読解力をを考える前に、まず理解力の本質を考える上必要があります。
なぜ理解力が大事かというと、それが学力の基礎になっている最も重要な知力だからです
学力は、学校の成績として現れますが、実はこの成績は本当の知力とは多少異なっています。なぜかというと、ペーパーテストで測れるような成績は、ある程度の訓練によって著しく上昇する面があるからです。
ときどき、何週間で偏差値が上がったというような宣伝を見ますが、そのような単期間で上がる偏差値は、もともと意味がないものです。そこで測定されているものは、成績であって知力ではありません。
知力のある人は、たとえ普段の成績が普通でも、試験前に単期間集中して勉強すると、見る見るうちに成績が上がるという特徴があります。高校3年生で急に成績が上がる子がいるのはこのためです。
小中学生のころは、成績に目を奪われるのではなく、この知力を育てていくことが大切です。
知力には、理解力、創造力、表現力などがありますが、中でも重要なのは理解力です。
この理解力の本質は、物事を構造の中で見る力です。
理解力のない人は、物事を単独に現象として感じとります。理解力のある人は、物事をその外部との関連や構造の中でとらえます。
わかりやすい例で言うと、例えばヤカンというものを見た場合に、小さい子供はそのヤカンををその大きさや質感としてとらえますが、大人はそのヤカンを、直接感じ取れる属性以外に、熱くなる可能性を持ったものとしてもとらえます。そこで、大人は子供に対して、「ヤカンはさわると熱い」ということを事前に説明することができます。大人の方が、小さい子供よりも、ヤカンを世界との関連や構造の中で見ることができるということです。
老人の知恵とは、こういう知力のことです。老人は、学校の勉強はあまりしなかった場合でも、長い人生経験の中で様々な物事を関連の中で見る知恵を身につけています。したがって、学力があるが人生経験の乏しい若者よりも、より的確な物事の理解をすることがあるのです。
この理解力の構造が、言語に適用されたものが読解力です。(つづく)
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言葉の森新聞に掲載した、過去の記事の再掲です。
小学校6年生の中高一貫校などの入試作文で、30分800字などの試験課題が課せられる場合があります。高校生の大学入試小論文では90分1000字などが普通ですから、30分800字というのは異常な速さです。このような時間と字数でまともに書ける子はほとんどいません。その結果、大きな差がつくので点数をつけやすくなるということです。
しかし、これまで言葉の森から入試に臨んだ子供たちは、ほとんどが30分で800字ぐらいの作文を書いてきました。入試では、気合いが入るので練習のときよりも速く書けるからです。
もちろん、練習のときに速く書く方法もあります。
しかし、速く書く練習をするのは、試験の前の1-2ヶ月にしておく方がいいと思います。それまでは、時間を計りながら書きますが、速さよりも内容を優先していきます。なぜかというと、内容がよければ、その内容を試験の材料として生かせるからです。
普段の練習は、実戦のための予行演習ではなく、材料作る準備のための練習と考えておいてください。普段の作文の練習でよい材料とよい表現を蓄積しておくと、それを試験で生かすことができます。試験で速く書くためには、普段の作品で時間を速くするよりも、充実した内容を書くことに力を入れておくことです。
試験の1ー2ヶ月で速く書く練習をするときのコツは次のようになります。まず第1は、問題を読んだあと、作文用紙の余白に3、4ヶ所の箇条書きでメモをしておくということです。第2は、作文を書いている間は、消しゴムで消さない、書いたところを読み返さない、書くことを考えない、という三つのことを守ることです。第3に、書くことを考えずに書くためには、作文を書いていて書くことに詰まったときに、最初のメモを見ます。メモを見てすぐに書き続けるというやり方をしていけば、途中で考える時間を減らすことができます。第4に、作文の4分の3ぐらいまでの長さはほぼノンストップで書いていきます。途中で話が多少脱線したりずれたりしていても構いません。第5に、作文の結びの4分の1ぐらいに来たときに、初めて全体を読み返してまとめる体制に入ります。まとめる場面では、書き出しの意見とできるだけ対応するように考えるのが大事です。
このように、ノンストップで速く書く練習は、1、2ヶ月でできます。毎週1回作文を書いている人は、同じテーマで同じ内容の文章を書く練習をする形で、毎日作文を書いていきます。1ヶ月毎日30分で800字を書く練習をしていると、速く書く感覚がつかめると思います。
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森リンは、既に文章力十分にある高校生や大学生にも、小中学生と同じように使えます。
その方法は、こういう形です。
生活作文や身辺雑記的なことでは、高校生や大学生になると、作文の上手な子の文章力にはほとんど差がなくなります。ところが、知識の得意分野は人によってそれぞれ違います。
政治経済のジャンルでいい文章を書ける人が、心理学や哲学の分野でいい文章が書けるとは必ずしも言えません。また、もちろんその逆もそうです。
森リンの点数によってその差がはっきり表れれば、自分が、ある分野では専門的なことが言えても他の分野ではありきたりのことしか言えないということがわかってきます。
そこで、その自分の苦手な分野を、自分なりに学んで強化するという流れに勉強が進んでいきます。これが、高校生や大学生の文章練習の方法です。
以上のことからわかるように、森リンは、小学校低中学年向けのソフトではなく、小学校高学年以上、中高生や大学生向けのソフトです。
そして、文章の本当の価値は、そこに創造性があるかどうかということによって決まってきます。
この世の中にまだない美や思想や知識を作り出すのが、文章の役割です。
そのようなレベルに達すると、文章を書くことは、他人の評価を超えて、書くこと自体がひとつの喜びとなってきます。
しかし、そのために、小中高の教育において、もっと文章をたくさん書く機会を作る必要があり、そのために森リンのようなソフトを活用する必要があると思います。(おわり)
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森リンの利点は、一つには作文の進歩というわかりにくいものを数値化したことです。
もう一つは、高速大量に作文の採点ができるようになったことです。
例えば、1000人の生徒の1200字程度の作文の採点を頼まれたとします。もしこれを人間が行うとすれば、1人の作文を2分で読むとしても30時間以上かかります。しかも、それらの作文に点数をつけるとなると、読んでいるうちに点数が甘くなったり辛くなったりしてきます。
更に、この採点を複数の人間が分担するとなると、甘い採点の人と辛い採点の人との差がでてきます。それらを調整して一応客観的な点数を出したとしても、同じ作文を同じように別の日に採点すれば、また違った点数が出てくるはずです。
ところが、森リンで採点を行えば、ゆっくり採点しても1人の採点にかかる時間は数秒です。文字どおりあっという間に採点が終了します。採点の妥当性を見るために、人間があとからその作文を読んで作品と森リンの点数の対応をチェックしてもいいと思います。
これがどういうところで役に立つかというと、学校教育の中で作文の時間を大幅に増やすことができるということです。
現在の作文教育の最大の問題は、書く機会がないことです。森リンで採点をすれば、中学生、高校生でも毎日1時間作文を書くというような授業が可能になります。
よく、字の間違いや書き方のおかしいところも自動採点ソフトでチェックしてくれるのかという質問があります。
実は、アメリカのソフトはその方向に進んでいるようです。それは、アメリカが多数の移民を前提にして、最低限の英語力の底上げを図ることを教育の主な目的としているからです。
森リンにも、そういう間違いチェックの機能を取り入れることはできますが、それは教育の本来のあり方ではありません。
正しい表記は、優れた文章を、暗唱や暗写などの方法で徹底して読むことによって身につけるというのが本道です。
そういう教育本来の仕事をしないまま、ただ間違い探しのテストをして点数をつけ、肝心の勉強の中身は個人の努力に任せるというスタイルが今の教育にはあると思います。
森リンは、下手な作文のどこが下手かという評価をするために作ったのではなくありません。そういうやり方であれば、中学生や高校生や大学生を何年間も継続して指導することはできません。間違いを直すというような指導ではレベルが低すぎるので、みんながすぐに退屈するようになるからです。
森リンは、下手な作文の下手なところを見つけるためではなく、うまい作文をよりうまくするためにどうしたらいいかというもっと前向きな評価のために作ったのです。(つづく)
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森リンの開発の動機は、作文に対する客観的な評価を行いたいということでした。
現在の言葉の森の指導でも、項目指導という客観的な評価のできる勉強の仕方を中心にしています。しかし、項目指導では、表現の形を中心とした評価になり、中身についての評価まではできません。
例えば、「たとえ」という項目でも、個性的なたとえを使える子と、ありきたりのたとえしか使えない子がいます。「怒った」だったら、「鬼のように怒った」、「寒かった」だったら、「南極のように寒かった」という表現です。それはそれでいいのですが、やはり少し物足りない感じがします。
個性的なたとえを使える子は、たとえ以外のほかの文章も、自分なりに考えた表現を使って書きます。ありきたりのたとえしか書かない子は、たとえ以外のほかの文章も、やはりありきたりの表現になることが多いのです。
そして、個性的な表現を使う子は、内容も個性的であり、平凡な表現を使う子は、内容も平凡なものになりがちです。遠足に行った話でも、「遠足に行きました。とても楽しかったです。また行きたいと思いました。」というような表現が次々と出てくる作文です。これももちろん全く書けないよりははるかにいいのですが、やはり物足りない感じがします。
ところが、小学校低中学の作文では、この個性と平凡の差は人間が見てもはっきりしていますが、小学校高学年や中学生、高校生の作文になると、個性と平凡の表現の差は、人間の目ではわかりにくくなります。
実際に二つの文章を読むと、一方は漠然と中身が濃いような感じがし、他方は漠然と中身が薄いような感じがします。しかし、それは漠然とした印象で、どこがその箇所なのかということは言えません。
ですから、小学校高学年以上の文章では、上手な作文と上手でない作文の評価は漠然とした印象では言えるが、それを指導に生かすことができないという事情があったのです。指導するとしても、上手な作文を見せて、「みんなも、こういうふうに書いてみよう」というのがせいぜいでした。
ところが、それが、森リンにかけると、はっきりとした数値としての差になって出てきます。
子供たちの作文の森リンの点数のグラフを数年間にわたって見てみると、個々の作品の出来不出来による点数の上限はあるものの、どの子も平均して1年間で数ポイントずつ点数が上昇しています。これは、それだけその子が新しい語彙を吸収し、それを作文に生かせるようになったということです。
もちろん、一方には、森リンの点数がほとんど変化しない子もいます。これは、学校に通って勉強は進んでいても、本当の意味での学力が向上していないということになると思います。
このように、森リンは、作文の評価という微妙な分野をはっきりと客観的な数値として表せる方法になっています。(つづく)
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森リンは、作文小論文の自動採点ソフトとして2004年11月26日に特許を出願し取得しました(特許第4584158号)。
それまでの作文小論文の自動採点ソフトは、平均的な文章の平均値からどれだけ離れていないかということを評価の基準としていました。
その結果、うまくない文章はすぐにわかりますが、それがそのまま、うまくない文章の度合いが低いものほどうまい、とは言えないところに問題がありました。ややこしい書き方ですが。(^^ゞ
これは、美人コンテストのようなものを考えるとわかりやすいと思います。
人間の平均的な顔の数値を求めて、その平均値から外れていれば、確かに変な顔だということはわかります。しかし、最も平均値から外れていない顔が最も美しいかというとそうとは言えません。
従来の作文小論文ソフトがどうしてそういう発想で評価の基準を決めたかというと、プログラムを作る人が、うまいということの基準を決めることができなかったからです。
文章のうまさというものには、主観的な面があります。そこで、客観的な、誰もが納得するような基準として平均値を評価の尺度にしたのです
これに対して、森リンは文章のうまさという基準を先に考えました。それは、言葉の森が、これまでの作文指導の中で、上手な文章の蓄積というものを持っていたからです。
言葉の森の考える文章のうまさの基準は、まず第一に語彙が多様であるということです。
第二は、しかし、バランスがとれているということです。
そして、第三は、論説文として理路整然としているということです。
この三つは、それぞれ相反する面があります。
語彙が多様になりすぎると、バランスがとれなくなり、冗長な文章となってしまいます。
また、一般に易しい言葉だけでなく、難しい言葉もある方がいい文章とはいえますが、あまり難しい語彙がありすぎると重い文章になってしまいます。
理路整然としている文章はわかりやすい文章ですが、その度合いが過ぎると硬い文章になってしまいます。
また、森リンの評価は論説的な文章を対象としているので、小学校中学年までの事実中心の生活作文では評価がずれる面があります。更に、字数が短いと、森の点数の誤差が大きくなるので、1200字程度の長さは必要になります。
言葉の森で毎月発表している森リン大賞は、言葉の森の生徒が毎月の清書で書いた作文の中から森リンの上位の人を掲載しています。
ここには人間の評価は何も加えていませんが、上位の作品を見るとかなり妥当性があります。人間が評価して上位の作品を選んでもあまり変わりないと思います。
それなのに、採点にかかる時間は、人間の百倍ぐらい速いのです。
ところで、厳密にいうと森リンで評価しているのは、その作文の上手さというよりも、その作文に表れた、書いた人の作文力の評価です。だから、森リンの点数は、その人の学力と比例している面があります。
森リンの点数を上げるためには、小学生の場合は読書で、中学生や高校生の場合は問題集読書のような難しい読書で使える語彙をふやしていくことが大切です。
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新聞を読む学習法をまだやっていない人が今から新しく始める必要はありませんが、すでに家庭で新聞を読む習慣があるという人は、次のような読み方をしていくといいと思います
新聞というと、ニュースの時事的な記事を読むものだと思いがちですが、このニュースというものはあまり読む必要はありません。なぜなら、ニュースのほとんどは、1週間もたてば意味がなくなるものだからです
また、1ヶ月間や1年間のニュースをまとめた新聞ダイジェストのようなものも読む必要はありません。そういう時事的な知識が直接役に立つというようなことはほとんどないからです。
大きなニュースは、大きな文字のタイトルで書かれているので、つい読んでしまいがちです。また、テレビのニュースも同じように、そのときの最新の話題が大きな話題として放送されているとつい見てしまいがちです。しかし、それらのニュースは、そのときだけのもので、あとに残るものではありません。
新聞やテレビは、与えられたものを惰性で見るのではなく、ポイントを絞って見ることが大事です。
また、新聞の中の特定のコラム欄例えば天声人語や社説などを必ず読むというようなことを自分に課すのもあまりよいことでありません。そういう杓子定規の読み方は時間の無駄になることが多いからです。
では、新聞のどういうところを読むかというと、それは枠で囲まれた解説記事になっているところです。一般紙の場合は、日曜日の朝刊の1面の左上によく解説記事が載っています。そういう記事が、枠で囲まれた解説記事です。新聞の内側にも、そういう囲みの解説記事がいくつもあります。
ニュースは読まないが解説は読むというのが、新聞の最も役に立つ読み方です。
例えば、惑星探査機はやぶさが帰ってきたとか、小惑星イトカワの微粒子が発見されたとかというようなニュースは、興味を引きますが、特に熱心に読む必要はありません。
読むのは、はやぶさがどういう計画で、どういう意義があったのかというような解説の記事です。
この読み方をするためには、新聞は必ずしも毎日読む必要はありません。読んでみたい解説記事があればそれを切り取っておき、あとで時間のあるときにまとめて読むようにすればいいのです。
もし、保護者が、子供の新聞の読み方の手助けをするとすれば、保護者の方で、読んでおくといい解説記事を切り取っておくというやり方をしてもいいと思います。
ところで、こういう新聞の解説記事を1年間分まとめたようなものがあります。それが、毎年の入試問題の国語の説明文の文章です。
読む時間の密度の濃さという点から言えば、新聞の解説記事よりも問題集の問題文の方が読む力がつくと思います。
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小学生の保護者から、「新聞を毎日読ませているのですが、それは勉強としてどうですか」という質問が何件かありました。
下記は、朝日新聞のサイトからの引用です。
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新学習指導要領は、思考力などを育てるために従来よりも「言語活動」を重視している。現行の指導要領は児童や生徒の言語活動が「適正に行われるようにすること」と記しているが、新指導要領では、各教科の指導で言語活動を「充実すること」と踏み込んだ。小学5、6年の国語では、新学習指導要領は「読む力」を育てるための指導事項として「本や文章を読んで考えたことを発表し合い、自分の考えを広げたり深めたりすること」などを6点を列挙。具体的な方法の一つに「編集の仕方や記事の書き方に注意して新聞を読むこと」を挙げる。中学2、3年の国語でも指導方法の一つに新聞を例示している。
( 2010-08-08 朝日新聞 朝刊 教育2 )
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こういう記事があったので、新聞の活用法に関する質問が増えてきたのだと思います。
私の新聞に対する考えは、次のようなものです。
1、新聞には、普通の読書ではあまり触れる機会のない説明的な文章が多いので、その点では役に立つが、子供は実際には漫画を読むだけになることが多い。
2、読む力の基本になるのは読書で、読書を主食とすると、新聞はおやつという位置づけである。
3、新聞の文章は総じてやさしく書かれているので、高学年の生徒が国語の勉強のために読むのであれば、入試問題集を読書がわりに読む方がよい。
4、大学生が、半年ぐらい集中して、新聞の解説記事を中心に隅から隅まで読めば、時事的な一般教養の力はほぼ完璧につく。
5、社会人は、新聞よりも、書籍やインターネットによって情報を得た方がバランスのとれた判断力が身につく。
勉強の基本は平凡です。読書をしっかりしていることが第一で、それ以外のさまざまに目先の変わったやり方は、すべて、半分遊びのようなものです。
新聞を読むことは、決してマイナスにはなりませんし、真面目に読めば、説明文の面白い記事がかなりあります。しかし、それで読書のかわりになると考えたり、国語の勉強にプラスになると考えたりすれば、それはやはり過大評価ではないかと思います。
まず地道に本を読むという時間をしっかり確保していくことが大事で、読書さえしていれば、ほかのことはしてもしなくてもどちらでもいいのです。
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