「絶対音感」(最小葉月著・新潮文庫)によると、日本における絶対音感の教育は、園田清秀が昭和6年(1931年)、パリに留学しているときに、幼児期からの練習方法を考えたところから始まります。
清秀は、子供が言葉を自然に習得することから着想を得て、幼児期から繰り返し一定の音を聞かせることによって絶対音感がつくのではないかという仮説を立てました。そして、自分の子供を実験台にして和音を聴かせて答えさせる練習を繰り返しました。
この、和音を聴かせるというところがいちばんの工夫だったようです。音は、他の音との関連によって、座標がよりはっきりと固定するようになからです。
その後発展した日本の絶対音感教育では、幼児期から始めるということと、毎日の練習を行うということ、そして、この和音を聴かせることが重要な柱になっています。また、ただ聴かせるだけではなく、ある一つの和音が定着してから、それに類似した次の和音に進むという方法論も必要なようです。
この絶対音感の教育から、絶対語感についてのいくつかのヒントが考えられます。
第一は、絶対感覚には、幼児期からの学習が必要だということです。絶対語感の場合は、3歳から5歳の時期の語り聞かせ、6歳から8歳の時期の暗唱や読書という方法になると思います。
第二に、絶対感覚の取得には、毎日の学習が大事だということです。幼児期は、自分の周囲の環境を丸ごと世界として受け取ることができます。世界というものは毎日休みなく存在するものですから、週に何回か学習するということでは、それは世界にはなりません。毎日やることによって、初めて定着が容易になるのです。
第三に、音楽における和音と同じものは、言葉における文型だと考えられます。音も、言葉も、単音や単語で認識されるだけでは不十分です。他の音や他の言葉との組み合わせの中で認識されることによって初めて確実な座標を持つようになります。
幼児は、いろいろな語りかけをされることによって、文の基本的な形を身につけます。その文型の身体化によって、ほかの人から聞いた文を理解したたり、その文を自分で反復したりできるようになります。単語ではなく、文を理解するということが重要です。
第四に、文の理解力を高めるためには、短い単純な文だけではなく、ある程度の複雑さを持った長い文を聴かせる必要があるということです。例えば、幼児にあいさつするときも、「おはよう、けんたろうちゃん」で終わるのではなく、「おはよう、けんたろうちゃん。今日は朝からさわやかな天気で、気持ちがいいね」というように、ひとこと余分に話すということです。しかし、この場合も、やりすぎには弊害があるので、ほどほどにということが大事です。
第五に、その長い文型のより発展したものがひとまとまりの文章だということです。幼児は、周囲の大人から話しかけられることによって、自然にその国の言語を身につけていきます。しかしさらに、同じ文章を繰り返し聴かされることによって、言葉を理解する力を身につけるだけではなく、世界を認識する方法を身につけていくのです。
絶対語感とは、単語や文を理解するだけの力ではなく、文章を丸ごと理解する力だと考えることができます。
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幼児期に豊富な言語環境を与えるという場合の豊富さとは、同じ文章を繰り返し聞くという意味の豊富さです。しかし、これをテープやCDで繰り返し同じ物語を幼児に聞かせるようにしたらどうなるでしょうか。
機械による繰り返しの言語環境によって生まれた絶対言語感覚は、知的な面としては確かにすぐれたものになるでしょう。例えば、聞いたことをすぐに覚えてしまい、それを同じように再現できるというような能力です。こういう能力があれば、勉強は楽にできるようになります。しかし、そのために、言葉を楽しんだり、言葉で癒されたりするという人間的な面が逆に阻害されるようになる可能性があります。
ところで、日本には、「三つ子の魂百まで」「習い事は六歳から」という二通りの幼児教育に関する言葉があります。絶対音感の形成が6歳以前、日本語脳の形成が6歳以降ということから考えると、どうやら3-5歳の時期の人間の成長と、6-8歳の時期の成長とは、質的な差があるようです。
しかし、いずれにしても、幼児期という可塑性の高い時期には、特定のことをやりすぎないということが大事です。小さいころにある特定の分野で優秀になりすぎると、成長してから幸福な人生を歩む上でかえって困難を感じることが多くなるようです。
そのためにも、人間の教育は、他人や機械に任せるのではなく、その子供に最も密着した親が自身の身体を使って行うことが大事なのだと思います。(おわり)
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読み聞かせや語り聞かせが親にとって苦痛なのは、そこに創造性がないからです。
子供に絵本を読んで聞かせるということは、大人にとっては何の難しさもない、誰にでもできる退屈なことです。そして、読み聞かせを始める前からそういうことがあらかじめわかっているがゆえに、大人は読み聞かせというものに意欲が持てないのです。易しすぎてやる気になれないのが、大人にとって読み聞かせです。
しかし、幼児は、その読み聞かせの反復を、自分の知的能力の発達のために何よりも求めています。
そこで考えられのは、その読み聞かせの物語を親が暗唱してしまうという方法です。
言葉の森の暗唱自習の方法であれば、2、3分の文章は、すぐに暗唱できるようになります。ストーリーのある話であれば、さらに容易で、5分や10分の暗唱による語り聞かせは誰にでもできるようになります。
現代の新しい読み聞かせは、親が持っている幾つもの暗唱物語のレパートリーの中から、子供が希望するものをその時々の雰囲気に応じて聞かせてあげるというやり方です。
親はその物語を暗唱しているので、その日の気分によって登場人物を微妙に変化させることができます。例えば、「桃太郎」の話で、おじいさんとおばあさんを実際の田舎のおじいちゃんとおばあちゃんにしたり、主人公の桃太郎を聞いているその子供にしたり、サルや犬やキジを近所の友達にしたり、というようなことが自由にできます。そういう創造的な工夫ができると、読み聞かせは急に楽しいものになってきます。
人間はもともと、創造的でありさえすれば、話すことが大好きな動物です。それは、長電話がいつまでも終わらないことを考えるとよくわかります。
母親は楽しくおしゃべりをする感覚で物語を聞かせてあげ、子供はその話を聞いて絶対語感を身につけるということが、これからの幼児教育の新しい姿になると思います。
しかし、ここで大事なことは、どんなにいい方法であっても決してやりすぎないことです。(つづく)
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言葉は、実体と結びつくものだと思われています。例えば、「おじいさん」という言葉は、おじいさんという実体に対応しています。
では、「おじいさんは山へ柴刈りに行きました」は、何に対応しているかというと、それは、おじいさんが山へ柴刈りに行ったという事実に対応しています。あたりまえですが。
では、そのあとさらに続けて、おばあさんが川へ洗濯に行ったり、桃太郎が桃から産まれたり、犬とサルとキジが登場したりするという一連の物語は何に対応しているかというと、世界というものの認識の仕方に対応しているのです。
一方、人間は、世界に対して、言語として対応する以前に、行動として対応しています。
水は、「水」という言葉とも結びついていますが、それ以上に、「飲む」という形で飲む行動と結びつき、「泳ぐ」という形で泳ぐ行動に結びついています。
人間がこのような行動によって手に入れるものは成果です。人間は、「飲む」という行動によって、のどの渇きをいやすという成果を得ます。「泳ぐ」という行動によって、無事に向こう岸までたどり着くという成果を得ます。
しかし、人間はそこで行動によって成果を得ただけでは満足しません。よりよい成果を得るために、その行動を学習しようとします。そのときの学習の方法は反復です。
例えば、泳ぐ場合であれば、何度も同じように泳いでみるという繰り返しで、次第に泳ぐ行動に熟達していきます。
行動における反復は、行動の身体化という学習の方法です。小さい子供は、同じ行動を繰り返すことによって、行動を身体に刻みこんでいるのです。
その行動と同じように、人間は言葉によって世界を認識するときに、認識の成果としての理解を得るだけでは満足しません。より素早くより的確な認識ができるようになるために、認識の仕方を学習しようとします。その学習の方法が、同じ物語を繰り返し聞くことです。
小さい子供が同じ話を繰り返し聞きたがるのは、その話に盛り込まれている世界認識の方法を、その子供が身体化しようとしているからです。
親は大人の感覚で、物語は一度読んでそのストーリーを理解したり味わったりすればそれでよいと考えがちです。しかし、子供が求めているものは、理解でも味わいでもなく身体化なのです。3歳から5歳のころの子供が同じ話を繰り返し聞きたがるとき、親はそのつど同じ話を同じようにしてあげるといいのです。
しかし、同じ話を繰り返すというのは、大人にとってはかなり退屈なことです。(つづく)
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▽1月からの課題フォルダの表紙です。
12月15日(水)の早朝から、新学期の教材印刷を開始しました。
本日、17日(金)の夕方、全生徒の発送が終了しました。
今学期の教材の主な変更点は、次のとおりです。
1、中1のデータ集を5ページに増やしました。
これまでのデータ集は、古いデータもあったので、今度は新しいデータを活用していかれるといいと思います。
2、読解マラソン集はこれまで横書きでしたが、これを縦書きにしました。
しかし、表紙が横開き用になっているので、ページが複数にわたる場合、縦書きで左から右のページへ読み進むという形になるところもできてしまいました。
次学期からは、表紙も縦開き用にしていく予定です。
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子供が3、4歳の小さいころは、よく親に同じ本の読み聞かせをねだることがあります。飽きずに同じ本や同じ話を何度も聞きたがるのです。
大人は理解の世界に生きているので、同じ本を読むよりも別の新しい本を読んだ方が意味があるように思いがちです。しかし、同じものを繰り返すというのは、実は大人の理解の世界を超えた何かがあるのです。
その何かとは、知的な理解ではなく、感覚的な一体化です。
子供に限らず大人になってからでも、例えばいい音楽を聴いたときはそれを何度も繰り返し聴きたいと思います。1回聴いたからそれでいいとは思いません。何度も同じ音楽を聴いて味わいます。それは、その音楽が、理解の対象ではなく、一体化の対象となっているからです。
この一体化の感覚を身につける能力が最も成長するのが、3歳から5歳ごろです。
0歳から2歳のころは、まだ生きることに精一杯の時期です。3歳から5歳は、生き延びることが一段落して、自分が何になるかを決める時期です。この時期に、人間は、狼になるか人間になるかに分かれます。
この時期に繰り返し与えられた経験が、その子の絶対的な感覚を形成します。つまり、世界の座標軸を作る時期が、この3歳から5歳にかけてなのです。
3歳から5歳は、知的に何かを身につける時期ではなく、感覚的に身につける時期です。このころ知的に学んだことは、そのときは身についたように見えても、年齢が上がると消えてしまいます。例えば、6歳以前に海外に行き外国語を自由に聞いたり話したりできるようになっても、6歳以降に日本に戻ると忘れてしまうのはこのためです。
一方、絶対音感は、6歳以前に身につくと言われています。この時期は、音の世界が自分の外にある世界として認識されるのでなく、自分の身体の一部として感覚的に受け取られる時期です。しかし、それはただいろいろな音を聴くからではなく、一定の流れの音、つまりある音楽を繰り返し聴くからです。繰り返された世界が身体化するのです。
絶対語感というのも、やはりこの3歳から5歳の時期に身につきます。絶対語感というのは、言葉を知的に理解する能力ではなく、言葉を自分の身体のひとつとして感じる感覚です。
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我が家の2人の子供たちも、3~5歳の頃、同じ本の読み聞かせを繰り返しねだりました。 就寝前、5~6冊読んであげていましたが、読んでいるうちにこちらが眠くなってしまったりして・・・。最後に読んだ『ロボットカミイ』など、長めの絵本を「もう一回!」などとせがまれたときは、睡魔との闘いでした。
高校生と小学生になった子供たちは、今も読書が好きですが、2人の本の好み、国語の基礎力の違いに、あの頃の読み聞かせの内容が影響しているのだと思うと、納得できるものがあります。もっと早く知っていたら!!!ちょっぴり残念ですが、3~5歳のお子さんのいる友人たちにこの記事をお見せようと思います。
コメントありがとうございます。
小さい子供が、なぜあんなに同じ本を何度も繰り返して読みたがり聞きたがるのか、昔は不思議に思っていました。しかし、それは大人が普通に読むような理解のための読み方ではなく、言葉を身体化するための読み方聞き方だったのではないかと今は思うようになりました。
と考えると、国語の勉強は生活の中で3~5歳に始まっているのだと思います。今度、通学教室でそういう勉強を始めたいと思っています。
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昔は、学習塾などいうものは、ほとんどありませんでした。私が中学生のころ、学校の近くに一ヶ所だけあった塾は、私立受けるための特別な勉強するごく少数の生徒か、学校の授業についていけない生徒を教えるところというイメージでした。
また、当時のほとんどの親は、受験勉強のノウハウなどは持っていなかったので、子供たちはみんな自分なりの工夫で勉強したものです。
そのころの情報のほとんどは、「○○コース」や「○○時代」という学研か旺文社の学年別の月刊誌でしたから、今考えると、理念だけが先行してかなり能率の悪い勉強をしていたように思います。
能率の悪さの一つの例が、数学の難問にぶつかったときです。解き方を何時間も考えて、その1問で1日が終わるようなこともよくありました。
和田田秀樹さんの提唱する方法では、そういうときはすぐに解法を見て解き方を理解するということですから、そういうノウハウをあらかじめ知っていれば、かなり能率のよい勉強ができたのではないかと思います。
そのかわり、そういう無駄な回り道をしてきたせいか、自分が20代になると、勉強法も自分なりに工夫できるようになりました。
ところが、現代は、子供たちが逆に塾や予備校で要領のいい勉強の仕方を教えられすぎているために、自分で工夫する勉強の仕方を身につけていないように思えます。
独学の方法ということですぐに思いつくのは、シュリーマンの「古代への情熱」でしょう。これは、語学の勉強法としては、古典とも言えるものです。しかし、方法がシンプルでありすぎるためか、実行できる人はあまりいないようです。
日本では、本多静六さんの著書が、勉強法だけでなく処世法一般も説いているという点で出色です。
受験勉強法に関しては、高校生では和田秀樹さんの本、中学生では内藤勝之さんの本がおすすめです。
このほかにも、書店の参考書のコーナーに行けば、さまざまな著者の受験勉強法の本があります。
言葉の森で高校3年生になる生徒には、毎年春休み前に、
(1)勉強法の本を10冊ぐらい読むこと、
(2)過去問を(答えを書き込みながらでもいいから)ひととおりやること、
(3)志望校の合格体験記などがあれば読んで参考書や問題集選びの参考にすること、
(4)1年間取り組むための問題集や参考書を丸一日じっくり時間をかけて決めること、
と勧めていますが、実行している人はまだあまりいないようです。何度も言っているはずなのに、毎年秋になってから、「そろそろ過去門に取り組もうかと思っているんですが」という生徒がいます。
大抵の高校3年生は、先輩や友人や塾や予備校の先生のクチコミという狭いノウハウを聞きかじるだけで、本を通して幅広く勉強法を学ぶという姿勢に欠けています。
受験勉強というのは、ある意味で単純ですから、そのように戦略がなくただがんばるだけの方法でも、そこそこの点数で合格することもありますが、本当は、もっと大きな戦略を先に考えてから取り組むものなのです。
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子供に読書をさせる方法は簡単です。本を読めば力がついて、さらに読めるようになる、という循環を利用するだけです。だから、最初のきっかけは、まず読むことです。
その際に、その子にとって難しすぎない本で、興味がもてる本を選ぶという配慮は大事ですが、ちょっと難しいかなと思う程度のレベルの本でももちろん構いません。
もし、ある本を読み始めてから、つまらなかったり難しかったりして読者が進まなくなった場合は、その本と並行して別の本を読んでいくようにします。そのときに、読み終えたところまで付箋を貼っておくと、数冊の本でも並行して読んでいくことができます。
言葉の森の通学教室の子供たちに、今読んでいる本を、毎週の授業のときに持ってくるようにと言っています。
最初は、「読んでいない」「本がない」などと言ってきた子もいましたが、次第に、みんな読みかけの本を持ってくるようになりました。
毎日10ページ以上は読んで、読んだところまで付箋を貼っておくようにと言っているので、読み進み具合もわかります。
これまで、本を読む習慣のあまりなかった子もいます。そういう子は、本当に毎日10ページをやっと読んでくる感じです。しかし、このように、わずかのページでも、やさしい本でも、毎日読んでいれば、必ず読む力がつき読書の面白さに目覚めていきます。
よく、保護者の方から、「子供に本を読むようにさせたいが」という相談を受けることがあります。方法は簡単です。ただ読ませるだけです。読む力がつくから読むようになるのではなく、読むから読む力がつき、読むことが面白くなってくるのです。
たまに、「本を読んでいる暇があったら勉強をさせる」という方針の家庭もあるようです。受験の直前の1年間は、確かに読書量は減らさざるを得ませんが、それ以外のすべての学年で、読書は勉強よりも優先して取り組むものです。
頭のよい悪いは生まれつきではありません。言語を駆使する力に応じて頭がよくなります。読書によって頭がよくなると、なぜか作文も上手になります。
しかし、頭がよくなることと成績がよくなることとは多少違います。成績は、勉強をすることによってよくなるからです。ところが、勉強を始めるとぐんぐん成績がよくなる子は、その土台に、読書によって育てた頭のよさがあるのです。
普段は、読書と作文によって本当の学力の土台をつけておき、受験に取り組むときには、その学力の土台の上に受験に合わせた勉強によって急速に成績を上げる、というのがメリハリのある勉強の仕方です。
そんなうまい話があるのかと思う人もいるでしょうが、実はそういう例はかなり多いのです。
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