作文における自己との対話とは何でしょうか。
作文はひとりで書く作業です。だから、どういう方向に話が展開するかわかりません。お喋りの場合は、相手との掛け合いで話が進んでいきますが、作文はそれを自分ひとりの力で進めていかなければなりません。
このときに必要なのは、全体のあらすじです。自分が書こうとしているものに熟知している場合は、文章は滞りなく進んでいきます。例えば、経験した事実をそのまま書くような文章の場合です。
しかし、自分の書こうとしているものに未確定の部分がある場合は、文章は考えながら書いていくことになります。この考えながら書いていくときに頼りになるのが、自分が直前に書いた文との対話です。多くの場合、文章を書く人は、全体のおおまかなあらすじを頭に入れながら、個々の文は、その直前に書いた文と関連させながら書いていきます。
この自分の書いた直前の文との対話を、もっとすっきりと対話中心にしたものが構成図を書くという方法です。自分が書こうと思うものに未確定の要素が多ければ多いほど、構成図であらかじめ考えを深めるという対話が必要になってくるのです。
しかし、対話の土台になっているものは予備知識です。知識の少ない人どうしがいくら話を交わしても、そこから新しいものはなかなか生まれないでしょう。読む力をつけて知識の土台を広げていくことが、作文を書くための重要な前提であることは言うまでもありません。
さて、国語力のセルフ・ラーニングということで、語り聞かせ・読み聞かせ、音読・暗唱、読書・問題集読書、作文・構成図などがあると書きました。
この中で最も大事なものは、幼児期における語り聞かせ、読み聞かせです。
子供がその国の言語を自然に覚えて使えるようになるのは、親が子供に語りかけることを繰り返すからです。この語りかけの反復によって、子供は、世界を文として理解する能力を絶対感覚として身につけます。
幼児期に身につける絶対感覚には、このほかに、音楽の感覚、運動の感覚、抽象的な概念としての数の感覚、図の感覚などがありますが、最も重要なものは言語感覚です。それは、人間が生活する世界の大部分は、言語による意味づけが行われているからです。
周囲の大人による語りかけで、幼児は文を身につけます。ここで大事なのは、個々の単語を身につけるよりも先に文を身につけるということです。なぜかというと、単語は、ある実体を言語で表すという抽象的なものですが、文は、それによって何らかの意図ある行動や結果が付随する人間的なものだからです。
ある語りかけのあとに、ある行動が続くというのが、人間と人間の関係です。機械に物を覚えさせるには、例えば、リンゴの実体を見せて、リンゴという言葉に対応させるようにすればいいのですが(光学文字読み取り装置のような感じで)、人間はそういうわけにはいきません。「リンゴ、食べる?」(あなたはリンゴを食べますか)という文のあとに、リンゴをもらい、それを食べて味わうという身体的な結果が付随することによって、子供は、「リンゴを食べる」という文を身につける中で、「リンゴ」と「食べる」という単語も身につけます。
このように考えると、人間の語りかけではない、機械の語りかけ、例えばテレビをつけっぱなしにして幼児に聞かせることが大きな弊害を持つことがわかります。(つづく)
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作文を書くというのは、勉強の中で最も苦しい勉強だと思います。何が苦しいかというと、始めるときのエネルギーがほかの勉強に比べると何倍も必要だからです。特に、学年が上がって、考える力がついてくると、作文を書くことは更に苦しい勉強になります。
夏休みの宿題で、感想文を書く課題が最後まで残ってしまうことが多いのはこのためです。文章を書くというのは、なかなか気軽に始められないのです。
特に、学年が小5から中2のころにかけては、考える力がついてくるにもかかわらず、その考えに伴う語彙力がまだ不十分なので、書くことがいっそう苦痛になるようです。小4までは楽しい生活作文、中3からは考える小論文ということで、それなりに苦しい勉強ではあっても作文を書くことは軌道に乗りますが、ちょうどその中間の時期がいちばん大変なのです。
この作文を書く勉強を支えるのも、コミュニケーションです。
第一は、作文を書く前の取材です。そのテーマに沿った話を自分の身近な家族から聞くことによって、作文の材料が増えます。特に、小学校高学年のころは、課題に合った自分の体験実例が見つけにくい時期です。
例えば、小学校高学年になると、国語の問題に日本文化の特徴というようなテーマがよく出てきます。子供は、その文章を読んで内容を理解することができますが、その内容の裏づけとなるような経験や知識はまだありません。そういうときに、両親がそのテーマに関連した自身の経験や知識を話してあげると、それが擬似的に自分の経験や知識のように使えるようになるのです。
この取材の大切さは、小学校低中学年でも同じです。例えば、小学校中学年の身近な課題「がんばったこと」「うれしかったこと」なども、子供が自分の体験で書くだけでは、そこに深みは出てきません。単純に、がんばったことやうれしかったことを書くだけですから、どの子も似たような話になります。しかし、ここで、両親や祖父母に取材をすると、もっと味のある話を聞くことができます。そして、子供にとっては、本で読んだりテレビで見たりしたことよりも、自分の身近な家族から聞いた話の方が、子供自身の擬似的な体験として消化しやすいのです。
第二は、作文を書いたあとのコミュニケーションです。作文を書くのが好きな子と嫌いな子の差は、書いたあとの評価の差によるものです。子供の書いた文章には、必ずどこかしら欠陥があります。内容がものたりなかったり、誤字があったり、表現が不十分だったりするところがあります。
作文を書く方は、自分なりに完成したものを書いているつもりですが、それを読んだ大人が、ここもおかしい、あそこもおかしい、と欠点を指摘し始めると、子供はその後書く意欲を持てなくなります。これは、少し想像してみればわかります。例えば、絵が苦手な人に、「さあ、自由にかいてごらん。かいたあとたくさん欠点を教えてあげるから」と言われたら、だれも絵をかく気にはなれないでしょう。歌が苦手な人に、「さあ、自由に歌っていいよ。そのあとどこが下手なのか教えてあげるから」という場合も同じです。そういう欠点を喜ぶのは、ある程度自信がついて、自分が前向きに努力したいと思っているときだけです。しかし、そういう向上心がある人でさえ、欠点ばかりを指摘していると、どんどんできなくなっていくのです。
作文を書いたあとのコミュニケーションは、書いた内容について楽しく話すことです。書き方について注意するのではなく、書かれた内容について話題にしてあげることが、子供の書く意欲に結びつきます。
作文を書いたあとのコミュニケーションには、作文の発表会や文集のようなものも含まれます。発表会や文集も、それぞれの作文のよいところを見ることが大事で、他の作品との比較をすることは最小限にとどめておくべきです。
第三は、作文を書く前の自分自身との対話です。
「ミラーニューロンの発見」という本によると、だれでも、他人とおしゃべりをする方が、自分ひとりで講演をしたり、他人の講演を聞くことよりもずっと楽にできるそうです。これは、人間の脳に、他人を模倣し共感する仕組みがあるからです。(つづく)
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国語のセルフ・ラーニングは、経験と知識の裾野を広げる学習です。高学年になって国語の問題の出来が悪くなったときに、その前の学年に戻って国語の問題を解いても力はつきません。その高学年に応じた知識と経験の裾野を広げることが力をつける方法になるのです。(前回までの記事)
したがって、実際に経験する、話を聞く、本を読む、知識を得るという裾野を広げる学習が、国語におけるセルフ・ラーニングになります。
しかし、それは単に漢字や単語や熟語を身につけるというレベルではなく、文章によって表されたその状況の、感じ方、考え方、受け取り方、認識の仕方、つまり状況理解の仕方を身につけるというような裾野の広げ方なのです。つまり、国語的な理解の裾野とは、単語や熟語などの裾野ではなく、より長い文脈を持った裾野なのです。
国語力を育てるセレフ・ラーニングは、状況理解の仕方の裾野を広げることで、その最も自然な形は、年齢が上がることによって知識と経験が増えるということです。
しかし、算数のセルフ・ラーニングが、学んだことによって理解が進み、わからなかったことがわかるようになるという直接的な喜びがあるのに対して、国語におけるセルフラーニングは、裾野を広げたことが理解に直接結びつくという関係にないために、学ぶこと自体に喜びを見いだしにくいという特徴があります。
そこで、国語の裾野を広げるセルフ・ラーニングの学習には、そのセルフ・ラーニングを支えるものとしてコミュニケーションが必要になってくるのです。
国語におけるセルフ・ラーニングにどのようなものがあるかというと、第一に、幼児期における語り聞かせや読み聞かせです。
第二に、学齢期における音読や暗唱という繰り返し読む学習です。
第三に、読書や問題集読書のような幅広く読む学習です。
第四に、作文という書く学習です。
子供が、語り聞かせや読み聞かせを喜ぶのは、そこに親とのコミュニケーションがあるからです。だから、語り聞かせや読み聞かせは、楽しい雰囲気で進めることが大事です。
音読や暗唱は、毎日の習慣になれば自然にできますが、それでも同じことを続けるというのは子供にとっては退屈なことです。そこで、その音読や暗唱を聞いて励ましてあげる身近な人が必要になります。これが、コミュニケーションです。
読書は、読む力のないうちは、読んでいることを励ますことが必要になりますが、ある程度の読書力がついてくると、子供が自分で進んで読むようになります。しかし、問題集読書のような難しい文章の読書は、やはり身近な人がその内容を聞いて励ましてあげることが必要になります。
そして、セルフ・ラーニングが最も難しいのが、作文を書く練習です。(つづく)
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「あのブドウは、すっぱい」という文を理解するためには、何が必要でしょうか。この文を理解するためには、知識と経験の裾野が必要です。ブドウとはどういうもので、食べるとはどういうことで、すっぱいとはどういうことかという経験や知識がなければなりません。
しかし、たとえ一部に知らない知識があったとしても、それ以外の経験や知識の裾野が豊富であれば、内容を類推することはできます。例えば、ブドウという既知の単語ではなく、自分の知らないフルフルという単語が使われていて、「あのフルフルは、すっぱい」という文を見たとしても、自分のこれまでの経験から、「フルフルとはたぶん食べ物のことで、すっぱいときもあるが、本来すっぱくない状態で食べるものだろう」と見当をつけることができます。
文を理解するとは、自分の持っている知識と経験の裾野の広さに応じて、より高い山頂をきわめるということです。裾野の広がり具合によって理解の度合いが規定されるということは、同じ理解でも、浅い理解と深い理解、ある方向からの理解と別の方向からの理解があるということで、これが国語の理解の特徴です。
これに対して、算数数学の理解は、論理のつながりに基づく理解です。このため、算数数学は、わからなくなったら前の単元に戻り、論理のつながりを回復することによって理解するという方法をとります。
その論理のつながりの最初の出発点は、物理的世界に対する身体的感覚です。例えば、3つのリンゴと2つのミカンを合わせると5つの果物になるという足し算の場合、3つのリンゴと2つのミカンは、物理世界に属しています。同様に、長さや角度や時間や形という物理的世界も、算数の論理の出発点になっています。
裾野によって理解する国語と、論理によって理解する算数数学の違いは、もっと複雑な文を考えてみるとよくわかります。
例えば、「民主主義は教科書に書かれていない」という文です。この場合、知識や経験の裾野として、民主主義という言葉、教科書という言葉、書かれるという言葉を知っていることは当然必要ですが、それとともに、民主主義というものが自主性、自立性、創造性に結びついた概念で、教科書というものが他者依存、ありきたり、お仕着せなどに結びついた概念だという理解がなければ、この「民主主義は教科書に書かれていない」という文を正しく理解することにはなりません。
国語力における理解は、論理のつながりを回復するという理解の仕方ではなく、裾野を広げることによってより高い山頂をきわめるという理解の仕方です。ここから、国語のセルフ・ラーニングの特徴が出てきます。
国語のセルフ・ラーニングは、経験と知識の裾野を広げる学習です。高学年になって国語の問題の出来が悪くなったときに、その前の学年に戻って国語の問題を解いても力はつきません。その高学年に応じた知識と経験の裾野を広げることが力をつける方法になるのです。(つづく)
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「絶対音感」(最小葉月著・新潮文庫)によると、日本における絶対音感の教育は、園田清秀が昭和6年(1931年)、パリに留学しているときに、幼児期からの練習方法を考えたところから始まります。
清秀は、子供が言葉を自然に習得することから着想を得て、幼児期から繰り返し一定の音を聞かせることによって絶対音感がつくのではないかという仮説を立てました。そして、自分の子供を実験台にして和音を聴かせて答えさせる練習を繰り返しました。
この、和音を聴かせるというところがいちばんの工夫だったようです。音は、他の音との関連によって、座標がよりはっきりと固定するようになからです。
その後発展した日本の絶対音感教育では、幼児期から始めるということと、毎日の練習を行うということ、そして、この和音を聴かせることが重要な柱になっています。また、ただ聴かせるだけではなく、ある一つの和音が定着してから、それに類似した次の和音に進むという方法論も必要なようです。
この絶対音感の教育から、絶対語感についてのいくつかのヒントが考えられます。
第一は、絶対感覚には、幼児期からの学習が必要だということです。絶対語感の場合は、3歳から5歳の時期の語り聞かせ、6歳から8歳の時期の暗唱や読書という方法になると思います。
第二に、絶対感覚の取得には、毎日の学習が大事だということです。幼児期は、自分の周囲の環境を丸ごと世界として受け取ることができます。世界というものは毎日休みなく存在するものですから、週に何回か学習するということでは、それは世界にはなりません。毎日やることによって、初めて定着が容易になるのです。
第三に、音楽における和音と同じものは、言葉における文型だと考えられます。音も、言葉も、単音や単語で認識されるだけでは不十分です。他の音や他の言葉との組み合わせの中で認識されることによって初めて確実な座標を持つようになります。
幼児は、いろいろな語りかけをされることによって、文の基本的な形を身につけます。その文型の身体化によって、ほかの人から聞いた文を理解したたり、その文を自分で反復したりできるようになります。単語ではなく、文を理解するということが重要です。
第四に、文の理解力を高めるためには、短い単純な文だけではなく、ある程度の複雑さを持った長い文を聴かせる必要があるということです。例えば、幼児にあいさつするときも、「おはよう、けんたろうちゃん」で終わるのではなく、「おはよう、けんたろうちゃん。今日は朝からさわやかな天気で、気持ちがいいね」というように、ひとこと余分に話すということです。しかし、この場合も、やりすぎには弊害があるので、ほどほどにということが大事です。
第五に、その長い文型のより発展したものがひとまとまりの文章だということです。幼児は、周囲の大人から話しかけられることによって、自然にその国の言語を身につけていきます。しかしさらに、同じ文章を繰り返し聴かされることによって、言葉を理解する力を身につけるだけではなく、世界を認識する方法を身につけていくのです。
絶対語感とは、単語や文を理解するだけの力ではなく、文章を丸ごと理解する力だと考えることができます。
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幼児期に豊富な言語環境を与えるという場合の豊富さとは、同じ文章を繰り返し聞くという意味の豊富さです。しかし、これをテープやCDで繰り返し同じ物語を幼児に聞かせるようにしたらどうなるでしょうか。
機械による繰り返しの言語環境によって生まれた絶対言語感覚は、知的な面としては確かにすぐれたものになるでしょう。例えば、聞いたことをすぐに覚えてしまい、それを同じように再現できるというような能力です。こういう能力があれば、勉強は楽にできるようになります。しかし、そのために、言葉を楽しんだり、言葉で癒されたりするという人間的な面が逆に阻害されるようになる可能性があります。
ところで、日本には、「三つ子の魂百まで」「習い事は六歳から」という二通りの幼児教育に関する言葉があります。絶対音感の形成が6歳以前、日本語脳の形成が6歳以降ということから考えると、どうやら3-5歳の時期の人間の成長と、6-8歳の時期の成長とは、質的な差があるようです。
しかし、いずれにしても、幼児期という可塑性の高い時期には、特定のことをやりすぎないということが大事です。小さいころにある特定の分野で優秀になりすぎると、成長してから幸福な人生を歩む上でかえって困難を感じることが多くなるようです。
そのためにも、人間の教育は、他人や機械に任せるのではなく、その子供に最も密着した親が自身の身体を使って行うことが大事なのだと思います。(おわり)
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読み聞かせや語り聞かせが親にとって苦痛なのは、そこに創造性がないからです。
子供に絵本を読んで聞かせるということは、大人にとっては何の難しさもない、誰にでもできる退屈なことです。そして、読み聞かせを始める前からそういうことがあらかじめわかっているがゆえに、大人は読み聞かせというものに意欲が持てないのです。易しすぎてやる気になれないのが、大人にとって読み聞かせです。
しかし、幼児は、その読み聞かせの反復を、自分の知的能力の発達のために何よりも求めています。
そこで考えられのは、その読み聞かせの物語を親が暗唱してしまうという方法です。
言葉の森の暗唱自習の方法であれば、2、3分の文章は、すぐに暗唱できるようになります。ストーリーのある話であれば、さらに容易で、5分や10分の暗唱による語り聞かせは誰にでもできるようになります。
現代の新しい読み聞かせは、親が持っている幾つもの暗唱物語のレパートリーの中から、子供が希望するものをその時々の雰囲気に応じて聞かせてあげるというやり方です。
親はその物語を暗唱しているので、その日の気分によって登場人物を微妙に変化させることができます。例えば、「桃太郎」の話で、おじいさんとおばあさんを実際の田舎のおじいちゃんとおばあちゃんにしたり、主人公の桃太郎を聞いているその子供にしたり、サルや犬やキジを近所の友達にしたり、というようなことが自由にできます。そういう創造的な工夫ができると、読み聞かせは急に楽しいものになってきます。
人間はもともと、創造的でありさえすれば、話すことが大好きな動物です。それは、長電話がいつまでも終わらないことを考えるとよくわかります。
母親は楽しくおしゃべりをする感覚で物語を聞かせてあげ、子供はその話を聞いて絶対語感を身につけるということが、これからの幼児教育の新しい姿になると思います。
しかし、ここで大事なことは、どんなにいい方法であっても決してやりすぎないことです。(つづく)
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言葉は、実体と結びつくものだと思われています。例えば、「おじいさん」という言葉は、おじいさんという実体に対応しています。
では、「おじいさんは山へ柴刈りに行きました」は、何に対応しているかというと、それは、おじいさんが山へ柴刈りに行ったという事実に対応しています。あたりまえですが。
では、そのあとさらに続けて、おばあさんが川へ洗濯に行ったり、桃太郎が桃から産まれたり、犬とサルとキジが登場したりするという一連の物語は何に対応しているかというと、世界というものの認識の仕方に対応しているのです。
一方、人間は、世界に対して、言語として対応する以前に、行動として対応しています。
水は、「水」という言葉とも結びついていますが、それ以上に、「飲む」という形で飲む行動と結びつき、「泳ぐ」という形で泳ぐ行動に結びついています。
人間がこのような行動によって手に入れるものは成果です。人間は、「飲む」という行動によって、のどの渇きをいやすという成果を得ます。「泳ぐ」という行動によって、無事に向こう岸までたどり着くという成果を得ます。
しかし、人間はそこで行動によって成果を得ただけでは満足しません。よりよい成果を得るために、その行動を学習しようとします。そのときの学習の方法は反復です。
例えば、泳ぐ場合であれば、何度も同じように泳いでみるという繰り返しで、次第に泳ぐ行動に熟達していきます。
行動における反復は、行動の身体化という学習の方法です。小さい子供は、同じ行動を繰り返すことによって、行動を身体に刻みこんでいるのです。
その行動と同じように、人間は言葉によって世界を認識するときに、認識の成果としての理解を得るだけでは満足しません。より素早くより的確な認識ができるようになるために、認識の仕方を学習しようとします。その学習の方法が、同じ物語を繰り返し聞くことです。
小さい子供が同じ話を繰り返し聞きたがるのは、その話に盛り込まれている世界認識の方法を、その子供が身体化しようとしているからです。
親は大人の感覚で、物語は一度読んでそのストーリーを理解したり味わったりすればそれでよいと考えがちです。しかし、子供が求めているものは、理解でも味わいでもなく身体化なのです。3歳から5歳のころの子供が同じ話を繰り返し聞きたがるとき、親はそのつど同じ話を同じようにしてあげるといいのです。
しかし、同じ話を繰り返すというのは、大人にとってはかなり退屈なことです。(つづく)
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