国語と算数は、小学校の時代から最も長い時間をかけて勉強をする教科になっています。これは、現代だけの特徴ではなく、江戸時代のころも、読み書きそろばんというものが学習の基本でした。
なぜ、国語と算数がそのように重視され教育の中心になっているかというと、ひとつにはその習得に時間がかかるからです。
それも、難しいから時間がかかるのではなく、学ぶことが多く、しかも平面的に多いのではなく積み重ねる体系として学ぶことが多いために時間がかかるという特徴があるからです。
もうひとつには、人間が社会生活を送る際に、国語と算数が役に立つ重要なツールとなっているからです。
つまり、人間が人間らしい生活を送るのに必要であり、しかも学ぶ努力が必要であり、さらにその学習が個人にとっても社会にとっても役に立つというのが、国語と算数の特徴なのです。
しかし、今の教育は、このような人間と社会の本質から論じられているわけではありません。
国語と算数は、既に教科として成立していることが前提になっていて、受験で学力の差を測るのに適しているために主要教科となっている面もあります。したがって、勉強の中身も、受験の問題を解くために学ばれている面が強いのです。
その結果、国語と算数は、勉強の方向が本来のあり方からずれ、無意味なところで難しい問題を解くことが目的化され、これらの教科の勉強のもともとの意味が忘れられている面があります。
では、国語と算数の本来の勉強の方向とはどういうものなのでしょうか。
国語と算数の勉強という各論を論じる前に、まず人間と教育一般について考えてみる必要があります。
動物は、生まれたときから完成された成長過程を約束されています。ただし、高等な動物になれば親の模倣という教育は必要で、その模倣が不適切であれば成長も偏ったものになります。
人間も、動物的な生活に限って言えば、親の模倣と自然な成長で間に合うはずですが、人間は動物のレベルを超えた社会生活を営む必要があるために、意識的な教育が必要になります。つまり、教育は社会生活を営む人間が、その人間自身とその社会にとって役に立つことを学ぶためにあるといえます。
その教育の分野は、大きく四つに分けて考えることができます。それは、認識における内向きの方向と、外向きの方向、身体における外向きの方向と、内向きの方向の四つです。
第一は、哲学です。これは、認識の創造ということで、世界の物事を新しい見方で構想する力を育てる分野です。
第二は、科学です。これは、世界の認識ということで、身の回りにある多様な現象を理解する力を育てる分野です。
第三は、工学です。これは、世界の加工ということで、現実を変革し加工する技術を身につける分野です。
第四は、心身です。これは、人間の幸福ということで、身体と精神の両面で幸福に生きる技術を身につける分野です。
これらの教育の四つの分野に、現在の教科をあてはめることができます。
哲学の分野には、国語、特に作文が入ります。また、算数の原理的な面もここに含まれます。
科学の分野には、現在の理科・社会など、体系的な知識を身につける教科がすべて含まれます。
工学の分野には、技術・家庭と、美術・音楽など芸術の技能的な面の学習が含まれます。また、国語の技能的な面、外国語などの語学、そして、算数の現実世界に応用する面が含まれます。
心身の分野には、保健・体育・道徳と、芸術における精神的な面の学習が含まれます。
未来の教育の四つの分野は、現代の教科の区分とも対応していますが、それらの教科の位置付けが異なっているので、当然、教科の性格も異なってきます。
哲学の分野に位置づけられる国語の場合は、ある課題について自分の創造的な考えを作り出し表現する力を育てることが学習の中心になります。
工学の分野に位置づけられる算数の場合は、ある課題について算数の知識や技術を現実の世界に応用することが学習の中心になります。
これまでの教育は、社会の有用な歯車となるためのものでした。そして、個人がその社会的役割を果たすことが、その個人の生活の利益とも結びついていました。
これまでの勉強は、社会からの要請が先にある勉強でした。しかし、これからの勉強は、個人が自己の向上のために行う勉強になります。そして、個人が自己の能力を開花させることが、社会に対する貢献にもつながるというものになっていきます。
そのような個人の向上心に基づいた教育においては、勉強は強制で行われるものではなく、また競争で意欲づけされるものでもなく、さらに受験の勝ち負けのために行われるものでもなく、自分自身の向上と社会への貢献のために行われるものになるでしょう。
すると、それら勉強をするための動機は、勝つ喜びではなく、学ぶ喜びに立脚したものになります。
これを四つの教育の分野に当てはめてみると、哲学の分野では創る喜び(創造)、科学の分野では知る喜び(理解)、工学の分野では作る喜び(加工)、心身の分野では感じる喜び(感受)が、それぞれ学ぶ動機となった勉強になります。
こう考えると、哲学としての国語は、材料となる様々な知識や経験を組み合わせて、言語による新しい作品を作り発表するということが勉強の主な方向になるでしょう。
それは、従来の日本の国語のように、文学作品を必要以上に詳しく鑑賞する方向の勉強とは違ったものになります。
一方、工学としての算数は、算数の知識と技術を生かし、それらを組み合わせて現実の課題を解くことが喜びとなるような勉強に進むと思います。それは、物理学や統計学やプログラミングのような方向です。
それは、従来の算数のように、算数の世界の中で難問を解くことが喜びとなるような方向とは違ったものになると思います。
これからの勉強は、勉強することが喜びとなるようなものになる必要があります。試験のためにしぶしぶやる勉強で、その苦痛の代償として褒美があったり、競争という刺激があったりするような勉強は、過去の勉強です。
それは、国語に関して言えば、書くことが楽しいという勉強であり、算数に関して言えば、解くことが楽しいという勉強になると思います。
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家庭で作文力つけるためには、どうしたらいいでしょうか。
作文力の土台にあるのは、読む力です。それは、読解力というよりも読書力に近いものです。なぜなら、国語の読解問題の成績がいい子が、必ずしも作文が得意なわけではないからです。
しかし、読書が好きで本をよく読んでいる子は、ほぼ例外なく作文も好きです。たとえ、今は作文があまり得意ではなくても、読書好きな子は少しのアドバイスですぐ上手になります。
しかし、もちろん読書だけではカバーできない作文力独自の分野もあります。その一つは、速く書く力と長く書く力です。これはある程度慣れによるものなので、実際に作文を書かないと身につきません。
もう一つ、書かないとわからないものは、誤字と誤表記のチェックです。それは、勘違いして覚えていることが多いので、実際に書いてみないとチェックできないからです。また自分でいいと思っている表現が、読む人にとってはそうでないということもよくあります。
ところが、家で作文を書く練習すると、数回で子供が嫌がるようになります。作文は、負担が大きくしかも成果が見えない勉強だからです。
これが、ドリルなど行う勉強との違いです。漢字ドリルや計算ドリルは、負担がそれほど大きくなく、やりとげたあとがページ数として残ります。作文はやりとげた感覚を持ちにくいのです。
また、親が作文の勉強で成果を出そうとして書き方の注意をすると、次から次へと注意が出てきて、親も子もくたびれる結果になることがよくあります。
更に、上手な子の作文を見せて、こんなふうに書けばいいなどと教えると、子供はかえってやる気をなくします。それは、子供にとっては多くの場合不可能なことだからです。
だから、作文は家庭ではあまり教えないのが基本です。楽しく読書をして読む力をつけていくことが、家庭での勉強の中心になります。
しかし、文章を書くことに何か意味を持たせれば、家庭でも作文の練習を続けることはできます。
その一つは、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんに手紙を書く練習です。その手紙の構成は、書き出しがあいさつ、結びもあいさつ、しかし本部の中身は作文という形になります。
しかし、この場合にも大事なことは、子供が作文を書いたあとは極力直さずに褒めるだけにするということです。
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小学校中学年で作文が苦手だという子のお母さんからから問い合わせがありました。家庭でできる作文の勉強にはどういうものがあるでしょうか、という質問です。
それは、ある意味でとても簡単です。読書と対話の時間を確保していくということだからです。そして、できればその子の書いた文章のいいところをどんどん褒めてあげることです。
普通、小学校低中学年では、作文は苦手になりません。書くことは楽しいことですし、また、この時期は、本を読むことも楽しいことだからです。
作文が苦手だと思っているのは、作文を比較されたことがあるからです。例えば、学校や塾で、「この上手な子のように書きなさい」などと言われたからです(笑)。
作文は、小手先の技術だけですぐうまくなるものではなく、その子のそれまでの読書、対話、経験、そして文章を書く機会の総合化されたものです。特に、読書量の差は大人が考える以上に大きいものです。
日常の会話は、どの子も同じような語彙を使って話していますが、抽象的な話題になると使える語彙の幅はかなり違ってきます。
小学校低中学年で作文が上手だと思われている子は、ひとことで言えば語彙の豊富な子です。語彙が少なければ、どんなによい経験をしてもそれをうまく表現することはできません。
ところが、語彙力は、漢字の学習のようにそれだけを単独で取り上げてできるものではありません。語彙力ドリルのようなもので身につけることはできないのです。
語彙力は、読書や日常の対話を通して、実際の文章の中でその語彙を味わって理解することによって身につきます。
この語彙力が最もよく表れているのが、森リンの点数です。特に、表現語彙の点数は、その子の語彙力とほぼ比例しています。そして、それは学力の可能性とも比例しています。
特に、中学生や高校生の論説的な文章では、森リンの点数はそのままその子の学力と同じと考えてもよいと思います。
では、家庭でこのような語彙力や作文力をつけるためには、どうしたらいいのでしょうか。(つづく)
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はやぶさのカプセルにあった微粒子が、小惑星イトカワのものだったと発表されました。
燃えつきながら帰ってきたはやぶさ、ありがとう。
====毎日新聞より引用====
小惑星探査機:はやぶさ採取「イトカワ微粒子」 人類に巨大な一歩
7年間、計60億キロに及ぶ前人未到の旅に挑んだ小惑星探査機「はやぶさ」が、人類の宝ともいえる大きな「土産」を持ち帰っていたことが16日明らかになった。プロジェクトを率いた川口淳一郎・宇宙航空研究開発機構(JAXA)教授は「胸がいっぱい」と声を震わせ、関係者は称賛した。「500点満点」の成果を元に、今後は世界中の科学者が太陽系の誕生の秘密に迫る。【八田浩輔、足立旬子】
◇JAXA教授「夢超えた」
「帰ってきただけでも夢のよう。夢を超えたことで、どう表現してよいか分からない。点数はない。付けたくない」と川口さんは語った。
03年の打ち上げ当時、はやぶさが数多くの人類初の技術に挑むため、イトカワの試料の採取成功まですべて達成した場合「500点に値する」と話していたが、喜びを抑えきれない様子だ。
昨年11月中旬、はやぶさのイオンエンジンにトラブルが生じ、暗雲が漂ったが、奇跡的に復活した。川口さんは「想定を超える成功が重なった。7年間もさることながら、プロジェクトを始めて15年。その前から数えると四半世紀になる。感慨無量。苦労が報われ、よかったなと心から思う」と顔を紅潮させた。
会見には、藤村彰夫JAXA教授、微粒子を電子顕微鏡で分析した中村智樹・東北大准教授らも同席。藤村さんは「最初カプセルを開けた時に真っ青になった」と明かす。微粒子が0・01ミリ以下で、目に見えるものがなかったからだ。地球外物質と特定された1500個の微粒子の中には、地球上の物質に含まれるものもあれば、存在しないものもある。中村さんは「分析を進め、地球にほとんどない結晶を見つけた時は、ガッツポーズの瞬間でした」と語った。
18日の政府の事業仕分けでは、JAXAの運営費交付金削減も議論される。川口さんは「イノベーション(革新)には時間がかかる。将来への投資として近視眼的にならないでほしい」と注文を付けた。
◇「努力完結、素晴らしい」 関係者から続々喜びの声
はやぶさのカプセルからイトカワの物質が確認されたことに、関係者の間で「よくやった」と喜びの声が広がった。「宇宙戦艦ヤマト」など宇宙関連の作品をヒットさせている漫画家、松本零士さんは「人類によって地球が傷つけられている今、他天体の物質を探究することは、地球を守るためにも不可欠な活動。試料はとても小さいが、人類にとって巨大な一歩だ。日本がやりとげたことも素晴らしい」と喜んだ。
試料確認の立役者となったのは、はやぶさが宇宙空間で切り離したカプセルが、大気圏で燃え尽きずに帰還したからだ。カプセル開発の責任者、山田哲哉・宇宙航空研究開発機構(JAXA)准教授は「はやぶさの航行後、試料の分析へとバトンをつなぐことができ、ほっとしている。努力をしたかいがあった」と語った。
はやぶさを擬人化したゆるキャラ「はやぶさ君」の作者、小野瀬直美さんは「多くのトラブルを克服しながら、よく帰ってくれた。『あなたの帰りを待っている7年に分析技術も飛躍的に向上しました。小さな試料であっても、がんばって解析し良い成果が出るでしょう』と声をかけたい」とねぎらった。
はやぶさを主人公にした映像作品「HAYABUSA BACK TO THE EARTH」を制作したコンピューターグラフィックス(CG)ディレクターの上坂(こうさか)浩光さんは「ニュースを聞き、体が震えた。はやぶさの努力がすべて無駄にならず、完結できたことが素晴らしい」と声を弾ませた。
この作品は、全国30カ所以上で上映され、20万人を動員した。はやぶさ帰還と今回の成果を含めた完結編は、24日から東京都渋谷区のコスモプラネタリウム渋谷で一般公開される。【永山悦子】
====引用ここまで。====
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子供たちに四行詩と読書の自習の話をすると、四行詩をしっかり書いてくる子の中に、読書よりも四行詩を優先させてしまう子が出てきます。
食事にあてはめると、読書が主食で、四行詩はデザートです。
難しそうなものや勉強の形になっているものを優先しがちなところが、誰にもあるようです。
勉強では、幹と枝葉を間違えないことが大切です。幹が読書で、四行詩や読書の記録は枝葉です。
同じように、長文の暗唱も、やさしい事実文ではなく難しい説明文に取り組む子がいます。
事実文は、言葉とイメージが結びつくので流れがつかみやすいのですが、説明文は、すぐにはイメージも出て来ず流れもつかみにくいので質的にかなり難しくなります。
説明文の場合は、回数を増やしてやりとげるようにするか、それが無理ならやはり事実文に戻って基本をしっかりやっていくことが大事です。
似た例で、読書をする時間がないから問題集の読書を中心にするという子がいます。
これは、受験生の場合にはやむを得ない面もありますが、受験の何年も前から読書を省略してしまえば、かえって本の面白さを味わうという基礎力がつきません。
小学校低中学年の親で、子供に難しいことを長時間させすぎている人が多いということをよく感じます。
自分が小学校低中学年のときにやっていたことと同じような生活をさせるのが子育ての基本です。それに、少し改善点を付け加える程度がよくて、自分の小学校低中学年のころの生活とかけ離れたことをしない方がいいのです。
塾や習い事にたくさん通う子の中に、その教室に行くこと自体が勉強のようになっている子がいます。
どんな塾や習い事でも、その学習を徹底させようと思えば、家庭での宿題が出ます。
家庭での宿題が毎日10分であっても1週間やれば1時間になりますから、塾に行って毎週1時間勉強するのと同じ時間になります。そして、実際は家庭での毎日10分の勉強の方が、塾での1時間の勉強よりもずっと大事なのです。
勉強の基本は、家庭です。同じ学校に通って、同じような塾や習い事に通って、どうして実力に差がつくかというと、その差はやはり家庭にあります。家庭で、読書や対話という学力の基礎となる時間をしっかり確保していくことが大事なのです。
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週3回の通塾、塾の宿題、復習などで、自由になる時間は極端に少ないのですが、息子は、問題集読書をいやがらず、どちらかと言うと楽しみながら、ほぼ毎日続けています。
元々要領が良い方ではなく、どちらかと言えば、四行詩の書き方も雑で、メモ程度。こんなもので良いのか?と、疑問に思っていましたが、まず、大事なことは、毎日続けることなのですね。
ところで、このペースで読み続け、2回目に入った時、特に気をつけることはあるのでしょうか?
問題集読書で大事なことは、いいと思ったところに傍線を引きながら読むことです。
いいというのは、面白い、よくわかった、表現が気に入った、などというところです。
2回目に読むときにも傍線を引きますが、1回目に読んだときに引いた傍線と重なってもかまいません。
本当は、繰り返し4回ぐらい読めるといいのですが、1年間の間にはなかなかそこまでいかないと思います。
有難うございます。読むのに熱中して、傍線を引き忘れることがあるので、これから気をつけるようにします。
問題集読書をすることで、学校説明会や入学案内とは違う角度で、それぞれの学校を見ることができるように思います。親も楽しませていただいています。
物語文だと傍線を引くことはあまりないのですが、それでも、「ここはいいなあ」と思ったところには引いておくといいと思います。
読むときは、傍線を引きながら読むことに徹して、四行詩は、全部読み終えたあとに、その傍線を引いた箇所をもとにして書いていくといいと思います。
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子供が小学校高学年から中学生になったときに、言うこと聞かせられる親にも共通点があるようです。
子供が小さいときは、細かいことはあまり言いません。子供にのびのびと、やりたいようにやらせて、多少脱線しても平気です。テストの点数が悪くても気にしません。
しかし、肝心なときだけ強く短く叱ります。このときの叱り方は、いったん口に出したら妥協はありません。
だから、子供はのびのびしていますが、いざここが肝心の場面だとわかると素直に親に従います。
こういう叱り方は、一般に父親の方が得意で母親は苦手なようです。だから、本当は母親は、叱り役をあまりしない方がいいと思います。母親が叱ると、年中小言と言うような叱り方になることが多いようです。
父親は、普段はにこにこしているだけで、子供たちの脱線も大目に見ていますが、ある基準を越えるときだけ、「おい」と一言(笑)。子供は、すぐにその基準の中に戻り、またのびのびと遊び出すというような叱り方です。
では、既に親子の間で、親の言うことを子供が聞かないという関係ができている場合はどうしたらいいのでしょうか。
まず、父と母が協力することが大事です。父親が叱っているときに母が子供の味方をしたり、母親が叱ってるときに父が子供の味方をしたりしたのではよくありません。しかし、それは、父と母が一緒になって子供を叱るということではありません。
それから、両親が子供に向かって、お互いの悪口を言うのももちろんよくありません。「葉隠」に、「愚かな母は、子供を味方につけたいという思いから、父の悪口を言うことがある」と書いてあります。これは、父親にとっても同様です。両親が、子供に対しては、お互いに相手のことをそっと褒め合うというのが理想です。
私は、学校教育で、こういうことこそ教えるべきだと思います。知識として知っているだけでも、家庭の雰囲気は大きく変わると思います。
子供の教育にとって大事なのは、親の言っていることが正しいかどうかということよりも、両親が一致しているということです。
しかし、父親と母親の間で非協力の関係が既にできている家庭も多いと思います。^^; そういうときは、気迫で臨むしかありません。
大事なことは焦点を絞ることです。あれもこれも言うこと聞かせるのではなく、ほとんどのことは本人の自主性に任せ、ある基準のいくつかのことだけは断固として守らせるようにします。
そして、いったん叱り始めたら、途中で妥協はせずに最後まで貫徹することです。こういうときのやりとりは、体力も理屈も関係なくただ勢いだけが必要です。子供が成長すると、体力も理屈も次第に親を上回るようになってきますが、親は気迫だけは負けなければいいのです。
しかし、更に言えば、親が子供をうまく叱れなくて、言うことを聞かせられなくても、長い目で見れば、子供は成長とともに必ず親の言おうとしていたことを理解します。
どんな子供でも、自分が親の年になれば、親の言いたかったことがわかってきます。そのためには、親がたとえその場で言うことを聞かせられなくても、少なくとも言葉の上では正しいことを子供に伝えておくことだと思います。(おわり)
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早速、主人にも読んでもらいます!
> なるほどさん
強くて優しくて面白いお父さんになるようにがんばってください。
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時どき、「親が言っても言うことを聞かないので、先生の方から言ってください」というようなことを頼まれることがあります。
いちばん多いのは、「本を読むように言ってください」ということです。しかし、親が言うこと聞かせられないのに、他人が簡単に言うことを聞かせることはできません。
親はその子と一緒に十数年も暮らしているのに対して、先生は毎週電話で十分話をするだけです。しかも、まだ先生と子供が接触して何週間もたっていないということも多いのです。
親は、いざとなれば子供をぶっとばすこともできます。もちろんそういうことはほとんど必要ないと思いますが(笑)。しかし、もしそういうことがあっても、一晩たてば仲よくなるのが親子です。
他人は、そうではありません。例えば、教室で子供をひどく叱ったときは、そのあといくらフォローしても、1週間後にまたその子の顔を見るまでは落ち着きません。あのとき叱らないで、もっとうまくやる方法があったのではないかと、折に触れて思い出すからです。
叱るというのは、そういうストレスのたまることなのです。
子供を叱れない親は、そういう苦労を避けているだけではないかと思います。子供が言うこと聞かないのは、単に親が本気になっていないからです。
では、なぜそういう親子関係になってしまったのかと考えると、言うことを聞かせられない親に一つの共通する傾向があるように思います。
それは、子供が小さいときに、細かいことを注意したり管理したりしすぎたのではないかということです。
子供が小学校2年生のころまでは、誰でも親の言うことをよく聞くので、親もつい細かく注意しすぎることがあります。
しかし、細かい注意ですから、中には子供が守れないことも出てきます。
子供が小学校5年生ころになって自覚ができてくると、親が言ったことでも、「できない」と自己主張することがあります。
そのときに、その注意がもともと細かい些細なことであった場合は、親はそれ以上無理させることができなくなります。そうすると、あとはなしくずし的に、親の言うことを聞かなくなっていくのです。
つまり小学校低学年のころに言うことを聞かせすぎると、小学校高学年になって言うことをきかなくなるというパターンです。小さいときに気楽に叱りすぎたので、叱ることに重みがなくなってしまったのです。
例えば、成績が悪かったので叱るなどというのは、最もよくない叱り方です。
成績が悪かったときは、子供は既に心の中では暗い気持ちでいます。そういうときこそ、親が、「大丈夫、大丈夫。こんなの気にしない。テストの成績なんて、あなたの中身に全然関係ないんだから」と明るく励ましてあげることが大切です。
こういう対応をしているお母さんの言うことなら、子供はしっかり言うことを聞くようになるのです。(つづく)
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良い事書きましたね。僕はインドネシアで日本語を勉強しているので、作文を読むと勉強になることです。
e-mail:fiyad.30@gmail.com
> fitriyadiさん
コメントありがとうございます。
インドネシアは、今、火山の噴火などで大変そうですが、自然の豊かないいところと聞いています。
いつか遊びに行きたいと思っています。
日本語の勉強、ぜひがんばってください。
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受験で作文・小論文の課題に取り組む人のために、試験前の準備を「言葉の森新便」から転載します。
作文の試験で、いちばん頼りになるのが、自分がこれまでに書いた作文の蓄積です。
作文をたくさん書いていると、その中に必ず、自分でも驚くほどいい表現や実例や意見が入った文章を書くことがあります。そういう文章を蓄積しておくことが作文の試験対策です。
これまで作文を書いていなかったが、これから試験があるという人は、とりあえず10種類のテーマを決めて作文を書いていきましょう。テーマを変えて10本の作文を書いていると、試験の本番でもその中のいくつかの実例や表現で生かせるのが出てきます。
====言葉の森新聞の記事より====
(1)これまでの作文をファイルしておきましょう。
(2)上手に書けていると思ったところに赤ペンで線を引いておきましょう。
(3)線を引いたところを何度も繰り返し読んで、覚えましょう。
(4)これまでに書いた作文の中で、自分らしい体験実例が書かれているところを二つ選び、その実例をいつでも書けるようにしておきましょう。
(5)試験の始まる直前まで、作文のファイルを読みましょう。
(6)課題が出されたら、頭の中にあるこれまでのいい実例、いい表現であてはまりそうなものを思い出して、問題用紙の横などにメモしましょう。
(7)全体の構成は、第一段落「説明と意見」、第二段落「理由・方法・実例」、第三段落「理由2・方法2・実例2」、第四段落「第一段落と同じ意見」という形を基本にしましょう。それぞれの段落の長さは150字ぐらいが目安です。
(8)構成メモを考えたら、字数配分で8割ぐらいまでのところは、できるだけ速く書き、最後の2割はじっくり書くようにしましょう。
(9)結びの第四段落には、できるだけ「確かに……」という言葉で反対意見に対する理解を入れましょう。
(10)書き出しと結びの意見は必ず対応させましょう。
(11)課題文の中にあるキーワードは、できるだけ結びの5行の中に入れましょう。
(12)習った漢字は全部使いましょう。書こうとする漢字に自信がないときは、別の表現の仕方を考えましょう。
(13)できるだけ指定の字数ぎりぎりまで書きましょう。
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