第二の自習は、読書です。
読書は毎日を読むのがコツです。毎日読むことによって読書の習慣がつきます。
逆に、何日か読まない日が続くと、読まない習慣ができてしまいます。中学生ぐらいになると、本を読む子と読まない子がだんだん分かれてくるのはこのためです。
言葉の森では、以前、読書は毎日50ページ以上(又は小学生の学年の10倍ページ以上)としていました。しかし、そのページだとなかなか読めない子もいたので、ハードルを低くするために、現在は毎日10ページ以上は必ず読むこととしています。
勉強は、時間よりも分量を目標にしたほうが、子供は集中して取り組みます。1時間勉強するという目標にすると、1時間だらだらやるような勉強の仕方になりがちです。しかし、何ページ分勉強するということを目標にすると、早くその目標まで仕上げようと集中して取り組むようになります。
ところが、その目標のページ数が終わったときに、時間がかなり早く済んだとしても、決して追加の勉強はさせずに、最初に決めた目標までの分量で終わりにすることが大事です。
子供が小さくて親のいうことをよく聞くころには、親はつい、目標のページ数が早く終わったときに、「そんなに早く終わるんだったら、これも」と、追加の勉強をさせてしまうことがあります。そういうことが一度でもあると、子供は次からは、集中してやるよりも、時間をだらだらと過ごしてやることを覚えるようになってしまいます。
さて、読む本の基準は、本人の好きな本であれば何でもよいとします。大事なのは、毎日読むことで、毎日好きな本を読んでいるうちに、だんだんと本の選び方がわかってきます。
ただし、絵のスペースの方が字のスペースよりも大きい本は、読むのはもちろんかまいませんが、読書とは呼ばないと決めておきます。例えば、漫画、学習漫画、絵本、図鑑、雑誌などです。なぜかというと、そういう本ばかり読む子は、文章を読むのではなく絵を眺めているだけということも多いからです。
読書とは、文章を通して物事を理解することですから、絵を通して理解するのは、もともとの意味の読書とは考えないということです。
親が、子供にもう少し難しい本を読んでほしいと思うときは、お母さんやお父さんがそういう本を読み聞かせで読んであげるようにします。
読み聞かせも、読書と同じ効果があります。それは、読み聞かせは、文章を通して物事を理解することだからです。子供が自分で読む場合は目から読む文章を通して、読み聞かせの場合は耳から聞く文章を通して理解するということです。
読み聞かせで読んでいると、その本が終わるころに、子供が興味を持って自分で続きを読むということがよくあります。そのためには、読み聞かせの雰囲気をできるだけ楽しいものにすることが大事です。
子供に読書をさせるために、読書の記録をつけたり冊数のグラフをつけたりする方法があります。しかし、そういう方法を使うと、かえってその記録やグラフ自体が目的のようになってしまうことがあります。読書の方法というものは、本の好きな子にとってはわずらわしいものなので、最初のきっかけ作りぐらいにとどめておく方がいいと思います。
先生や親がときどき、子供たちに、「何の本を読んでいる?」「どこまで読んだ?」ということを聞くだけでも、読書をする意欲につながります。
本を読むときに、読み終えたところまで付箋を貼っておくというのはいい方法です。付箋を貼っておくと、外から見てもどこまで読んだのかがわかります。
付箋を貼ることによって、数冊の本を並行して読んでいくことができるようになります。
大人でも子供でも、何かの本を1冊を読んでいる途中で、ほかの本を読んではいけないというような思い込みをしている人がいます。しかし、読書は、何冊もの本を並行して読んでいく方が、ページ数がはかどることが多いのです。
どんなに面白い本でも、同じ本をずっと読んでいると飽きてきます。飽きてきたと思ったら、そこに付箋を貼っていったん終わりにして、別の本を読みます。そのように、次から次へと読んでいくと、1冊の本をずっと続けて読むよりも全体のページ数が増えます。
言葉の森では、今後の読書の自習として、担当の先生が毎週、今読んでいる本の書名とページ数を聞くというような形を取りたいと思っています。
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これからの教育に求められる方向は四つあると思います。
第一は、受験と競争に勝つことを中心とした教育ではなく、本当の実力をつけるための教育を目指すということです。
第二は、外部に委託する他人任せの教育ではなく、家庭や地域を中心とした自分で学ぶ教育を目指すということです。
第三は、成績や得点だけを考えた没価値の教育ではなく、日本の社会に生きるための価値観を持った文化の教育を目指すということです。
第四は、現代の社会に適応するためのエスカレーターに乗る教育ではなく、自主独立の人間として生きる教育を目指すということです。
その中で、最も重要なものが実力をつけるための教育です。
受験という競争に勝つための教育ではなく、生きる実力をつけるための教育を行うには、それに合わせた毎日の自習が必要です。
言葉の森で行っている自習は、現在やや複雑になっているので、今後学年別に自習の内容を整理して、もっとわかりやすく取り組みやすいものにしていきたいと思っています。
現在自習として取り組もうと思っているものは四つあります。
第一は、課題の長文の音読です。これには、読解マラソン集の音読も含みます。
第二は、毎日の10ページ以上の読書です。
第三は、毎日10分程度の暗唱練習です。
第四は、問題集読書をもとにした。四行詩の作成です。
まず、長文音読についてです。
音読は、同じ文章を繰り返し読むというところに意義がありますが、同じ文章を繰り返し読むことを家庭で徹底させるのは、実は難しい面があります。
そこで、音読のできる家庭はそのまま音読を続けていけばいいのですが、毎日の音読を徹底できない場合は、ウェブで同じ文章を繰り返し聴くという仕組みをゲーム的に作っていきたいと思っています。
現在、速聴のページがありますが、これを速聴だけではなく普通のスピードの朗読としても聴けるようににして、その朗読を毎日子供が聴きます。
朗読を聴いている途中で、何かのメロディーが流れるようにするので、その朗読が終わったあとに、そのメロディーが何のメロディだったかを選択してボタンを押すという仕組みです。
このようにすれば、保護者が一緒について音読をチェックするようなことは必要なく、子供が自分で文章を毎日読んでいくことができます。
また、毎日ができない場合でも、1週間のスケジュールを決めておけば、時間のあるときにこの自習をまとめてやっていくこともできます。(つづく)
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夕方の家族のお喋りは、大いに盛り上がります。お父さんは、いま取り組んでいる仕事の話をいろいろしてくれます。お母さんも、よく勉強していて、お父さんの専門分野についていろいろな質問をします。
お母さんも、自分の趣味の仕事を持っているので、その話をすると、今度はお父さんがいろいろな質問をします。もちろん、ここにK君も加わります。夕方のお喋りは、にぎやかな討論会のようでした。
僕は、こんなに面白い話を毎日していれば、テレビやゲームなんていらないなと思いました。
夕飯の食卓は、野菜が盛りだくさんです。ほとんどは、自宅で育てているもののようです。
庭がなくてもベランダや窓ガラスで栽培できる野菜が増えているので、どこの家庭でも、野菜は自宅で作っているようです。
肉類はあまり食べないらしいので、僕が、
「どうして」
と聞くと、
「食べられる動物の身になったら、かわいそうだからだよ」
と、K君は笑いました。未来の社会の人は、他人ばかりにではなく、動物に対しても共感する気持ちを持っているようです。
ちょうど社会全体が、他の人も他の動物も含めて、一つの家族のように相手のことを考えているから、わざわざルールを作ったり取り締まる人を作ったりする必要がないのだと思いました。
僕は、日本の歴史を学んだとき、徳川綱吉が出した「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」を悪法のように教わっていましたが、未来の日本の学校では、綱吉の精神は逆に評価されているということでした。
食事を始めると、窓からリスや小鳥が入ってきました。これらの小動物の中には、ベランダの巣箱で暮らしているものもいるようです。
人間の間にまじって、リスや小鳥がテーブルの上には上がらずにちゃんと横で待っています。
ペットとして飼われているわけではないので、つかまえたり手でさわったりすることはできませんが、手の届くぐらいの近さでみんなにぎやかにえさを食べていました。
近所の家の中には、トンビやフクロウと一緒に住んでいる家もあるようです。
寝る時間になっったので、ベッドに行こうとすると犬がついてきました。ゴンタという名前で、3歳のゴールデンレトリバーです。
K君は、いつも犬と一緒に寝ているようです。
「今日は、君がゴンタと一緒に寝たらいいよ」
と、K君が言いました。面白そうなので、僕は、
「うん、ゴンタおいで」
と言いました。
今日一日いろいろ新しい経験でくたびれたので、僕は、ベッドに入るとすぐに寝てしまったようです。
朝、スースーという音で目が覚めると、僕の目の前に、寝ているゴンタの顔がありました。僕は、ちょっとふざけて犬の真似をして、ゴンタの鼻をペロリとなめました。ゴンタは、ぱちりと目をさましました。(おわり)
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完結ですか~。
終わってしまって、ちょっと寂しいです。
とても好きでした。
ポプラ社あたりから出版してほしいです(笑)。
エズミカレンさん、ありがとうございます。
ふと思いつきで書いているうちに、長くなってしまいました。
でも、なんだか将来ありそうな話でしょう(笑)。
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未来の社会では、子供が学校で勉強するのと同じように、大人もみんな熱心に勉強や習い事をしています。会社が終わると、ほぼ毎日必ず何かの習い事をしてから家に帰ってきます。
未来の社会では、人間が学校を卒業して就職するようになると、すぐにそのような習い事をいくつも始め、そこからだんだん自分の好きな習い事に絞っていき、これと決めたものはそれから10年も20年も続けます。
すると、40歳ぐらいになると、自分がその習い事を教える仕事もできるようになってきます。そこで、みんなそれぞれに工夫して、自分がこれまで身につけたものを組み合わせて教えるので、そこで、新しい習い事の創始者になる人も多いようです。
そうして、勤めていた会社を定年でやめるころになると、もう自分ですっかり新しい仕事を教える準備ができているそうです。
K君のお父さんは、そう教えてくれました。
僕は、昔、中学の社会科の授業で、「日本の経済発展にはこれから内需が必要だ」ということを習いましたが、日本人どうしがお互いに習い事を教えるというのが、未来の新しい内需になっているようでした。
しかも、こういう習い事は、何十年も続けてきているものなので、中には普通の人の及びもつかないような高度な技能を持つ人もいます。そういう人は、人間国宝のような称号が与えられて、4年に1回開かれる文化オリンピックで表彰されるそうです。
僕がいた過去の日本の社会でも、碁や将棋の名人、包丁一本の料理職人、作詞家や作曲家など、自分の持っている技術で生きている人がいましたが、未来の社会では、それがいろいろな分野に広がっています。
中には剣玉名人のような、一見簡単にできそうなものもありますが、それを何十年もきわめている人がいるので、今では高度な芸術的スポーツのようになっているということでした。
昔の日本の社会では、みんなが「欲しい」と思うものは主に「物」でしたから、「物」を買って豊かな生活を送っても、収入は別のところで働いて稼いでこなければなりませんでした。すると、働けなくなると収入がなくなってしまいます。
「物」の社会では、買えば買うほどお金が減ってくるので、みんなはなるべくお金を使わないようにしていました。
しかし、未来の日本の社会では、みんなが「欲しい」と思うものは、「物」よりも自分の「修行」になっています。自分の「修行」は買っているうちに、自分の能力になってきます。すると、今度は、その能力を売ることができるようになります。
このようにして、「修行」の社会では、お金を使えば使うほど自分の能力が増えてくるので、みんながなるべくお金を使うようになっています。貯めておいても自分の能力は増えないからです。
こうして、「物」の消費社会から、「修行」の自己投資社会に世界で最も早く移行した日本の社会は、今では世界一豊かな国になっているということでした。
日本が、世界で初めてこういう修行の社会になったのは、日本人が勉強好きだということが大きな理由のようでした。(つづく)
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未来の社会では、レジに人がいない店もよくあるので、自分で商品のバーコードを読み込んで、表示された金額を払ってくることも多いようです。
「少なめに払っていくなんて人はいないの」
と、僕が聞くと、
「だって、もし自分がお店をやっていて、少なめに払われたら嫌でしょう」
と、K君は当然のように答えました。「もし、自分が相手だったら」という考え方をみんなが自然にしているようです。
警察というのも、とっくの昔になくなっているということでした。悪いことをする人がほとんどいないし、いても、みんなで事情を聞いて対処するので、警察の仕事というのがなくなったそうです。
法律も、常識でわかるくらいのものに簡素化されて、しかも年々減っているようです。
「法律や警察がないなんて、不思議な社会だね」
と、僕が言うと、
「だって、家族の中だってもともとそんなのないじゃない。家族が広がったのが社会だと思えば、不思議なことなんてないさ」
と、K君は言いました。
「こういうのは、世界中で実現しているの」
と、僕が聞くと、これも不思議なことに、こんなふうになっているのは日本だけのようです。
世界のほとんどの国は、まだ警察もあるし法律も複雑で、しかも争いがなかなか絶えません。だから、治安のいい日本の社会を見学しに、毎年世界中の国から視察団がいくつも来るようです。
しかし、なぜ日本だけが、このように正直な人が多く、しかも、他人に対する思いやりのある人が多いのかまだよくわからないようでした。(しかし、その後の研究によると、左脳で感情や自然の音を処理する日本語脳にその秘密があるようだということでした)
家の中に入って、K君としばらくおしゃべりをしているうちに、K君のお父さんやお母さんが帰ってきました。
みんなが集まると、夕方はテレビなどを見ずに、もっぱらみんなでおしゃべりです。
子供が小中学生のころは、父親も母親も残業や転勤がなく、いつも早く帰ることができるそうです。社会のルールでそう決まっているということでした。
子供も、夕方、塾や習い事に通ういうことはありません。そういうのは昼間のうちに行けるからです。
学校は、勉強を教えてもらいに行くところではなく自分で勉強をしに行くところなので、自分で自由に行く日を決めることができます。
特別なことを勉強したり習いたいからという理由で塾や習い事に行く人は、学校の中にそういう場所があるので、そこに行きます。
しかし、子供が自由に何をしてもいいとなると、全体の勉強のバランスがくずれてしまうこともあるので、ときどき勉強全体のコーチのような人が、子供や両親と相談して、数ヶ月のおおまかな勉強のメニューを提案します。子供は、そのメニューを参考にしながら、自分の好きなことを中心に自由に勉強や習い事の予定を組んでいます。
だから、学校は行きたいときに行けばいいのですが、ほとんどの子供は、毎日決まった時間に学校に通います。友達といる方が楽しいし、毎日同じペースで生活した方が楽だからです。
ところで、未来の社会の不思議なところは、子供が学校で勉強しているのと同じように、お父さんやお母さんなどの大人も、みんな熱心に勉強や習い事をしていることです。
実は、これが未来の日本の社会の豊かさを生み出しているひとつの大きな理由なのでした。(つづく)
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僕は、その日、K君の家に泊まることになりました。
家に帰る途中の道を歩いていると、街路樹に何か実がなっているようです。
K君はジャンプしてその実を取ると、一つ僕にくれました。
街路樹には、どこも実のなる木が植えられていて、誰でも自由に取って食べていいようです。僕はもらったカキの実にガブリとかぶりつきました。
「おなかが空いているときに便利だね」
と、僕が言うと、K君は、
「もう一本隣の道には、ナシがなっているんだ。だから、日によって通る道を変えるんだ」
と言いました。僕は、今度はナシの道を通ろうと思いました。
K君の家に行く途中に、大きな公園があります。その公園を横切ろうとすると、1匹のヤギがついてきました。
「えー! こんなのいるの」
「うん、いろいろな動物が放し飼いになっているんだ」
見ると、公園にはニワトリやアヒルやウサギもいます。
K君は突然近くの草むらに入ると、しばらくして両手に卵を持ってきました。
「この草むらには、よくウズラやニワトリが卵を産むんだよ」
「そんなの、取っていいの」
「まあね」
K君はにっこり笑いました。この卵は、夕飯のおかずになるようです。
公園には、シートを広げて食事をしている家族もいました。
「何だかお花見みたいだね」
と、僕は言いました。
どこの家でも、ときどきそういう外食をすることがあるようです。未来の世界では、外食というのは、ファミリーレストランに行くことではなく、戸外で食べることになっているようでした。
そうこうしているうちに、家に着きました。
ドアの前で、「ただいま」と言いましたが、返事がありません。まだほかの家族は帰っていないようです。
K君は、ドアの横にある大きな木を指さしました。
「この木の枝をつたって窓から入ることもできるけど、今はあまりやらないんだ」
確かに、大きな枝が二階の窓まで延びています。僕は、ちょっとやってみたい気がしました。
K君は、すっとドアを開けると、「さあ、入れよ」と言いました。
「あれ、ドアは開いていたの」
「うん、カギはないんだ」
未来の家は、どこもカギをかける習慣がないようです。
「泥棒なんていないの」
と聞くと、K君は少し考えてから言いました。
「うーん。でも、自分だって人のうちに入って泥棒したいと思わないでしょう」
「確かにそうだけど、お金に困っている人がいたら、泥棒もするんじゃないかなあ」
「それは、困っている人がいるからだよ。困っていたら、そう言えばみんなが助けてくれるから、泥棒するほど困る人はいないんだ」
僕は、なるほどと納得しました。(つづく)
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では、なぜ暗唱をすると頭が良くなるのでしょうか。それは、頭脳が扱う短期記憶の入れ物が大きくなるからだと思います。
人間が普通に一度聞いただけで記憶できる分量は、7つまでと言われています。それが短期記憶の容量です。このため、文章で言うと、7文節ぐらいまでなら一度で覚えられますが、それ以上になると一度では覚えられません。新しい文節の単位が一つ入るごとに、古い文節の単位が一つ出ていくからです。
しかし、暗唱の場合はそうではありません。一つの文節ではなく、いくつかの文節が集まった一つの文自体が記憶の単位になっています。これは、百人一首の短歌を覚えている場合を考えてみるとよくわかります。「ひさかたの」という最初の言葉を聞いた時点で、すぐに全部の「ひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ」までが思い出されます。この場合は35文字が一つのまとまった単位になっているということです。
文章を理解するということは、ちょうどバケツリレーで、ひとつひとつのバケツに理解できる最小単位の文節が入っていて、それを次々と運んでいくような作業です。理解する単位が大きくなると、バケツリレーという作業自体は変わりませんが、ひとつのバケツのサイズが何倍にも大きくなるのです。
このため、暗唱をして短期記憶のバケツを大きくしておくと、発想力も理解力も増すのだと思います。
これは、ちょうど速読の仕組みと似ています。初めて文字が読めるようになった子供は、最初は1文字ずつ文字を読んでいきます。声に出しながら1文字ずつ読んでいき、その自分の声のつながり具合から何を書いてあったのか理解します。
読むのが速くなると、声に出す必要はなくなり、文字のつながりをひとまとまりに理解しながら読み進めていきます。
速読の場合は、この理解するひとまとまりが、5文字、10文字と増えていきます。フォトリーディングなど、更に速い読み方では、ひとまとまりの単位がもっと大きくなります。
速読の場合は、読む単位を広げることですが、暗唱の場合は、理解する単位を広げる練習をしていることになるのだと思います。
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タイトルの「暗唱をすると頭が良くなる」というのは私の実感です。実感とは言っても、データの裏づけのある実感です。
昔から、言葉の森では音読の自習をしていました。しかし、その音読をもっと徹底させたいと思っていました。
音読は、国語力をつける効果はありますが、続けにくいということと、そして、たまに嫌々やるぐらいでは効果がないことが弱点でした。
五分でもいいので、毎日同じ文章を繰り返して読むことが大事なのですが、そのやりかたを実行している子は、なかなかいませんでした。
また、言葉の森で音読をしていると、同じことをほかのところでもやるようになってきました。
音読を勧める本が出たり、学校の宿題として取り組むところが出てきたりすると、逆に音読のマイナス面も目立つようになってきました。
それは、「子供が音読を嫌がるので、どうしたら楽に音読を続けさせられるか」というような、音読の意義よりも音読の方法を目的にしたもので、親も子もただ苦労するだけの学習になっていったのです。そのようなやり方では当然大した効果はありません。
そこで、言葉の森では、音読の意義をさらに徹底させるために、暗唱という学習に取り組むことにしました。
まず、自分で暗唱をしてみる必要があるので、半年ほど毎日10分の暗唱に取り組みました。
私はもともと記憶力というものに自信がなく、聞いたことはメモをとらなければどんどん忘れていきます。たぶん、記憶力テストのようなものがあれば、学校のクラスで下から1、2位を争うぐらいだと思っていました。だから、自分にできることなら誰にもできるだろうと思ったのです。
暗唱の練習をしてしばらくすると、新しい発想が次々とわいてくるようになりました。
暗唱の時期と前後して、構成図で文章を書く方法や、付箋をつけながら読書をする方法もやるようになっていたので、それらが暗唱と相乗効果を発揮したのかもしれません。何しろ、急にいろいろなことを思いつくようになってきたのです。
私は、中学生のころから日記をつける習慣があり、大人になってからは、A4サイズのルーズリーフ用紙にナンバーリングでページを入れて日記をつけていました。日記といっても、その日にあった出来事などは書かず、思いついたことをメモのように書くものです。
毎年、年末になってページ数を見ると、1000ページ弱というのがこれまでのペースでした。しかし、暗唱を始めるようになったときから日記の量が増え、今は年間2000ページ、1日に直すと約5ページ以上も、書く内容が頭からわきでてくるようになったのです。
また、読書の量もかなり増えたという実感があります。これは冊数を数えていないのでデータの裏づけはありませんが、読むスピードが速くなった感じです。
たぶん今、毎日の自習をしている生徒の皆さんは、似たような感覚を持っていると思います。物事の理解が早くなり、それに関連して発想が豊かになるという感覚です。つまり、暗唱を始めて半年ぐらいたつと頭が良くなってきたという実感がわいてくるのです。
しかし、学校の成績というものはもっと直接的なもので、テストの前にどれだけ勉強したかということに左右されます。ですから、暗唱をして急に成績が上がったというようなことはあまりないと思います。
成績は測定できますが、頭の良さというものは測定するものがないので、目だった結果はまだないかもしれません。しかし、日記の量や読書のスピードに見られるように、発想力や理解力は増大しています。それが、長い期間の中で成績にも反映してくると思います。
では、なぜ暗唱をすると頭が良くなるのでしょうか、ということはまた明日。(つづく)
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