夕方になると、みんな思い思いに家に帰り出しました。兄弟の少ない子は、よその家に泊まり合いをすることも多いようです。(つづく)
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