僕は、その日、K君の家に泊まることになりました。
家に帰る途中の道を歩いていると、街路樹に何か実がなっているようです。
K君はジャンプしてその実を取ると、一つ僕にくれました。
街路樹には、どこも実のなる木が植えられていて、誰でも自由に取って食べていいようです。僕はもらったカキの実にガブリとかぶりつきました。
「おなかが空いているときに便利だね」
と、僕が言うと、K君は、
「もう一本隣の道には、ナシがなっているんだ。だから、日によって通る道を変えるんだ」
と言いました。僕は、今度はナシの道を通ろうと思いました。
K君の家に行く途中に、大きな公園があります。その公園を横切ろうとすると、1匹のヤギがついてきました。
「えー! こんなのいるの」
「うん、いろいろな動物が放し飼いになっているんだ」
見ると、公園にはニワトリやアヒルやウサギもいます。
K君は突然近くの草むらに入ると、しばらくして両手に卵を持ってきました。
「この草むらには、よくウズラやニワトリが卵を産むんだよ」
「そんなの、取っていいの」
「まあね」
K君はにっこり笑いました。この卵は、夕飯のおかずになるようです。
公園には、シートを広げて食事をしている家族もいました。
「何だかお花見みたいだね」
と、僕は言いました。
どこの家でも、ときどきそういう外食をすることがあるようです。未来の世界では、外食というのは、ファミリーレストランに行くことではなく、戸外で食べることになっているようでした。
そうこうしているうちに、家に着きました。
ドアの前で、「ただいま」と言いましたが、返事がありません。まだほかの家族は帰っていないようです。
K君は、ドアの横にある大きな木を指さしました。
「この木の枝をつたって窓から入ることもできるけど、今はあまりやらないんだ」
確かに、大きな枝が二階の窓まで延びています。僕は、ちょっとやってみたい気がしました。
K君は、すっとドアを開けると、「さあ、入れよ」と言いました。
「あれ、ドアは開いていたの」
「うん、カギはないんだ」
未来の家は、どこもカギをかける習慣がないようです。
「泥棒なんていないの」
と聞くと、K君は少し考えてから言いました。
「うーん。でも、自分だって人のうちに入って泥棒したいと思わないでしょう」
「確かにそうだけど、お金に困っている人がいたら、泥棒もするんじゃないかなあ」
「それは、困っている人がいるからだよ。困っていたら、そう言えばみんなが助けてくれるから、泥棒するほど困る人はいないんだ」
僕は、なるほどと納得しました。(つづく)
では、なぜ暗唱をすると頭が良くなるのでしょうか。それは、頭脳が扱う短期記憶の入れ物が大きくなるからだと思います。
人間が普通に一度聞いただけで記憶できる分量は、7つまでと言われています。それが短期記憶の容量です。このため、文章で言うと、7文節ぐらいまでなら一度で覚えられますが、それ以上になると一度では覚えられません。新しい文節の単位が一つ入るごとに、古い文節の単位が一つ出ていくからです。
しかし、暗唱の場合はそうではありません。一つの文節ではなく、いくつかの文節が集まった一つの文自体が記憶の単位になっています。これは、百人一首の短歌を覚えている場合を考えてみるとよくわかります。「ひさかたの」という最初の言葉を聞いた時点で、すぐに全部の「ひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ」までが思い出されます。この場合は35文字が一つのまとまった単位になっているということです。
文章を理解するということは、ちょうどバケツリレーで、ひとつひとつのバケツに理解できる最小単位の文節が入っていて、それを次々と運んでいくような作業です。理解する単位が大きくなると、バケツリレーという作業自体は変わりませんが、ひとつのバケツのサイズが何倍にも大きくなるのです。
このため、暗唱をして短期記憶のバケツを大きくしておくと、発想力も理解力も増すのだと思います。
これは、ちょうど速読の仕組みと似ています。初めて文字が読めるようになった子供は、最初は1文字ずつ文字を読んでいきます。声に出しながら1文字ずつ読んでいき、その自分の声のつながり具合から何を書いてあったのか理解します。
読むのが速くなると、声に出す必要はなくなり、文字のつながりをひとまとまりに理解しながら読み進めていきます。
速読の場合は、この理解するひとまとまりが、5文字、10文字と増えていきます。フォトリーディングなど、更に速い読み方では、ひとまとまりの単位がもっと大きくなります。
速読の場合は、読む単位を広げることですが、暗唱の場合は、理解する単位を広げる練習をしていることになるのだと思います。