子供たちの教育でいちばん大事なことは、その子が将来自分の力で勉強を進めていけるように、しっかりとした土台を作っておくことです。それは、子供たちの頭をよくしておくことと言ってもいいと思います。
小学校低中学年のうちは、子供の勉強の成績は、親がさせればすぐによくなるように見えます。実際に、そのころに勉強をさせれば、だれでも成績は上がります。
しかし、そこで成績を上げることにばかり目を奪われるのではなく、将来役立つ頭のよさを作っておくことが大事です。成績と頭のよさは違うのかと言えば、実はそうなのです。特に、低中学年の成績と、その子が中学生、高校生になったときの成績は、かなり違います。
中学生や高校生になると、勉強の量が増えるので、自分の力で勉強できる子はどんどん成績を上げますが、そうでない子は、いくら塾に長時間通っても成績はよくなりません。しかし、かといって、そういう子が塾に通わずに自分で勉強できるかといえば、それもできません。要するに、中学生になるころに、自分で勉強できるぐらいに頭をよくしておけば、あとは高校生になっても、大学生になっても、全部自分の力でやっていけるのです。
では、小学校低中学年のうちに頭をよくするためには、どういう勉強が必要なのでしょうか。
それは、聞くこと、読むこと、対話をすることで、それらの時間を増やしていくことです。もちろん、経験をすることも大事ですが、経験は、だれでもそれほど大差はありません。大きな差があるのは、日本語を読んだり、聞いたり、考えたりする時間なのです。
言葉の森の作文の勉強の特徴は、ここにあります。言葉の森の勉強の中心は作文ですから、もちろん書くことに最も力を入れています。書く力は、現在の日本の子供たちの教育に最も欠けているものだからです。そして、これからの社会では、書く力はますます重要になってくるからです。
しかし、その書く力の土台となっているものは、実は読む力です。作文を教えている教室は、ほかにもいろいろありますが、読む力と組み合わせて書く力を考えているところはあまりありません。
では、言葉の森では、どのようにして、書く力と読む力の勉強を結びつけているのでしょうか。(つづく)
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知のパラダイムとは、何でしょうか。それは考え方の枠組みです。
デカルトによって考え出された、物事を分けて考えるというヨーロッパ文化の枠組みは、その後、ニュートンの力学、ルソーの社会契約論、そして、産業革命の技術などを生み出しました。
ある枠組みを持った文化は、他の弱い枠組みしか持たない文化よりも、強力な影響力を持っています。ヨーロッパが、アジアやアフリカや南アメリカを植民地にできたのは、ヨーロッパ人が優れていたからではなく、ヨーロッパに新しい文化の枠組みが生まれ、それが産業力と軍事力に結びつくことができたからです。
枠組みが力を生み出すということを身近な例でいうと、次のようなことになります。
経営者の2世として仕事をする新入社員は、普通の新入社員に比べて仕事に対する吸収力が違うと言われています。仕事に取り組むうえで何か問題点があっても、それを単なる不平不満としてとらえるのではなく、自分の将来に生かすという観点でとらえることができるからです。能力よりも、枠組みの違いが大きな差を生み出すのです。
同様に、大学で学ぶ学生の場合も、その大学で学んだ知識を自分の国の発展に役立てようと考える途上国の学生と、単にその大学で学んだことを就職に生かそうと考える先進国の学生とでは、学問に対する吸収力が違ってきます。これも、能力ではなく、勉強に対する考え方の違いが大きな差となっている例です。
また、本を読むときでも、自分で買って読む本と、図書館から借りて読む本とでは、読書から得るものの深さが違ってきます。これも、本を読むときの自分の考え方の枠組みが異なっているからです。
以上の三つの例は、単に、目的があるから意欲がわくということなのではありません。目的があるからではなく、ある物事が、大きな枠組みの中で他の物事に媒介されているから、その物事に対する確信が強固になるということです。
同様のことは、宗教や社会主義などの思想についても言えます。単にある知識を持っているというのではなく、全体の枠組みの中に位置づけられた知識を持っているために、その知識に対する確信が強固になり、その結果、その考え方が、他の考え方よりも大きな影響力を持てるようになるということなのです。(つづく)
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これは、本のタイトルです。「子どもの将来は『寝室』で決まる」(篠田有子著 光文社新書)。5000件以上のデータに基づいた学術的な本ですが、内容はわかりやすく書かれています。これから子供を育てる人には必読の書になると思います。
乳幼児期の親子のスキンシップが子供の知力を育てると言われていますが、この本を読むと、それが想像以上にはっきり現れていることがわかります。
くわしくは、本書を読んでいただくことにして、ごく簡単に説明すると、親と子の寝方が子供の成長に大きく影響します。それは、子供時代に限らず大きくなってからも、人間の情緒や知力に影響を及ぼすようです。
図式的に紹介すると、次のようになります。以下は、6ヶ月から3歳ころまでの親子の寝方です。
┏━┳━┳━┓
┃父┃母┃子┃母中心型……◎すくすく成長
┗━┻━┻━┛
┏━┳━┳━┓
┃父┃子┃母┃子中心型……○わがままになることも
┗━┻━┻━┛
┏━┓┏━┳━┓
┃父┃┃母┃子┃父別室型……△自立心未熟に
┗━┛┗━┻━┛
┏━┓┏━┳━┓
┃子┃┃父┃母┃子別室型……△情緒不安定に
┗━┛┗━┻━┛
なお、6ヶ月ごろまでは、子供はベビーベッドに分離して寝かせる形が多いのですが、生後2-3歳になってもベビーベッドに寝かせたままだと、これは「子分離型」といって、「子別室型」よりも更に情緒が不安定になるようです。
乳幼児期には、母子の密着と、父の少し離れたところからのサポートというのが理想的な親子関係だと言えそうです。
しかし、大事なのは、型という外見ではありません。その型に表れるような内的な心の関係が実は最も重要なのです。
ですから、たとえ、父親が不在であっても、母親が父親を心から信頼しているという関係があれば、子供はすくすく成長するのだと思います。
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240マスの原稿用紙
送っていただきありがとうございました。
はい。どうも学年を間違えていたようで申し訳ありませんでした。
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かつてヨーロッパ人の植民地支配が世界中に広がったころ、植民地を推進する理論は、人種的な考え方で合理化されていました。つまり、優れた白人種が劣った有色人種を支配することは、社会の進歩につながるのだという考え方です。
しかし、江戸時代末期、日本にそのヨーロッパ列強の支配が押し寄せてきたとき、日本はすぐにそのヨーロッパ文明に適応しました。そして、数十年もたたないうちに、ヨーロッパに匹敵する科学技術を持つにいたりました。この結果、ヨーロッパ文明の他の文明に対する優位性は、人種的・遺伝的な優劣ではなく、別の要素であるということがわかったのです。
現代の社会を見てみると、一方で、経済的に次第に台頭しつつアジアや南アメリカ、他方で、衰退し没落しつつある欧米諸国という大きな構図が見えてきます。このような状況を見てみると、ますます文明の優劣の差は人種的・遺伝的なものではなく、単なる教育の差、つまり教育によって培われる何かにあるのだということがわかってきます。その何かとは、知のパラダイムです。
現代の世界を支配している欧米の知のパラダイムは、世界とのつながりから離れた個人の利益を中心に物の見方を組み立てるという考え方に基づいています。これが、デカルト・ニュートンの分析主義的な科学観と結びついていました。
一方、日本には、欧米の知のパラダイムとは対極にある、人間の性善説を元にした家族主義的な発想があります。
また、科学の分野では既に、従来の分析主義の考え方では不十分にしか説明できない新しい科学としての量子論や複雑系の科学が生まれています。
しかし、この新しい科学に対応する知のパラダイムはまだできていません。
新しい知のパラダイムが構築されると、それは、かつてのヨーロッパがそうであったようにきわめて強力な文明を生み出すだろうと考えられます。
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理解力を高める学習と創造力を高める学習は、車の両輪です。
理解力を高めるためには、幼児期からの添い寝と語り聞かせ、学齢期になってからの読書と暗唱が重要でした。しかし、理解力を高めるだけでは、ただいろいろなことを人より早く身につけることにしかなりません。
その理解力を土台にして、社会に新しいものを作り出すのが創造力です。その創造力を育てるものは、対話と表現です。
日本の社会には、かつて手紙、日記、短歌、俳句などという対話と表現の文化がありました。しかし、現代の社会では、それらの文化の多くは日常生活からは縁遠いものになっています。
確かに、大人にはブログやSNSのようなインターネットを利用した新しい対話の機会ができました。しかし、子供にはそういう機会はほとんどありません。日本では、特に、学齢期における対話と表現の教育が少ないことに最も大きな問題があります。
対話については、一時ディベートというアメリカから輸入された方法がブームになったことがありました。しかし、ディベートは、相手の議論の弱点を自分の議論の長所で打ち負かすという一種のスポーツのようなものですから、日本の文化にはなじみませんでした。また、論争は、ともすれば勝ち負けに終始してしまうので、創造的な対話にも結びつきませんでした。
ユダヤ人の家庭では、家族の対話が頻繁に行われているそうです。ユダヤ教徒には、安息日を厳格に守る習慣があるので、週1回の安息日には家庭の中で聖書を読んだり話をしたりする以外にすることがあまりありません。そういう生活の中で、ユダヤ人の子供たちは家庭の中で議論する習慣を身につけていきます。しかし、この家族での議論の前提になっているものは、安息日と聖書と戒律の文化ですから、日本人は全くなじみがないものです。
しかし、日本人は、そういう宗教的なものに依拠しないでも、対話の習慣を作り上げることができます。それが、作文の取材と発表です。
日本語は、音声言語と文字言語の一致度がきわめて高い、世界でも珍しいひらがな書きのできる言語です。英語では、小学校1年生が、スペリングをまちがえずに文章を正しく書くことは考えられませんが、日本では、「わとは」「おとを」などのわずかの区別さえ覚えれば、だれでも作文を書くことができます。
言葉の森では、子供たちが小学校3年生になると、週1回、題名課題で作文を書くようになります。その題名課題は、どれも身近なもので、「がんばったこと」「おいしかったこと」「はじめてできたこと」などというものですから、子供たちが自分の経験だけで書くこともできます。
しかし、この題名課題をもとに、家族の中で取材を行うようにすると、それが自然な対話になるのです。子供によっては、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんに電話で取材することもできます。
小学校低中学年では、このような話題が特になくても、親子でいろいろな話をすることができますが、作文の課題という話題があると、その対話の焦点が絞られるようになります。特に、日常生活で親子の接触する時間が短い父と子の場合は、こういうはっきりした話題がないと、「勉強しているか」「うん」というあたりさわりのない話になってしまいます。
小学校低中学年という、子供と親がいちばん楽しく話をすることのできる時期に十分な対話をしていないと、子供が大きくなり中学生や高校生になったときに、更に話を交わすことが難しくなります。そうすると、結局、話題は成績のことや点数のことだけになってしまいます。
この対話の習慣作りに大事なのは、やはり母親です。母親は、小学校低中学年のときに、子供と父親が対話のできる環境を作ってあげる役割があります。もちろん、母親も子供と対話をしますが、子供にとっては、普段あまり話を交わさない父親との対話が考える力の練習になるのです。
対話は、作文を書く前の取材の段階でもできますが、長文の音読や長文の暗唱のときにもすることができます。言葉の森の長文1編は約1000字ですから、全部音読をしても2、3分です。食事の前に、子供が音読や暗唱の練習をして、その長文を話題にして親子が話をするという方法がとれれば日常的な対話がしやすくなります。同じように、週1回書いた作文を読み、それをもとに話をするということもできます。
このときに大事なのは、親が子供の批判をしないということです。例えば音読が下手であっても、それを指摘して直すようなことはしません。作文がうまくなくても、そこで注意するのではなく、書かれた中身について共感することが大事です。直すのは、読む練習を繰り返す中で自然に行っていくものです。対話は、勉強の一部としてではなく文化的生活の一部として楽しく行っていくことが大事です。
対話というと、子供と親が同じように話をするディスカッションのようなものを考える人もいると思いますが、そういう欧米式の議論のようなものは日本人には向きません。日本人の子供時代の対話は、親がどんどん話をして、子供がそれを楽しく聞くという感じで無理なく進めていけばいいのです。そのために、時間があれば、親が事前に作文課題や長文を見て準備をしておいてもいいと思います。
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相対語感しか持たない人は、ひとまとまりの物語や学問を、言葉によって理解することはできますが、同じように再現することはなかなかできません。絶対語感を持つ人は、物語や学問を一度聞いただけで理解し、しかもそのまま再現することができます。
しかし、だからといって、相対語感の人が学力的に劣るわけではありません。学問をするうえで理解に時間がかかるというハンディがあるだけですから、そのハンディは努力によって克服することができます。また、理解に時間がかかるということは、逆に言えば創造性を発揮する余地があるということです。しかし、理解力が優れているということは、人間が社会生活や学問生活を行っていくうえでやはりきわめて有利なことなのです。
もちろん、この相対語感と絶対語感の差異は、はっきりと分けられるものではありません。相対語感はだれもが共通に持っていますが、絶対語感は乳幼児期の環境によって、持ち方の度合いに差が出てきます。
絶対語感を成長させる要因は、乳幼児期に親が同じ物語を何度も聞かせてあげることです。これが、添い寝と語り聞かせの文化によって、日本の社会に受け継がれてきました。この理解力の土台があったために、日本は、過去何度か、国民全体の大きな方向転換を比較的容易になしとげることができたのです。
ところで、こういう絶対語感によって優れた理解力が育つだけでは、ただ頭のいい子ができるだけです。そういう頭のいい子がいくら集まっても、社会に新しい創造は生まれません。理解力が優れているということは、創造性を発揮する必要をあまり感じないということだからです。頭のよさとアイデアの斬新さには、反比例する面もあるのです。
理解力を育てるには、同じ文章の語り聞かせや読み聞かせが必要でした。子供が自分で文章を読めるようになれば、ここに、同じ文章の音読や暗唱や読書も入ります。一方、創造性を育てるには、対話と表現が必要です。既にあるものを聞いたり読んだりするのではなく、まだないものを新たに作り出すというのが対話と表現だからです。
この点で、日本にはやはり、他の国にはあまり見られない大衆的な、短歌、俳句、日記、手紙という表現の文化がありました。江戸時代における手紙のやりとりの頻繁さは、当時日本を訪れたヨーロッパ人を驚かせました。また、戦時中、日本と戦ったアメリカ軍をやはり驚かせたのは、日本の兵士の多くが手帳に日記や詩を書いていたことでした。欧米では、そのようなことをするのは社会の上層にいるエリートだけで、大衆が日常的に文章を書くということは考えられなかったのです。
明治維新を遂行した日本人は、欧米の文化を単に理解して受け入れるだけでなく、そこに日本的な創造を付け加えることを忘れませんでした。どのように異質なものが来ても、和魂洋才の精神で消化することができたのは、日本にこのような創造的表現の大衆文化があったからです。
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2011年の新しい世界には、いくつかの難問が待ち受けています。
経済破綻、自然災害、戦争勃発、疫病発生、環境破壊などがいつでも起こり得る可能性があります。
しかし、それと同時に、全く新しい明るい未来の社会が築かれる可能性も広がっています。
今、私たちが行わなければならないことは、第一に、アメリカと中国への従属を排し、日本の独立を守り、全世界との平和共存を堅持することです。
第二に、テレビ・新聞という管理されたマスコミの情報から距離を置き、インターネット・出版という公開された多様な情報へ目を向けることです。
そして、第三に、高齢化・少子化の世界的な先端を行く日本が、移民受け入れでも単なる衰退でもない、新たな発展を行うための新しい内需を創造することです。
言葉の森も、この歴史的大転換の時代に、子供たちの教育に更に貢献できるようにがんばっていきたいと思います。
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絶対音感を育てる方法は、音を単音やメロディーとして聴くのではなく、和音として聴くことを繰り返すのだそうです。単音やメロディーとして聴いた音は、音と実体、又は音とメロディーの流れを把握する力を育てます。しかし、この方法では絶対音感は育ちません。
ところが、和音というひとつの確固とした響きを持ったものを繰り返し聴いていると、その和音を構成している単音が絶対音感として把握されるようになります。つまり、単音は、それと分かちがたく結びついた全体の世界を先に感じ取ることによって、絶対的な座標を持つようになるのです。
このようにして、絶対音感を持つと、ある曲を数回聴いただけで、それを同じように演奏できるようになります。相対音感しか持たない大多数の人は、ある曲を聴いてそれを同じように歌うことはできますが、同じようにすぐ演奏することはできません。
図式的に言うと、相対音感は、曲というものを、左から右へと流れる横の音のつながりとして把握する力です。これは、だれもが自然に持っています。絶対音感は、曲を構成する音を、横のつながりとしてだけでなく、縦の座標として把握する力です。左右との相対的な位置としての音ではなく、その音自体が座標上の位置を持っているのです。
これと似たことが言葉にもあてはまります。普通の生活では、言葉は状況との関連で語られます。寒いから「寒い」という言葉を発し、おなかがすいたから「おなかがすいた」という言葉を発します。この状況と結びついた言葉を聞くことによって相対語感が育ちます。ここで言う相対とは、言葉が状況に対応しているということです。この相対語感が、一般に言われる言語能力です。
子供は成長するにつれて、相対語感として身につけた言語能力によって、より広い世界を理解するようになります。言葉は単に状況と対応しているだけではなく、言葉と言葉の組み合わせによって構成された、より大きな体系を理解する手段にもなっています。これが学問のような体系を理解する言葉です。人間は、相対語感を組み合わせて、より大きな体系を理解します。
乳幼児に物語を聞かせるとき、言葉は状況との関連ではなく、物語という大きな世界を構成する要素として語られます。同じ物語を繰り返し聞いていると、子供は、物語というひとまとまりの世界があるのだということを感じ取ります。自分を取り巻く環境は、ただ暑かったり寒かったりするという現象的なものだけではなく、その背後にひとまとまりのストーリーや体系として構成されているものだということを感じ取るのです。
物語という全体の世界が先にあり、その全体の世界を感じる中で、全体と分かちがたく結びついた構成要素としての言葉を繰り返し聞いていると、言葉に対する絶対的な座標が育ちます。これが絶対語感です。絶対的な語感が育つと、ある新しいひとまとまりの物語や学問体系を聞いたときに、それをすぐに理解しそのまま同じように再現することができるようになります。南方熊楠(みなかた くまぐす)や塙保己一(はなわ ほきいち)に見られる超人的な理解力は、この突出したひとつの例だったのです。(つづく)
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