言葉の豊富さと、比喩の足の豊富さは、どのようにして育つのでしょうか。
言葉自体は、主に、その言葉を経験することによって身につきます。例えば、ヘレン・ケラーが水を触って「水」という言葉を経験したような学び方です。
しかし、経験と直接には結びつかない抽象的な言葉や、言葉の持つ比喩の足は、主にその言葉が含まれる文章によって身につきます。例えば、「水清ければ魚棲まず」「水は方円の器に従う」「君子の交わりは水の如し」などというときの水は、水そのものの経験よりも主に文章の中で与えられた意味によって把握される水です。
ある言葉から連想する比喩の足は、その言葉を単に実生活で経験するだけではなく、その言葉を文章の中で経験することによって身につきます。ところが、その文章の中での経験の仕方は、単に一回読んだり聞いたりして理解するだけでは十分ではなく、同じ言葉を同じ状況で同じように繰り返し読んだり聞いたりする中で育っていきます。
したがって、幼児期の学習の中心は、親が面白い昔話などを同じように何度も繰り返し楽しく語り聞かせてあげるようなことになります。この同じ文章の語り聞かせや読み聞かせによって、子供の言葉感覚が育っていきます。この時期の言葉の感覚を絶対語感と言ってもいいと思います。
しかし、ここで大事なことは、幼児に対する語り聞かせや読み聞かせを、テレビやCDなどの機械的なもので行わないということです。幼児がその機械を自分でつけたり消したりできるのでない限り、機械による朗読には問題があります。
親が子供に語り聞かせをする場合、子供がその話に飽きてくれば、その飽きた感覚が親にも伝わり、親も自然に語り聞かせに飽きてきます。人間には、感情に同調できる感覚があるからです。
ところが、機械は、子供がどう思おうとかまわずに機械的に朗読を続けます。そのために、子供は、言葉を身につけると同時に、言葉というものを無感情に受け入れるという感覚も身につけてしまいます。人間の絶対感覚を身につける幼児期は、できるだけ人間的に接することが大事なのです。
幼児期の言語学習が語り聞かせや読み聞かせだとすると、小学校低学年のころは、読み聞かせや読書になります。子供が興味を持てるもので、その子にとって新しい語彙がある程度含まれていて、文章ができるだけ構造的になっている本を繰り返し黙読したり暗唱したりするということが言語力をつける方法となります。
小学校高学年から中学生、高校生にかけては、抽象度の高い言葉自体を増やす必要があります。これは問題集読書の復読によって身につけることができます。
いずれの場合も大事なことは、同じ言葉を同じ文章の中で繰り返し読んだり聞いたりするということです。(おわり)
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あらゆる事物は、現象的には単なる物でしかありませんが、それが生物の意識によって認識されるとき、比喩の足を持ちます。その比喩の足の多様さが生物の賢さです。
狼王ロボは、鉄の匂いを、自身の何度かの経験から「罠」の可能性として連想する比喩の足を持っていました。だから、普通の狼が、同じように鉄の匂いを認識しながら罠につかまってしまうところを、ロボは何度もその罠を避けることができました。
人間の場合も、数の計算に慣れてくると、たとえば、5という数字を、単にリンゴが5個というような意味の5ではなく、2+3としての5、1+4としての6、10/2としての5のように、さまざまな比喩の連想の中でとらえることができます。これが、数を認識する力です。
図形の問題も同様で、問題を解いているうちに、次第に有効な補助線の連想ができるようになります。図形の問題が苦手なうちは、図形は単にその図形でしかありませんが、連想の足が増えてくると、ひとつの図形がいろいろな構造の中で読み取れるようになります。
音の認識も似ています。ほとんどの人にとって、音は単にその音でしかありませんが、音の絶対的な認識ができる人にとっては、音はすべての音の中のある絶対的な位置を持った音としてとらえることができます。
同様なことは、たぶん、犬にとっての嗅覚や、イルカにとっての超音波の感覚についても言えるのでしょう。その意味で、犬は匂いに関しては人間よりも賢く、イルカは超音波については人間より賢い、と言うこともできます。
しかし、事物の認識の適用範囲が最も広いのは言語です。世界には、匂いや超音波では説明できない現象がたくさんあります。例えば、夕焼けの赤い色は、犬にとってはある種の匂いを伴っているかもしれませんが、あまり有効な認識ではないでしょう。しかし、人間は、その夕焼けの赤さを見て、「明日は晴れらしい」という判断を下すことができます。
言語とは別の切り口からの有効な認識には、数字や図形による認識もあります。これが、数学をはじめとする自然科学がひとつの学問分野になっている理由です。しかし、ほとんどの人の日常生活と、ほとんどの学問分野の基礎において、最も広い適用範囲を持っているのが言語による認識の力です。
この言語による認識力の本質は、世界のさまざまな現象に対応する言葉の豊富さであるとともに、その個々の言葉の持つ比喩の足の豊富さでもあるのです。
では、この言葉の豊富さと、比喩の足の豊富さは、どのようにして育つのでしょうか。(つづく)
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人間の学力には、言葉を読み取る力のほかに、数を読み取る力、図形を読み取る力などもあります。
言語を読み取る力は、その言葉を単独にその言葉自体の意味としてとらえるようなレベルから、全体との関連や構造の中で多層的にとらえるレベルまで様々な段階があります。そして、この言葉の意味を構造的にとらえる読解力が、学力の基盤になっています。
読解力のある人も、あまりない人も、与えられた言葉を同じように受け取りますが、読解力のない人がその言葉を単純にその言葉だけの意味としてとらえるのに対して、読解力のある人は、その言葉を多様な構造の中でとらえています。
例えば、「桃太郎」の昔話をよく聞かされている子供は、「桃」という言葉を、おじいさんやおばあさんや犬やサルやキジとの薄い関連の中でとらえています。この関連のことを、その言葉が持つ「比喩の足」と呼びます。
「桃太郎」の話を知らない子供にとっては、「桃」は単なる甘くやわらかい果実でしかありませんが、その昔話に親しんでいる子供にとっては、「桃」は、おじいさんやおばあさんという概念とも結びつく、もっと多様な比喩の足を持った言葉なのです。
ある言葉についてその言葉が持つ意味の関連性をたくさん持っていることが、その人の読解力の基礎となります。文章を読み取るときに、その文章を構成している言葉がどれだけ多くの比喩の足を持って読まれているかということが、文章の読み方の構造化の度合いを決めます。
もちろん、この比喩の足には、実際の体験も含まれます。桃を食べたことのある子の方が、桃をまだ食べていない子供よりも、「桃太郎」の話に出てくる桃に親近感を感じるのは当然です。この体験が言葉の意味の核心になります。
しかし、実際の経験には質的な限界があります。桃は、一度食べたら、二度食べても三度食べても、経験の質はそれほど変化しません。ところが、言葉が他の言葉と持つ関連性は、ほとんど限界がありません。
「桃」という言葉は、古事記でイザナギノミコトが追ってくる鬼に対して投げた桃でもあるし、「すももも、ももも、もものうち」という言葉遊びの桃でもあるし、「李下に冠を正さず」の桃でもあるし、徳川家康が健康のためにあえて食べなかったという季節はずれの桃でもあるという、多様な比喩の足を持つことができるのです。(つづく)
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読解力をを考える前に、まず理解力の本質を考える上必要があります。
なぜ理解力が大事かというと、それが学力の基礎になっている最も重要な知力だからです
学力は、学校の成績として現れますが、実はこの成績は本当の知力とは多少異なっています。なぜかというと、ペーパーテストで測れるような成績は、ある程度の訓練によって著しく上昇する面があるからです。
ときどき、何週間で偏差値が上がったというような宣伝を見ますが、そのような単期間で上がる偏差値は、もともと意味がないものです。そこで測定されているものは、成績であって知力ではありません。
知力のある人は、たとえ普段の成績が普通でも、試験前に単期間集中して勉強すると、見る見るうちに成績が上がるという特徴があります。高校3年生で急に成績が上がる子がいるのはこのためです。
小中学生のころは、成績に目を奪われるのではなく、この知力を育てていくことが大切です。
知力には、理解力、創造力、表現力などがありますが、中でも重要なのは理解力です。
この理解力の本質は、物事を構造の中で見る力です。
理解力のない人は、物事を単独に現象として感じとります。理解力のある人は、物事をその外部との関連や構造の中でとらえます。
わかりやすい例で言うと、例えばヤカンというものを見た場合に、小さい子供はそのヤカンををその大きさや質感としてとらえますが、大人はそのヤカンを、直接感じ取れる属性以外に、熱くなる可能性を持ったものとしてもとらえます。そこで、大人は子供に対して、「ヤカンはさわると熱い」ということを事前に説明することができます。大人の方が、小さい子供よりも、ヤカンを世界との関連や構造の中で見ることができるということです。
老人の知恵とは、こういう知力のことです。老人は、学校の勉強はあまりしなかった場合でも、長い人生経験の中で様々な物事を関連の中で見る知恵を身につけています。したがって、学力があるが人生経験の乏しい若者よりも、より的確な物事の理解をすることがあるのです。
この理解力の構造が、言語に適用されたものが読解力です。(つづく)
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