小5の1.4週の読解問題の8番で、設問に出ている「処世訓」という言葉が、長文の中にありませんでした。
これは、長文を短く編集しなおす過程で、その設問の対象となっている部分を消してしまったためだと思います。(^^ゞ
8番の問題は、全員◎にしておきます。
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言葉の森は、もともと大学生の作文指導の教室からスタートしました。その後、高校生の小論文指導や、中学生、小学生の作文指導へと指導を発展させてきました。
ですから、小学生の作文指導をする際にも、中学高校へと勉強進めていく土台となるような勉強の仕方をしています。この小1から高3までの指導の一貫性が、言葉の森の作文指導の特徴です。
学校や塾で小学生の作文指導ををするときは、その学年で上手な作文を書くことが目標にしてなりがちです。そのため、小学校4年生ぐらいになると、文章を書くことが好きな子は、その学年としてはほぼ完璧な作文を書くことができるようになります。どのようなテーマでも、自分なりに個性的な実例と印象的な表現で書き進めていくことができるので、保護者や先生は、これで作文の指導は一段落したと思いがちです。
しかし、言葉の森の作文指導は、小学生のころに上手な作文を書くことで終わりになるわけではありません。言葉の森では、小学校5、6年生から説明文・感想文の指導に移っていきます。
中学生で本格的に意見文・感想文の練習が始まると、小学生のころまで上手に書けていた子供たちが、途端にうまく書けなくなり、多くの子が作文に苦手意識を持つようになります。
小学校高学年や中学生の課題は、テーマが抽象的になってくるので、そういう抽象的な課題を考えるための語彙力がまだ育っていない時期は、作文が一時的に下手になるのです。
しかし、中学生で意見文の練習を始めた子は、たとえ途中でやめることになっても、構成的に作文を書く方法を理解しているので、高校入試や大学入試の作文小論文試験の際に、それまでに勉強したことを生かすことができます。
抽象的な課題の作文力の土台となる語彙力が備わってくるのは、中学3年生のころからです。中学3年生になると、自我が成長し、勉強も自覚的に行えるようになるので、作文の力も安定してきます。中学3年生で作文が上手に書ける子は、そのまま高校生になっても大学生になっても、その文章力の基本を維持することができます。
高校生以上の作文の勉強は、考える力をさらに深めていくという形で上手になっていく勉強です。ですから、中学生高校生の作文の上達は、難しい文章を読んだり考えたりする時間がどれだけあるかということと比例しています。
作文の力は、読む力と比例しているので、読む力が向上してくると、ある時期から突然、作文が上手になるということがあります。
これまでの例では、小学校4、5年生のころまではいつもふざけていい加減なことばかり書いていた子が、好きな本のジャンルができ、それらの本を読んでいるうちに、小学校6年生から突然作文が上手になり、中学高校とめきめき学力を上げていったということがありました。
また、小学生のころから成績はよく真面目に勉強はしているものの、作文はごく普通に書けるという程度だった中学1年生が、自然科学系の部活でやはり好きなジャンルの本を読むようになると、高校生の後半からぐんぐん作文が上手になっていったという例もありました。
作文の勉強は、書き方を教えてすぐに効果が出る面ももちろんありますが、本当の実力は、読む力をつける中で少しずつ蓄積されて行き、ある日突然開花するものです。
作文の勉強をする上で大事なことは、今の学年で上手に書くことばかりでなく、先の学年に進んだときに質の違う上手な作文を書けるようになるという展望を持って勉強を進めていくことです。
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小学校5年生の子供のお母さんから、「いつも同じような書き出しの工夫しかしないのですが」という相談がありました。
書き出しの工夫には、会話、色、音、情景などいろいろな方法がありますが、子供にとっていちばん簡単なのは会話の書き出しです。そこで多くの子供は、書き出しを簡単な会話から始めて、そのあとに「いつ、どこで、何をしました。」という形で書いていきます。
ところが、文章の書き出しの部分と結びの部分は、作文の中で最も目立つ場所なので、大人がその子の作文を何度も見ると、書き出しの仕方がワンパターンであるように感じてしまうのだと思います。
しかし、ここで大事なことは、書き出しの工夫のようなテクニックは、生活作文を書いている小学校時代の作文で主に生かせる書き方であるということです。
子供たちが中学、高校に進んでいくにつれて、作文の勉強の中心は、実例に広がりを持たせること、意見を自分なりに考えて書いていくこと、という方向に進んでいきます。
ですから、書き出しの工夫に変化がないからと言って、そこをさらに上手に書かせようとするよりも、書き出しの工夫はほどほどにして、それよりも先の学習目標である実例と意見を充実させていくことを勉強の目標にしていく方がいいのです。
また、書き出しの工夫が同じようなパターンになりやすいのは、語彙が不足していることが原因であることもよくあります。書き出しのテクニックを知らないから同じような書き方になってしまうのではなく、語彙力が乏しいために、同じ工夫をしても変化を持たせられない場合があるのです。
したがって、同じようにパターン化された書き出しから脱却するためには、読書や暗唱によって語彙をふやしていく必要があります。
ところが、読む力をつける学習は、それが作文という形で効果が表れるまでにかなり時間がかかります。目に見える効果は忘れたころにやってくると考えて、気長に取り組んでいくことが大事です。
さて、生活作文のときは、事実中心の文章なので書き出しの工夫がしやすいのですが、説明文や意見文の場合も、もう少し発展した形で書き出しの工夫を生かすことができます。
特に、堅い論説文のような場合に、情景の書き出しをうまく使うと効果的な書き方ができます。さらに、「書き出しの結び」という方法で書き出しのキーワードを結びの意見と結びつけると、論説文でも印象的なまとめ方ができます。しかし、もちろんその場合でも、文章の中心は、広がりのある実例と、自分なりに考えた意見です。
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無の文化が、有の文化の持つ策略性を包み込むために必要なのは心眼力です。というと、何かあてのない話だと思う人も多いと思いますが(笑)。
無の文化には、相手と共感する性質があるので、その共感の技術を発達させれば、相手の人間性を感じ取ることができるようになります。この心眼力の開発が、無の文化における新たな知的テクノロジーになります。
既に、そのための萌芽的な試みは、さまざまなところで生まれています。今後は、それらを明確な方法論を持った知的技術として開発していくことです。
正直者のインディアンが、策略好きの白人に負けないようにと、自分たちも策略の方法を身につける必要はありません。インディアンは、正直なまま、ただ人間性の高い白人とだけ交渉をすればいいのです。
日本の場合は、政治、経済、メディアなど、国の中枢を担う分野におけるリーダーの人間性を正しく評価することです。この分野で、外国からの謀略に加担してしまうような人間性の低い人を社会の前面に出させないようにすることです。
次に、無の文化が、有の文化の強力な武器を包み込むために必要なことは何でしょうか。
日本は、米国、中国、ロシア、韓国、北朝鮮など強力な軍事力を持つ国々に囲まれていながら、国を守る手段として独自の判断で行動できる軍隊を持っていません。また、日本の周囲の国々は、核兵器を持って日本をおびやかしているのに対して、日本は核兵器を持たないという原則を貫いています。
しかし、日本が、核に対しては核で対抗すると考えるならば、人類の平和に向けての進歩は大きく遅れます。日本は、平和な無の文化を持ったまま、野蛮な核という武力に対抗できるのでなければなりません。
この困難な道を進むためのいくつかの方法があります。
一つは、核兵器などの武器を無力化する技術の開発です。
もう一つは、国際政治の場で、国家における核兵器、個人における銃火器を廃絶させることです。
そして、第三に、荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、宇宙連合との協力の可能性を考えることです。「おいおい」という声が聞こえてきそうですが(笑)。
しかし、宇宙連合というのは、決してSFの世界の話ではありません。それは、次のように考えてみればわかります。
もし、将来、人類が平和な地球を作り、科学を更に発達させ、地球以外の星に日常的に出かけるようになった場合、どういう事態が予想されるでしょうか。
2010年に惑星探査機「はやぶさ」が小惑星イトカワに行って帰ってきたぐらいですから、人類が戦争をやめて宇宙開発に専念すれば、宇宙旅行が日常化する状態は、現在のほとんどの人が生きている間に実現する可能性を持っています。
人類が宇宙旅行を始めてすぐに遭遇するのは、自分たちと同じように宇宙探検を始めたばかりの宇宙人、地球人よりもずっと前から宇宙に進出している宇宙人、地球人よりも遅れてまだその星の中で抗争を続けている宇宙人などでしょう。
すると、そこで想像できるのは、宇宙開発を始めるぐらいに科学の進んだ宇宙人は、互いにルールを作り、宇宙の平和な発展を守るために協定を結んでいるだろうということです。
そのルールの第一は、平和維持の原則です。もし、進んだ宇宙人どうしで利害の不一致があった場合でも、平和的な交渉で解決するというルールです。
第二は、自律性尊重の原則です。自分たちよりも遅れた科学を持ち、その惑星内でまだ同種族の抗争を続けているような星であっても、その抗争の一方に加担したり、その星を植民地にしたりしてはならないというルールです。あくまでも、その星の住人が自分たちで自分たちの運命を決めるのを見守るという立場です。
第三は、もし宇宙の平和に大きな影響を及ぼすような、進んだ科学とエゴイズムと好戦的な性質を持った宇宙人が新たに宇宙空間に進出しそうな場合は、自律性尊重の原則の例外として、宇宙連合がその宇宙人を封じ込めるというルールです。
地球では、今、自分たちの住む地球を何度も破壊するほどの核兵器を持ち、自国の利益だけを第一に考え、他国を対象物としてしか見ない、有の文化に染められた多くの国々があります。その一方で、核兵器を持たず、武力による解決を放棄し、他国との共感を持つ、無の文化を保持する、日本をはじめとする少数の国々があります。
宇宙連合がもし存在するなら、この惑星地球の自主的な運命の選択を尊重しつつ、心の中では、無の文化を持つ平和な少数の国々を応援しているはずです。
策略と強力な武器を持つ野獣のような国家群が、正直で武力を持たず共感によって生きる少数の国家群に対峙し、その野獣の大国が、平和な国々の最後の砦である日本をのみこもうとしているというのが現代の世界の構図です。
この構図の中で、日本は、自らも新しい野獣となって、世界のパワーオブバランスに参加するのか、あるいは無の文化を発展させて、有の文化を持つ軍事的な大国を包み込むのかという選択に迫られています。
江戸時代のように鎖国をして平和な小国として生きるという選択肢は現実的ではありません。大陸間弾道弾の存在する世界では、広い海はもはや何の防波堤にもならないからです。
日本の無の文化が武力による対抗という誘惑を捨てて、平和な国家として世界のリーダーとなる決意をすることが、今、地球人たちばかりでなく、宇宙人たちからも求められているのだと思います。(つづく)
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これから受験の作文小論文に臨む人の最後の勉強法を説明します。
これまでの言葉の森新聞にも関連する記事がありますので、読んでおいてください。例えば、「
言葉の森新聞2010年11月3週号」の記事などです。
これまで作文を書く練習をしてきた人は、もう今から新しい課題に取り組む必要はありません。自分がこれまで書いたものが最も優れた教材です。自分が書いてきたものをファイルして、それを毎日繰り返し読み、いい表現やいい実例だと自分が感じたところに赤ペンなどで線を引いておきます。
作文を書く感覚に慣れておくために、毎日1本、指定の字数の作文を書くようにするといいのですが、新しい課題ではなく、これまで書いた課題と同じものを書いていきます。その際、時間制限を課して、できるだけ早く書き上げるようにしていきます。
受験する人は、ほかの教科の勉強もあるので、時間の余裕がなかなかないと思いますが、時間のあるときにはできるだけ本を読んでおきます。本のかわりに問題集読書でもいいです。説明的な文章を読んでいると、作文の課題として使えそうな実例に偶然出合うことがよくあります。
作文試験の会場では、試験の始まる直前まで、これまでに自分が書いた作文のファイルを読んでおきます。時間があれば、持ってきた本も読んでおきましょう。
作文試験は、教科の試験と違い、出された課題と自分との相性によって書きやすさが大きく変わってきます。しかし、言葉の森で勉強した人は、構成的に考えて書く書き方を身につけていますから、書きにくい課題が出たら、逆にチャンスと考えていくとよいと思います。自分が書きにくいと思うときは、みんなもそう思っています。だから、書きにくいなりに、全体の構成がはっきりわかるように書いていけばいいのです。
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無の文化は、日本の社会の中でしか存在することができません。無の文化と有の文化が遭遇すると、無の文化は、有の文化によって一方的に収奪され消滅してしまうからです。
かつて無の哲学が生まれたインドや中国においても例外ではありません。極東の端にあり海から隔てられた日本だけが、かろうじてユーラシア大陸の有の文化とは距離を置いた無の文化を保ち続けてきたのです。
しかし、日本は、これから好むと好まざるにかかわらす国際化していきます。しかも、その国際化が、これまでと違うのは、従来の国際化が、日本の工業生産物を海外に輸出する、あるいは人間が海外に学びに行くという外に出る国際化であったのに対し、これからの国際化は、海外からの移民が日本に入ってくるという内に入る国際化であることです。
有の文化に住む人間にとって、無の文化に住む人間は、一種のカモです(笑)。笠地蔵がのんびりと平和に暮らしている里に、次々とハゲタカがやってくるというのが、これからの国際化のイメージです。穏やかな文明人の老人が暮らしているところへ、武器を持った野蛮な若者が押し寄せるイメージと言ってもよいでしょう。
古代の日本の社会では、これまでも同様の移民の流入がありました。しかし、海に囲まれた日本には、流入する人口に制約があったために、年月を経るうちに、少数の侵略的な有の文化は、日本の無の文化の中に解消し、有の文化の知的技術的な刺激だけが日本の文化の中に取り込まれていきました。
ところが、今後予想される海外からの移民は、これまでとは規模が異なります。そのような中で、日本は、自国の無の文化をどのように守り、発展させていったらいいのでしょうか。
鎖国という選択肢は、進歩を否定することにしかなりません。日本が自らも有の文化に変身するという選択肢は、日本のよさを否定することです。優しい文明国の老人の無の文化が、武力を持った野蛮な若者の有の文化を包み込む中で、有の文化も生かした無の文化を作っていくことがこれからの課題です。
有の文化が、なぜ一方的に無の文化を収奪することができるのでしょうか。それは、有の文化が、相手を対象物として見ているのに対して、無の文化は、相手を自分と結びついた全体の一部として見ているからです。
相手を利用の対象と考える文化と、相手を共感の仲間と考える文化では、利害関係の相違は、そのまま支配被支配の関係につながります。正直者のインディアンは、策略を弄する白人の前で、多くの場合無抵抗で居住地を奪われ文化を滅ぼされていきました。
有の文化が無の文化を一方的に支配できるのは、有の文化には、無の文化があまり持っていない独自のツールがあるからです。そのツールの一つは策略で、もう一つは強力な武器です。
有の文化は、互いの抗争の中で、武器を発達させることに強い関心を持ってきました。しかし、無の文化は武器を発達させることにはほとんど関心を持ちませんでした。
織田信長の時代、日本は、ヨーロッパよりも優れた鉄砲の技術と戦術を持っていました。しかし、天下が統一され無の文化が復活すると、鉄砲の技術は発達を停止し、日本刀の芸術的な面だけが進化していきました。
武器を持たない平和な無の文化が、優れた武器を持つ野蛮な有の文化を包容し、正直な無の文化が、策略にたけた有の文化を包容するためには、何が必要なのでしょうか。(つづく)
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人間の脳には、かなり高い可塑性があるようです。脳力は、生まれつきという面ももちろんありますが、その後の教育の仕方で大きく変わる面も持っています。
生物の成長には臨界期というものもありますが、人間の場合は、その臨界期もある程度修正できるようです。
「赤ちゃんに読みをどう教えるか」(グレン・ゴードン)という本の中で、いくつかの参考になる実例が挙げられています。
一つは、脳の生まれつきの障害で、大脳の半球を切除した子供たちのその後の経過です。特別の教育をしたわけではないのに、成長してから平均以上の知力を示した子が何名もいました。また、中には、きわめて高度な知能指数を持つようになった子もいたそうです。
もう一つは、教育によって、生まれつきの脳障害が著しく改善した例です。生まれながらの重度の脳障害で、2歳のとき、医者から、将来歩くことも話すこともできないだろうと診断された子が、3歳から両親の話しかけ、読み聞かせ、そして文字を読ませる教育によって、5歳になったころには、健常児よりもすぐれた理解力を示すようになり、6歳には普通の子同じように歩けるようになったということです。
これらの例を見ると、脳は決して能力の貯蔵庫のようなものではなく、一種のアンテナのようなもので、脳の細胞の数に比例して脳の力が決まってくるというようなものではないようです。
以上は、脳に障害のある子の例でしたが、器質的な障害がある場合にも、その後の教育によって脳の機能が大きく改善し障害を克服できるとしたら、健常児の場合も、教育によって更に大きな進歩があるはずです。
世間でよく言われる頭のよい子というのも、決して生まれつきのものではなく、読み書きの教育によって成長する能力なのだと思います。
また、脳の活性化は、子供の教育ばかりではなく、大人の教育や更には老人の介護にも役に立ちます。
肉体の機能は、使わなければ退化していきます。走る練習をすれは、筋力や心肺機能が鍛えられるように、脳の力も、脳に適した方法で働かせることによって、より鍛えられていきます。
脳の運動として、最も活発な運動を必要とするものは、やはり、進化的に脳の最も最後になって発達した言語の機能です。
老人の脳の活性化のために、子供の教育と同じような方法が使えるとすれば、話しかけること、質問すること、読み聞かせをすることなどが脳の運動につながります。
このような理由で、本を読む生活、文章を書く生活をしている人の脳力は、いつまでも若々しい状態を保っているのです。
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こんにちは
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無の文化を、教育の分野にあてはめて考えてみましょう。
教育の中で、育てることが共通して期待されている人間の資質は、勇気、知性、愛、創造だと思います。これらのそれぞれに、有の文化的な考え方と、無の文化的な考え方があります。
以下の説明は、わかりやすく図式的に書いているので、現実には多くの例外もありますが、基本は変わりません。
有の文化における勇気とは、我慢の勇気です。人間という主体が、障害物や外敵という対象に遭遇したとき、それらの外部の対象に負けないようにがんばるということが有の文化の勇気です。
これに対して、無の文化における勇気とは、「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という無私の勇気です。自分を、自分よりも大きいもの、名誉や主君や祖国や仲間のために投げ出すことが無の文化の勇気です。
有の文化における知性は、論理の知性です。Aという対象とBという対象がどのような論理でつながっているかという関数の知性です。
これに対して、日本の無の文化の知性は言挙げしない非論理の知性です。それは、ある対象が、その対象をとりまくすべての世界、つまりその対象にとっての無とつながっていることを静かに観照する観察の知性です。
有の文化における愛は、合理主義の愛です。愛が、結局は、自分にとっても相手にとってもプラスになると判断した上での愛が最初にあり、それを「最後の審判」という評価によって天国の世界にまで拡大したものが有の文化における愛です。もちろん、イエス・キリストに見られるような無償の愛もありますが、このような愛はむしろ例外的なものだと思います。
これに対して、日本の無の文化における愛は、共感の愛です。自分が、自分以外のものによって生かされているように、相手もまた相手以外のものによって生かされていると考え、自分も相手も味方も敵も、更には人間も動物も、等しく全体の一部だと考えるところから来る共感の愛です。
有の文化における創造とは、ビジョンの創造です。主体である人間が、人間をとりまく世界に対して、自己を主張するビジョンを打ち立てるというのが欧米の創造です。
これに対して、日本の無の文化における創造は、すべては既に完全なものとしてあるという世界観を前提にしています。その完全なものを発見し、模倣し、それを人間の生活に合わせて微調整することが、無の文化における創造です。日本人が、革新的な大発明よりも、小さな改良的発明が得意なのは、創造というものに対する文化が違っているからなのです。(つづく)
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