人類における最初の知のパラダイムは、「知によって世界を作り変えることができる」というパラダイムとして始まりました。
それまでの人類は、知恵はありましたが、その知恵は自然環境に適応するためだけの知恵でした。寒いから服を着る。暑いから木陰に入るというような状況に直接対応するための知恵でした。
しかし、あるとき、この知恵によって世界を変革できるという考えを持つ人が現れます。この知によって、それまでの掘っ立て小屋というひとりの人間が実感できるサイズの建築物から、より大きく複雑な個人の実感だけでは作ることのできない建築が作られるようになりました。これは、建築技術に主に集中的に表れましたが、軍事や政治の分野にも、人間の実感を超えたより大きな人数を統御する技術として発達しました。
この「知によって世界を構成することができる」という知が、最初のパラダイムで、これは、人間が徒歩で移動できるスピードではあったものの、瞬く間に世界中に広がりました。同じ知力を持つ人間でありながら、知で世界を構成できるというパラダイムを持つ人間と、実感の世界で生きる人間とでは、文明人と野蛮人というきわめて大きな違いがあったのです。
このパラダイムに接触した野蛮人は、すぐに自分もそのパラダイムを受け入れて文明人になりました。こうして、人間は世界中で、動物のように自然の中で生きる生活から、人間として社会の枠組みの中で生きる生活へと進化していったのです。
この「知によって世界を構成できる」という考え方は、ある一組の主体と客体を前提としていました。それは、人間という主体と自然という客体であり、更に範囲を狭く絞れば、味方という主体と敵という客体であり、更に狭くすれば、自分という主体と他人という客体でした。
この考え方を論理的につきつめたのが、青年時代のデカルトです。デカルトは、青年時代のあるとき、何日間も何もすることがない状況に置かれました。そこで、仕方なく、自分が普段その青年らしい純粋さで疑問に思っていた「自分とは何か」という問題を考え始めたのです。
若いデカルトが、自分の少ない人生経験は頼りにせずに、ただ論理的に、ということはただその当時あった知的パラダイムだけを指針にして考えた結論は、「我思う故に我あり」という「最初に個がある」という考えでした。最初に個がある。だから、他がある。しかし、個も更に本当の個に向かってどこまでも細分化されるし、他もまた次々と細かい他に分けてどこまでも細分化できる。これが、のちに分析主義哲学とい呼ばれる考え方でした。
このデカルトの哲学は、若さ故の純粋さという魅力を持っていましたが、釈迦や孔子に代表されるアジアの哲学が持っていた老人の知恵をその哲学の中に組み込んではいませんでした。これが、その後のヨーロッパの発展と支配、アジアの停滞と隷属という関係を生み出しました。しかし、そのヨーロッパの発展は、二度の世界大戦と無数の小戦争、環境破壊と経済危機という若さの持つ暴走と裏腹の関係にあったのでです。(つづく)
話が何だか大きくなってしまいましたが……。(^^ゞ
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。知のパラダイム(15)
小学校2、3年生から学習塾に通って国語の勉強をしている子がいます。
親は、早くから勉強をさせれば力がつくと思いがちですが、低中学年からの塾通いは、かえって学力を低下させます。なぜかというと、塾では、解き方のテクニックを教えてテストをするだけの指導しかしないからです。その場合の国語の問題の多くは、選択式の問題です。ところが、この選択式の問題では、国語の実力はわかりません。
言葉の森のホームページにも、センター試験を受ける高校3年生向けに、一応選択式の問題の解き方のコツを載せていますが、センター試験はだれでも満点近い成績をとれるものです。選択式の問題で、高得点をとっても、国語の実力がついたとは言えません。
その証拠に、東大の国語の問題に、選択式の問題はひとつもありません。すべて50字から100字ぐらいの記述式の問題です。東大の合格者を多く出している開成中学・高校の国語の問題も、選択式の問題はなく、ほとんどすべてが記述式の問題です。
つまり、選択式の問題で得点をとるコツを身につけるようなことは必要ないということなのです。そのようなコツは、試験の前に2、3時間説明するだけでだれでも身につけることができます。小学校の低中学年から塾に通って勉強するようなものではありません。
低中学年から塾で勉強する弊害はほかにもあります。それは、家庭での読書の時間がなくなってしまうことです。言葉の森の生徒で、あまり本を読んでいない子にその理由を聞くと、ほぼ例外なく塾や習い事が忙しいから読む時間がないということです。
塾によっては、夕方から夜遅くまで勉強をさせるところがあります。そうすると、その日は家に帰っても、夕食や明日の支度などをしているうちに寝る時間になってしまいます。読書というものは、一日でも読まない日があると読む習慣が崩れるので、時間のあるときにも本を読もうという気が起きなくなります。そして、この毎日本を読む習慣は、低中学年のうちにつけておかなければその後はなかなかつきません。
低中学年からの塾通いは、勉強が忙しいから、本を読まなくなり、次第に成績が低下するから、更に勉強に追われるようになり、更に本を読まなくなる、という悪循環に陥る可能性が高いのです。
本当の国語力は、作文力に表れます。しかし、作文力は、学校や塾の普段の国語の成績には出てきません。
ところが、推薦入試で作文の試験が重視されるようなところでは、この作文力が生きてきます。そして、この作文力は、作文の試験のときに活用できるだけでなく、その子が社会生活を送るようになってからも、さまざまなところで役立つ本当の学力になるのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。国語力読解力(155)
言葉の森は、日本語の作文教室なので、当然日本文化のよさということを勉強の中で子供たちに伝えていきたいと思っています。
日本語を大切にするとともに、作文の課題にも、日本の季節の行事などが盛り込まれるようにしています。中高生の書く小論文の社会実例でも、伝記や歴史や昔話の実例で、日本文化の伝統を現代に生かすような工夫をしています。
日本文化は、世界の中でも特殊な文化です。そのために、日本の国語のテスト問題には、よく欧米と比較した日本文化というジャンルが出てきます。これは、日本で国語の勉強をしているとあたりまえのように思われがちですが、実は比較文化論が国語の問題の主要なジャンルになっているというのは、日本だけの特色なのです。
そういう不思議な文化を持った日本の、その日本らしさの本質が実はまだよくわかっていません。「日本とは何か」という問いに対してよく引用されるものが、本居宣長の「敷島の大和心を人問はば朝日にほふ山桜花」という歌です。しかし、これを見て、そうだなあと納得できるのは日本人だけでしょう。世界に普遍的に通用する日本論はまだ存在していないのです。
しかし、今、日本は大きな曲がり角に来ています。少子化と高齢化の進行によって、地方の街はどんどんさびれています。それに伴い、地域の商店街も縮小し、地域の行事も規模の大きいものは次第に行われなくなっています。また、国際的にも工業生産の中心が新興国に移っていくことから、日本の町工場は衰退に向かっています。
このような中で、海外からの移民の増加や、逆に日本の工場の海外進出など、これまでの日本文化の土台となっていたものが、次々におびやかされているというのが現代の状況です。日本というと、一昔前までは、「ものづくりの日本」「教育立国の日本」というような言葉が思い浮かびましたが、今は単純にそのようなことは言えなくなっています。現代は、これまでの日本を支えていた前提が崩れ、日本とは何かという共通の理念がなくなりつつある時代なのです。
ところが、ここで、日本らしさの根本を民族的なものに求めることは、日本の将来をますます出口のない道に向かわせることになります。日本には、既に、日本人ではないが、日本が好きで日本をよりよくしていこうと考えて仕事をしている多くの人がいます。それらの人たちが賛同できるような日本らしさを考えていかなければなりません。
今必要なのは、未来に向けて日本というものを抽象化していくことです。それが、日本を世界に通用する普遍的なものにしていく道です。日本を守り発展させるというときに、日本の何を守り、何を発展させるのかということをまず考えていく必要があるのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)