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日本の文化における勇気、知性、愛、創造―知のパラダイム(その7) as/1138.html
森川林 2011/01/24 11:38 


 無の文化を、教育の分野にあてはめて考えてみましょう。

 教育の中で、育てることが共通して期待されている人間の資質は、勇気、知性、愛、創造だと思います。これらのそれぞれに、有の文化的な考え方と、無の文化的な考え方があります。

 以下の説明は、わかりやすく図式的に書いているので、現実には多くの例外もありますが、基本は変わりません。

 有の文化における勇気とは、我慢の勇気です。人間という主体が、障害物や外敵という対象に遭遇したとき、それらの外部の対象に負けないようにがんばるということが有の文化の勇気です。

 これに対して、無の文化における勇気とは、「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という無私の勇気です。自分を、自分よりも大きいもの、名誉や主君や祖国や仲間のために投げ出すことが無の文化の勇気です。

 有の文化における知性は、論理の知性です。Aという対象とBという対象がどのような論理でつながっているかという関数の知性です。

 これに対して、日本の無の文化の知性は言挙げしない非論理の知性です。それは、ある対象が、その対象をとりまくすべての世界、つまりその対象にとっての無とつながっていることを静かに観照する観察の知性です。

 有の文化における愛は、合理主義の愛です。愛が、結局は、自分にとっても相手にとってもプラスになると判断した上での愛が最初にあり、それを「最後の審判」という評価によって天国の世界にまで拡大したものが有の文化における愛です。もちろん、イエス・キリストに見られるような無償の愛もありますが、このような愛はむしろ例外的なものだと思います。

 これに対して、日本の無の文化における愛は、共感の愛です。自分が、自分以外のものによって生かされているように、相手もまた相手以外のものによって生かされていると考え、自分も相手も味方も敵も、更には人間も動物も、等しく全体の一部だと考えるところから来る共感の愛です。

 有の文化における創造とは、ビジョンの創造です。主体である人間が、人間をとりまく世界に対して、自己を主張するビジョンを打ち立てるというのが欧米の創造です。

 これに対して、日本の無の文化における創造は、すべては既に完全なものとしてあるという世界観を前提にしています。その完全なものを発見し、模倣し、それを人間の生活に合わせて微調整することが、無の文化における創造です。日本人が、革新的な大発明よりも、小さな改良的発明が得意なのは、創造というものに対する文化が違っているからなのです。(つづく)

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知のパラダイム(15) 

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12月の森リン大賞(中2・中3の部) as/1137.html
森川林 2011/01/23 11:34 





12月の森リン大賞(中2の部68人中)

言葉の重要性
チョコ

 何をするにしろ、どうしたら失敗するか、ということを知っていて失敗することはめったにない。そこで、次に同じことをするときに、「また失敗するかもしれない」と思うと、ほんとうに失敗してしまう。「失敗は成功の母」といわれるように、失敗を重ねることによって、次第に成功に近づいてゆくのが脳の自然の働きだ。ところが、失敗を恐れると、脳も人間も発展しないのだ。もちろん、「今度は絶対に成功するぞ」と思い込んでも「失敗した」らたいへんだ」ということには負けてしまう場合がある。成功した経験がないと、「成功」ということばでは脳は成功に向かってはたらかないからだ。どうしたら成功するかは、本人にも自覚されていないが、以前に成功した経験があると、その時の脳のはたらきがひとりでに進行して、成功を重ねることになるのだ。この文章は千葉康則さんが書いた「ヒトはなぜ夢を見るのか」の一部である。千葉さんはこの文章で、人の言葉がその後の行動にどう影響するかということを述べている。その言葉とは良いものなのか、悪いものなのか。

 まず良いものだという意見。理由は、自分に自信がついたり、モチベーションが上がる時があるからだ。私は今年の九月に英語のスピーチコンテストに参加した。自分で決めた文章を、三分以内に暗唱するというルールだった。夏休み中は覚えるための音読がとても大変だった。なぜかというと、声に出す音読だけでなく、心の中での音読もしたからだ。ある日は、「三分以内に音読する!」。そしてある日は「五位くらいまでに入賞する!」。心の声は大きくなるばかりだった。果たしてこの音読の効果はあったのか。それがもうアリアリだったのだ。そのおかげで発表直前に、今まで心の音読をしてきたすべての言葉達が頭の中でぐるぐる回転して、不安な私に自信を与えてくれたのだった。だが結果は、三分以内も五位入賞も果たせなかった。とても残念だったが、発表直前にあったことがなかったら、もっと他にも果たせなかったことがあったと思う。

 次に、悪いものだという意見。理由は、もう駄目だという在りもしない結果を言葉にしてしまって、その結果にしようと体が態勢を整えてしまう時があるからだ。私は陸上部に所属しているにも関わらず、陸上関係のほとんどが苦手だ。学校の体育の授業で走り幅跳びをした。これも私の苦手なものの一つだ。他の陸上部の子はもちろん、運動部の子のほとんどが三メートルを超えていたのが普通だった。二メートル台というと、吹奏楽部などの文科系の部活に所属する人が多くいた。私は陸上部だというのにその域にいた。恥ずかしかったが、私はすぐに開き直った。なぜかというと、自分は幅跳びが嫌いで苦手だということを知っていたからだった。そうやって決めつけていたからだった。いつも幅跳びの時間になると、「どうせ」という言葉が頭の中で響いている。だから心が開き直るのを見た体も開き直って、私を二メートル台に跳ばせていたのかもしれない。

 行動に影響する言葉は良くも悪くもある。一番重要なのは、人間が言葉をプラスかマイナスかの方向に選ぶことによって、行動もプラスかマイナスかの方向に左右するということを、私たち人間が知っておくことだ。「悪いことそのものがあるのではない。時と場合によって悪いことがあるのである」。その「時と場合」とは、言葉のことだ。『うさぎとかめ』のうさぎのようにプラスの言葉を考えていたとしても、結果はマイナスになってしまうこともある。全てが言葉で結果が決まると思ってはいけないということを、私達もこのうさぎも思い知った。


順位題名ペンネーム得点字数思考知識表現文体
1言葉の重要性チョコ85148156698280
2個人意識と地球意識たけたけ85104357787590
3いいえと言えるか言えないかなまず大使85132864586690
4プラス面を増やそう!まりい84106156627887
5私と我々ひよこ84101362677786
6言葉と行動さくら84123256647496
7朝寝坊サッカー83111054638284
8言霊柏もち83106259647095
9経験とことばきやの82100851697392
10二つの利益フェアリー82111253637086



12月の森リン大賞(中3の部53人中)

我愛する。故に彼と我あり
ハーマイオニー

 現在、新聞、テレビ等のメディアでは、中国の人名・地名は日本語の漢字の読みで伝えられる。中国国内でも同様に日本人の名前も中国の読み方をする。それに対して、韓国・朝鮮の名前は現地での発音どおり、もしくはそれに近い読みをカタカナ表記するようになっており、あちらでも同様である。これは、それぞれの国との話し合いでそういうことにしているらしい。このように、漢字の文字とカタカナの音が分かれる場合、紙の上だけの関係であれば文字で済むが、愛を伴った関係であれば、相手の名前を正しい音で呼ぼうとするのではないか。

 私は、自分のつかう言葉に愛を込められるような人間になりたいと思う。そのためには、具体的にどうすればよいだろうか。考えられる方法としては2つあると思う。

 第一に、当たり前だが、相手の名前など、大事なことは忘れないようにすることだ。ただ、当たり前と言っても、これは容易なことではない。社会生活を送る中で、人は、毎日多くの人間に出会うだろう。その立場や職業によって、相手人数の多寡はあるだろうが、何かしら他人と交流し、あるときは共に、またあるときは競って活動することになるはずだ。そういった場合、相手のフルネームを知っているのと、知らないのとでは、全く印象が変わってくる。相手を知りたいと思う気持ち、相手への興味の度合いは、すなわち、相手への愛情である。私もそうだし、誰もがそうだと思うが、「かっこいい」「かわいい」「すてき」「おいしい」「おもしろい」など、自分にとって好ましいと思える人や物は、その名前をすぐに覚える。たとえ、ビジネスマンがそのような必要に迫られて取引相手の名前を覚えるとしても、やはり同じことだと思う。名前を覚えることは、まずその対象への最初の関心の表現ではないか。そこから愛ある人間関係がスタートするのだ。

 第二に、国際交流、異文化交流の場においても、いや、そのような場において特に、相手の国や文化を尊重することが大事になるだろう。田中角栄は、人の名前を覚える天才だったそうだ。彼が大蔵大臣だった時代に、大蔵省に入省した野口悠紀雄氏は、新人全員の名前を、メモも見ず、他の職員や秘書にも聞かず、すらすらと呼んだという田中大臣の逸話を披露していた。当然、これは若い職員たちの心をとらえた。田中角栄の仕事には、功も罪もあろうが、このような彼だからこそ、大胆かつ繊細な外交政策を可能とし、日中国交正常化を成しえたのではないか。今日の中国との関係を考えると、彼の政治から学ぶことは少なくないと思われる。

 確かに、言葉を記号として扱うようなドライなやり方の方が効率がいいかもしれない。人を名前で呼ばず、番号を付けて処理するような発想は、コンピューター上では役に立つだろう。しかし、人間であれば、言葉に愛を込めることができるはずだし、そのような生き方が必要であると思う。「家とは、外から見るためのものではなく、中で住むためのものである」という言葉がある。人間もまた、外から眺めていればいいのではなく、自分と相手が愛情を持って交流するからこそ、相手の存在も、また自分自身の存在も生きてくるのだ。デカルトの言葉になぞらえれば、「我愛する、故に彼と我あり」である。


順位題名ペンネーム得点字数思考知識表現文体
1我愛する。故に彼と我ありハーマイオニー961334771009886
2違いの理解だるまー90127362728592
3死に対する意識ちえのわ88204072697690
4日本語の曖昧さトウモロコシ87161164627790
5untitled(^ω^#)ピキピキ86191768627387
6名前の重要さむさし85104263718387
7意思かはふ85107962768181
8自分の意見を持つこと嵐ちゃん85140258607287
9気持ちを込めてさえピ8296454697887
10言葉に愛を込めるえむや81105453778492


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森リン(103) 

記事 1136番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/12/29
少し汚れを残しておく掃除、山頂をめざさない山登り―知のパラダイム(その6) as/1136.html
森川林 2011/01/22 20:00 


 インドや中国では、無の哲学は、宗教や思想という形で残りましたが、文化という形ではほとんどなくなってしまいました。

 これに対して、日本では、無の哲学とともに、無の文化も生活の隅々にまで浸透し、生きた形で残っていました。それは、日本が外部から有の文化を持った異民族に侵略されることがなかったからです。

 有の文化と無の文化の対比は、庭園の作り方などに、目に見える形で表れています。ヨーロッパの庭園は、人間という主体が自然という対象に対して、人間の意図を貫徹するという形で構成されています。フランスの庭園などに見られる直線と左右対称性は、そこに人間が介在したという証拠を残すために作られたかのような印象を受けます。人間が自然を人工的に加工するというのが、有の文化における庭園です。

 これに対して、日本の庭園は、非直線、非対称性で構成されています。人間という主体をあくまでも無化して、自然が自ら造形したような庭園であることが、庭園の理想なのでした。利休は、客人をもてなすとき、落ち葉ひとつなくきれいに掃除された庭を見て、近くの木を揺すり、枯れた葉を再び庭に散らしたそうです。

 中国の道教の修行に行った森田健さんの話では、道教のグループは、近くの山に登ったとき、山頂まであと少しというところで、山頂までは行かずにそのまま山を下ってきたそうです。自分という主体が、山頂という対象に向かうと考えるのが有の文化です。山頂という目的ができたとき、登山はそのための途中の過程に過ぎなくなります。すると、山に登ることは、できるだけ速く、できるだけ能率よく登るための手段になります。有の文化は、能率の文化です。

 ところが、老子はそう考えません。自分は、山に登る前も、登っている途中も、登り終えたあとも、常にそのときどきの状況にある山との関係で完全な存在であると考えるのです。登山という目的との関係において、まだ山頂に立っていない自分が不完全だとは考えないのです。

 自分が、自分以外のもの、つまり自分の無との関係で成り立っていると考えるのが無の哲学です。山頂もまた、独立したひとつの対象ではなく、山頂以外の山腹や山麓によって初めて存在するものであると考えると、山腹も、山麓も、更には山を降りたあとの平地もまた山頂であり、山頂は求める対象ではなく、山頂を構成する無との関係としていつでも常にそこにある対象なのです。

 道教のグループは、山に登っている途中に、こんなややこしいことを考えながら登ったのでではないでしょう。しかし、老子の唱えた無の哲学を実際の体験を通して学ぶために、山頂まで行かずに戻るという行動をとったのだと思います。

 ある物は、その物以外との関係で存在します。これを更に普遍化すれば、有は、有以外のもの、つまり無との関係で存在するということになります。だから、有の本当の姿は無にほかなりません。これがインドや中国や日本で生まれた無の哲学です。

 無や空といっても、一般に思われているようなとらえどころのない抽象的な観念なのではなく、有る物にとってのその物以外のすべての世界が無や空で、その物の本質は、その物の中にあるのではなく、その物の外、つまり無や空とのつながり方にあるというのが無の考え方なのです。(つづく)

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森川林 20110124  
 おいおい、宣伝に使うなよ(笑)。

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知のパラダイム(15) 

記事 1135番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/12/29
12月の森リン大賞(小6・中1の部) as/1135.html
森川林 2011/01/22 13:07 
 12月の清書をもとにした森リン大賞です。
 手書きの清書だけの生徒は、この森リン大賞のランキングの中に入っていませんが、「清書の谷」の方には掲載されています。





12月の森リン大賞(小6の部131人中)

夢中になれば無敵である
ミス・バニー

 人が生まれながらに持っている能力は、その人の経験と、努力で、ある程度変えることができる。また、自分が生まれながらに持っている資質というものは、うっかりして気がつかないことが多い。この資質はその人だけの泉である。そして、魚が喰らいつけば、じっくり引けばいいのだ。一歩辛抱強く、青春の目標に向かって進めばいいのだ。どんなにむちゃくちゃな夢でも、ビックスケールに描けばいいのだ。若い私たちには、無限の可能性があるのだから。

 私が夢中になる場合は、三つある。本を読んでいる時と、次に進む喜びを知った時、好きなことをしている時だ。その中で、私は五年生の時にバスケットボールに夢中になった。それは、ちょうど,K小との練習試合が迫っていた時だった。K小は、バスケットボール部があるくらいで、その手に関してはとても強い。勝てるわけも無いのに、私たちチームメイトは、休み時間をつぶして、全力投球したのだった。毎日毎日くたくたになるまで練習できたのは、K小に勝つという目標があったからだった。結果は、あと一分あれば同点というところで負けてしまった。しかし、練習をしなければ、ぼろぼろに負けていただろう。目標があったから、練習できた。練習したから、あと少しで勝利に手が届くところまでいった。こう思うと、夢を描くことは大切だと思う。ただ頑張るのではなく、具体的に目標を立てたならば、どれだけの夢をかなえる人が増えるのだろうか。夢のかなえ方①は、まずヴィジョンを描くことではないだろうか。

 私が毎日夢中になっているものは、本だ。この時代は本を読む子が少ないというが、私は本を読まない子が信じられない。その子はまだ面白い本に出会っていないのだろうが、他の、楽しく面白いゲームという遊びぐらいしか知らないのだろう。本は自由である。どんな時にも、どんな人にも夢見ることができる無限の世界が中に詰まっているのである。これが、私が毎日本に夢中になっている理由の一つだ。

 人間にとって何かに夢中になるということは、その分野においては、大きく成長できるチャンスではないだろうか。しかし、片よりすぎてもならない。どんなことにも、面白いと思えてくる節はあるのだろうから、夢中になることが無い人は、まず知ってみてはいかがだろうか。好きこそ物の上手なれ。勉強を知ってそれが楽しいと思えるようになれば、それはもう苦しいものではなく、いつの間にか遊びに変化しているのではないだろうか。


順位題名ペンネーム得点字数思考知識表現文体
1大切な「つとめる」、不必要な「しいる」ブレイド86122557748687
2夢中になれば無敵であるミス・バニー82101959647381
3おいしいおにぎり さめてもGOOD!さきぽん8194154647781
4あきらめずにやり通すちはや80116547748587
5野菜いため入りちくわの卵&チーズ巻きかねめ8098444638187
6大人になるともじろう80102443668180
7勉強@たのしい?コレルリ80108249617986
8あの日の時間に戻りたい!元親791278536811087
9朝寝坊かふた791153476410183
10夢中という喜びはるりん79105744718680



12月の森リン大賞(中1の部88人中)

社会情勢が進むにつれて
あまぐり

 語源がわからなくなると、もとの語の発音や意味に変化を来すことがある。漢語の場合には、それに使われた漢字が忘れられると、意味用法の転ずるこよが少なくない。つまり、話し言葉では漢字でどう書くかを問題にしないから、意味を支持するものがないためにとにかく変化しがちである。たとえば、「馳走」「遠慮」「結構」「世話」等の漢語は話言葉で使われているうちに原義とかなり違った意味用法になっている。語源のとおりでは社会情勢の変化に合わなくなるものが多い。そうかといって、一々言葉を言い換えるのも大変なことだろう。私は私は社会情勢に合わせて言葉をかえていくべきではないと思う。

 その理由は第一に、頻繁に言葉を変えると社会の中で混乱が起きるからだ。今の社会情勢だと語源のとおりで話すと意味が少し通じなかったりと多々、不便が生じる。だが、社会がどのようになったらこの言葉を変える。などの線引きが非常に難しい。更に、近代化が進む都会では言葉が変わったとしても田舎の人たちには伝わらない。今は高齢化社会とも言われている日本。高齢者はどんどん田舎のほうに移住する一方で都会では近代化が進む。それにつれて言葉の変化が生じてしまうと、都会と田舎の格差が生まれてきてしまうかもしれない。そして、都会から田舎に移住する人がいたとしても、そこで語源の違いと格差によるによる混乱を招く可能性があるからだ。

 その理由は第二に、日本の文化に慣れ親しんだ言葉には日本人ならではの感情を抱えているからだ。日本は他の国にはない方言という日本独自の文化を背景とした言葉がある。それは、昔からの語源が今も変わらずにあるからこそ成り立つ言葉である。ところが、その語源を社会情勢によって変えてしまうとその方言が崩れてしまうというように考えられる。つまり、その言葉の変化によって人々のコミュニケーション不足が生じ、日本という国の活気が失われてしまうかもしれないのだ。

 確かに、今の社会情勢に合わせて言葉を変化させ、近代化が進むことも必要だ。しかし、「自分の心のうちに持っていないものは何一つ自分の財産ではない」という名言があるように自分になじんでいる日本古来の言葉などを使ったほうがお互いに意味が通じ合うし実感が湧くのではないか。さらに、外来語の定着度における理解度のデータによると、一番多くて70%前後で一番低いと3%程度。どれも大体は低い。つまり、人間が新しい言葉や外来語を使う上でそのことばをあまり理解していないのだ。そして、新しい言葉ばかり発達してしまうと日本独自の文化や伝統などを後世に伝えることも厳しくなってくるかもしれない。つまり、言葉のちょっとした違いだけでいろいろな規則や習慣が変わってきてしまうのだ。そう考えると、言葉というのはあること自体に意味があり、人間が生きていく上で欠かすことが出来ないものなのだ。つまり、社会情勢が進むにつれて言葉というのは安易に変えるべきではないのであるのである。


順位題名ペンネーム得点字数思考知識表現文体
1社会情勢が進むにつれてあまぐり89123073657699
2命の締め切りきぬこ88123459688490
3死の緊張感織田信之助87101968788190
4言葉ポセイドン86117559909584
5ことばは時代と共にことのは86133561738986
6期限の大切ささおりん86109663678083
7言葉の変化真理子さん85122158799590
8行列の良さチョコボ85104661848989
9生と死の意識しちみ85124461728884
10行列にもルールがあるピクシー85111753698195


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森リン(103) 

記事 1134番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/12/29
笠地蔵の文化―知のパラダイム(その5) as/1134.html
森川林 2011/01/21 19:58 


 有の文化と無の文化を図式的に説明すると、次のように言うことができます。例えば、投げられた石は、質量、速度、方向などに分解されます。同じように、生きている人間も、内臓、筋肉、骨格、感情、意識などに分解されます。その分解をつきつめて最小単位にまで分解し、その最小単位を理解して、再度組み合わせれば全体がわかるというのが分析哲学の考えです。

 無の文化は、そうではありません。人間というものを考えるとき、日本には、「カゴに乗る人、かつぐ人、そのまたワラジを作る人」という言葉があります。自分は、自分以外の、つまり自分の無であるところの、カゴと、カゴをかつぐ人と、ワラジを作る人とによって初めて存在すると見るのです。

 日本にある「おかげさま」文化は、この無の文化のひとつの表れです。「おかげさまで」という言葉は、何か具体的な利益を受けたことに対して言うのではありません。そのような自分と他人という有の関係を前提にした「サンキュー」ではなく、自分以外のすべてのものが自分を支えてくれているはずだということを前提にした、見返りのない「おかげさま」です。

 有の文化は、「有るから有る」という考え方です。無の文化は、「無いものによって支えられているから有る」、つまり無とのつながりにおいて有が存在するという考え方です。



 さて、今なお世界は、デカルト哲学の有の文化の延長で運営されています。そして、日本には、世界のほとんどの国々で消滅した無の文化が、今も日常生活の中で生きています。しかし、有の文化と無の文化が直接対峙すると、有の文化は一方的に収奪する側に回り、無の文化はやはり一方的に収奪される側に回ります。

 日本の昔話に「笠地蔵」があります。里まで笠を売りにいったおじいさんは、ひとつも売れなかった笠を持って家路につきます。途中で、雪に降られている地蔵たちを見ます。おじいさんは、自分の持っていた笠を地蔵にかぶせますが、最後の一体の地蔵にはもうかぶせてあげる笠がありません。そこで、おじいさんは、自分のかぶっていた手ぬぐいを地蔵にかぶせて家に帰るのです。こういう昔話を聞いて育った子供は、笠地蔵の文化を身につけます。それは、ギブ&テイクの文化とは次元の異なる思いやりの文化です。

 しかし、そこへハゲタカが飛んできます(笑)。ハゲタカは、自分の利益を第一に考えていますから、笠も地蔵もおじいさんも、自分の外側にある単なる対象です。もし、おじいさんが里から帰る道に、雪に降られたハゲタカがいたら、おじいさんはそのハゲタカにも笠をかぶせてあげたでしょう。しかし、そのハゲタカは、ほかの地蔵たちの笠も奪いに行くかもしれないのです。

 笠地蔵とハゲタカでは、勝負の次元が違います。笠地蔵は一方的に奪われ、ハゲタカは一方的に奪います。では、笠地蔵が収奪されつづけ、世界がハゲタカだけになることが世界の平和かというとそうではありません。また、笠地蔵が立ち上がって自らもハゲタカになり、元のハゲタカを駆逐することが世界の平和になるかというとこれもそうではありません。

 今必要なのは、日本の無の文化のパラダイムで、欧米の有の文化のパラダイムを包み込む工夫なのです。(つづく)

 話が更に大きくなった(笑)。

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知のパラダイム(15) 

記事 1133番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/12/29
小1から始める作文の勉強が学力を育てる as/1133.html
森川林 2011/01/21 12:03 


 言葉の森では、幼稚園年長や小学校1年生から作文の勉強を始めることができます。しかし、幼稚園のころは、家庭で楽しくお父さんやお母さんと話をしているだけでも十分です。年齢的に無理なく始められるのは、ちょうど幼稚園から小学校に上がるころです。

 しかし、これから小学校1年生になる子は、文字がやっと書けるぐらいです。書けても、「く」の字が左右逆になっているようなこともよくあります(笑)。また、読むことにもまだあまり慣れていないので、声を出して読むことによって自分の耳で聞いて初めて理解するような読み方です。

 ですから、作文を書いても、最初に書けるのは2、3行です。また、書き方を先生や親が説明しても、一度で理解することはほとんどありません。会話をカギカッコで書いて行を変えるというようなことも、何度言ってもできないというのが普通です。しかし、それを無理にできるようにさせる必要はありません。

 では、そういう勉強で何が身につくのでしょうか。2、3行しか書けない作文を書いているぐらいなら、国語の問題集を解いたり、漢字の書き取りをさせたりする方がいいのではないでしょうか。ところが、そうではないのです。逆に、問題を解いたり、漢字の書き取りをしたりという勉強的なことをすると、かえって国語の力がつかないことも多いのです。

 それはなぜかというと、勉強というものを生活から分けて考え、勉強が済んだからあとは遊んでいいということで、テレビを見たりゲームをしたりしてしまう生活になりやすいからです。国語の力は、国語の勉強の中でつくのではなく、国語的な生活の中でつくのです。

 低学年からの勉強で、もっと問題なのは、勉強のときだけは親と子の接触があるが、勉強が終わると親は親の生活に、子供は子供の生活に分かれてしまい、親子の対話が少なくなってしまうことです。子供の国語力は、日常生活における親子の対話の中で育ちます。親子の対話が少ないのに、国語の勉強だけをしても、言葉の力は発達しません。

 子供が子供どうしで遊ぶというのはよいことですが、そこで楽しく遊んでいるときに交わす会話は、子供どうしのきわめて限られた語彙で通じるような内容です。語彙力のある子と語彙力のない子が一緒に楽しく遊ぶためには、その遊び仲間のいちばん語彙力の少ない子に合わせた会話をしなければなりません。小さい子供は、親との対話がなければ語彙の力を豊かに育てることができないのです。

 しかし、テレビやCDやDVDのような機械による音声で日本語に接するというのは、もっと大きな弊害があります。機械による学習は、子供の感情を破壊する面を持っています。特に、CDやDVDで聞かせる音声が、日本語でなく外国語であるような場合は、感情だけでなく知力の発達も抑制するようになります。

 しかし、もしこれまでそういう生活をしてきた場合でも、今からやり直せば間に合います。そのやり直しの基本は、親子で対話をする機会を増やすことです。そして、更に、本を読む時間を確保していくことです。

 ここで、言葉の森の作文の勉強を生かすことができます。言葉の森の勉強は、毎週1回作文を書く勉強ですが、そこに毎日の生活の中での読む学習、親子で対話をする学習を結びつけることができます。それが、長文の音読と暗唱、読書、作文を書く前の対話、作文を書いたあとの対話、子供の音読や暗唱をもとにした対話という学習です。

 毎日の生活の中で、日本語を読む機会、聞く機会、話す機会を増やし、しかも、その内容を意識的にレベルの高いものにしていくというのが、国語力を育てる最も優れた方法なのです。

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国語力読解力(155) 言葉の森の特徴(83) 

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問題集読書で力のつく子つかない子 as/1132.html
森川林 2011/01/20 21:03 


 言葉の森では、小学校高学年以上になると、問題集読書の自習を選択することができます。問題集は、小学5・6年生が中学入試用、中学生が高校入試用、高校生が大学入試用のものです。いずれも、昨年度のものを使います。市販の問題集のように何年も前の文章が載っているようなものだと、物語文はまだいいのですが、説明文では時代後れになってしまうことがあるからです。

 この問題集読書は、毎日4、5ページずつ読んでいき、1回読み終えたらまた最初から同じように読み、全体を1年間を通して4、5回繰り返すという読み方をします。ただ読むだけでは、つまらないので、自分らしい記録ができるように、読んだ文章をもとに四行詩を書くという形にしています。

 ところが、ここで、四行詩だけはしっかり書いてくるが、文章を読むよりも書くことが勉強の中心になってしまうような子も出てきます。

 小学校5、6年生から中学生にかけては、勉強の意義がいちばんあいまいになる時期です。小学校低中学年では、親や先生が言ったことを忠実にやるので、問題はありません。高校生になると、今度は自分で自覚的に勉強をするようになるので、これも問題はありません。しかし、小学校高学年から中学生にかけては、勉強の自覚がないのに要領だけはよくなるという時期で(笑)、勉強が中身のない外見だけのものになりやすいのです。

 問題集読書で大事なのは、文章を読むことです。その副産物として四行詩があるのですが、中学生のころは、四行詩という形が残ることを優先して、肝心の文章を読むことを二の次にしてしまう人も多いのです。

 問題集を読むときは、印象に残ったところに線を引きながら読んでいきます。物語文では、あまり線を引くようなところはありませんが、説明文では、線を引いておきたいところはかなりあるのが普通です。問題集読書が内実のあるやり方で行われているかどうかは、問題集の問題文にどれだけ線が引いてあるかということを見ればわかります。問題集読書を家庭でチェックする場合は、問題文にしっかり線が引いてあるかどうかということを見ていくといいと思います。

 問題集読書で力のつく子は、毎日線を引きながら読んでいる子です。毎日といっても、読むのにかかる時間は1日10分程度です。力のつかない子は、毎日ではなく時々まとめて読むような読み方だったり、線を引かずに読んでいたり、読むことよりも四行詩を書くことを中心にしている子です。

 国語力をつける基本は、まず毎日読むこと、そしてできれば難しい文章を読むこと、という基本を忘れずに勉強をしていってください。

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中学入試、高校入試の志望理由書の書き方 as/1131.html
森川林 2011/01/20 11:31 


 書き方の大事なポイントは、3つあります。
(1)字数を調整しやすくするために、パソコンで下書きをすること
(2)裏付けとなる数字や固有名詞のデータを入れること
(3)子供本人に任せずに必ず親が見てあげること

 志望理由書の書き方ということで、書店にはいろいろな本が出ています。書く内容は、それらを参考にしていただくことにして、ここでは、それらの本にはあまり書いていないことを説明したいと思います。

 第一は、子供任せにしないことです。志望理由書は本人が書くという建前になっていますが、小6や中3の子供に任せて、いいものが書けるはずはありません。と書くと言いすぎですが、ここはやはり親が全面的に協力して内容を煮詰めていくことです。

 第二は、明るい内容、面接で話題にしてほしい内容に絞ることです。明るさというのは、志望理由書以外に、作文の試験の場合も重要です。文章がうまければよいというのではなく、自分の好ましい人柄がにじみ出るように書いていくことが大事です。

 第三は、勉強の話を中心にしていくことです。学校は勉強をするところです。それなのに、部活や友達や趣味の希望をたっぷり書いてしまう人がいます。学校で青春を楽しみたいという気持ちはわかりますが(笑)、勉強をしにいくのだという原点を大事にしておかなければなりません。その学校に入ったら、どんな勉強を何のためにどういうふうにやっていきたいかということを書いていくことです。

 第四は、書くスタイルです。よく直接鉛筆で書いて、手書きの原稿を推敲している人がいますが、それでは十分な推敲はできません。まず最初に、自分が普通に書くぐらいの字の大きさで、読み手にとって見にくない程度の文字で2、3行手書きで書いてみます。そして、1行の平均的な字数を数えます。そのあと、その字数と行数に合わせてパソコンで下書きを書いていきます。パソコン上で推敲を十分に行ってから、最後は手書きで清書をするようにします。

 第五は、書いたものは、必ず書いた本人以外の他人に見てもらうということです。本人がアピールしたいと思っていることと、相手に実際にアピールすることとは違います。どういう内容がアピールするかというと、ひとつは挑戦したことがわかる話、もうひとつは継続したことがわかる話で、これらに客観的な裏づけのあるデータを入れて書きます。客観的なデータとは数字や固有名詞のことで、例えば、「○年間、○○の委員長を務め、○○という工夫をして、○○パーセントの成果を上げた」というような書き方です。

 志望理由という言葉から、自分の希望を中心に書いてしまいがちですが、未来の話はだれも同じようなものになりがちです。自分らしい過去の実績を盛り込みながら書いていくことが大事なのです。

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