哲学の話というと、このホームページの記事としては、内容にギャップを感じるかもしれません。(^^ゞ しかし、私はいつも、ものごとは根本的に考える必要があると思っています。言葉の森が、これからどういう作文教育を行っていくかを考えるとき、人間と世界とは何かという哲学が必要になります。
今回は、その哲学的基礎を述べていきたいと思います。
内容はすべて、自分が考えて確信を持ったものだけにとどめ、あいまいなことは極力書かないようにしていきます。
しかし、これは学術的な論述ではなく、ただ自分で納得するために考えたことなので、論議を補強するための必要以上の論証は行いません。また、わかりやすい具体例も入れられればなおよいとは思いますが、そうすると話が長くなってしまうので、ほとんどは基本的な骨格だけで話を進めていきます。ただし、もし具体的な例を聞きたいという質問があれば、それはそのときに答えたいと思っています。
以下の記述の大きな流れは、ヘーゲルの論理学のスタイルと似ていると思います。私の考えの進め方は、20代に読んだヘーゲルから大きな影響を受けていると思うからです。しかし、単なるヘーゲルの援用ではなく、すべて自分の中に消化されたものとして書いているので、どこからどこまでがヘーゲル的かということはよくわかりません。今さら読み返すのも大変なので(笑)。
文章は、常体になりますが、これは自分がひとりで考えるときは常体で考えているからで、敬体になるとたぶん考えが滞りがちになるからです。
さて、ここから、始まり。
最初に無があった。無があるとは、別の言葉で言えば何もなかったということである。(だからどうした、というつっこみが入りそうだが。)
最初のものごとの定義として、何かがあったとしてもよいし、何もなかったとしてもよい。しかし、何かがあったとすればそれは空虚な全体があったか、あるいは同じことだが何もなかったかということである。
この何もなかったということと、空虚な全体があったということは、実は、量子論的に述べると同じことなのだが、それはあとで述べたい。
わかりやすくひとことで、最初に無があったということで話を進めていくと、次のようなことが言える。
無があったということは、無があり続けたということだ。無があり続けるということは、無が、無でないものに抗して無であり続けたことであるから、無があるということそのものが、無がないこと、つまり有があることを前提にしていたということである。
この有をイメージとしては、物質の最小の単位として定義される量子のようなものと考えてもよい(現代では量子よりも小さい構造が存在するという説もあるが、このことについては保留して話を進める)。
無があるがゆえに有があったということは、あくまでも論理的な話のスタートであって、それが具体的に世界の最初の状態を説明しているわけではない。また、この段階の話は、まだ現実の物事の説明に適用するほどの具体性を持っていないから、適当に読み進めていってもかまわない。しかし、この考え方の道筋は、あとからより重要な具体性に結びついていく。
何らかの有があるということは、その有を量子のような極小の球体のようなものをイメージすればわかるように、必ずその有の大きさを持つ。量子のような最小のものであっても、その最小なりに最小の直径を持つということは、直径の向こう側のA点とこちら側のB点という2つの点を持つということである。
こうして、1つの有から2つの有が生まれる。すると、そこに1つの有と2つの有との関係という3つめの有が生まれることになり、その3つめの有と最初の有との関係から、4つめ、5つめ、6つめの有が生まれるということである。このようにして、1つの有は、そのまま多数の有となる。
さて、最初の無があるということは、空虚な全体があるということであり、それがそのまま最小の有があるということであった、ということを量子論的に説明すると、次のようなことになる。
量子の世界では、ド・ブロイ波の公式があてはまると言われている。それは、波長λ=h/mvという式で表される(hはプランク定数。mは質量。vは速度)。
空虚な全体があるということは、空虚な全体があり続けたということであるが、それは空虚な全体の大きさを波長とする波があったと見なしてもよいのではないか。すると、その波長に対応する極小の質量と速度を持った粒子がそこに誕生する。巨大で空虚な全体は、巨大で空虚な波として考えれば、極小の有と同義だったということである。
このように考えると、無と有と全体と個は、ただそれだけの論理によって、つまりほかの媒介を一切必要とせずに、説明することができる。
ここまでが話の前提である(笑)。長かった。
ここから、話がやや具体的に。
1つの有は、そのまま多数の有を生み出す。
すると、やがて多数の有の間に、関係が生まれる。例えば、有Aと有Bの間に関係Cが生まれるとする。
この関係Cが反復して生成されるとき、その反復をひとつの波として考えると、やはりλ=h/mvの関係と同じように、関係Cの波長を持つ粒子C’が存在すると考えることができる。
つまり、関係の反復は実体になるということである。ここから、現代の科学ではまだ説明しにくいさまざまな現象を説明することができる。
例えば、ある事Cが起こるとする。事Cとは、物Aと物Bとの関係である。すると、その事Cを波とする物Cも同時に生まれている。物Aと物Bは、その事Cが終わればなにごともなかったように、もとの物Aと物Bに戻っていると思うかもしれないが、実は物Cは物として残っている。そして、物Cは公式の上では事Cに換算することができる。だから、事Cが何度も反復されればそれだけ、物Cも強固になり、事Cはより反復されやすくなると考えられる。
この、反復が実体となるということが、世界の進化の最も根本的な動因である。
さて、有と有との関係が実体化したものを存在物と呼ぶことができると思う。ここでやっと抽象的な有から、具体的な物が登場する。
この存在物もまた、他の存在物との間に関係を持つ。その関係が反復され実体化され、世界にはさまざまに複雑な物が生まれるようになる。これが最初は無であった世界が多様性を持つようになった理由である。
やがて、存在物と存在物の関係の中に、成長する関係が生まれる。それは、例えば、鉱物の結晶のようなものである。また、存在物の関係の中に、自らの形を再生産する関係が生まれる。それは、例えばフラクタル図形のようなものである。この成長と再生産の関係が組み合わさって実体化したものを生命と呼ぶことができる。生命の定義は、成長と再生産だからである。生命の誕生の理論的説明は、このように考えることができる。
生命は、最初は単なる成長と再生産であるから、まだ抽象的なものである。しかし、やがてその生命が、他の存在物や他の生命と一定の関係で結びつくことによって成長と再生産を行うようになるとき、つまり生命が環境との相互関係の中で成長と再生産を行うようになるとき、その生命は具体的な生物の種となる。
だから、例えば、スズメは、成長するとしても無制限に大きくなるわけではなくせいぜい手のひらに乗るぐらいのサイズの成長にとどまり、また、再生産すると言っても世界中がスズメで埋め尽くされるような再生産ではなくせいぜい年に何回か数個の卵を生むぐらいの再生産にとどまるのである。これは、スズメが単なる抽象的な生命ではなく、環境との相互関係を実体化した具体的な生物種だからである。(何をあたりまえのことを言っているんだと言われそうだが)
さて、生物種を簡単に生物と言い換えて話を進めると、生物の中には、自分の身体の内部に成長と再生産の方法を持つだけではなく、身体の外部に方法を持つものがいる。例えば、貝を石で割るラッコ、木の枝を集めて巣を作る鳥、イモを洗って食べるサルなどである。
このように自分の身体の外部に道具と方法を持つという関係は、生物の身体の中には存在しない。それは、生物の身体からは独立した関係であるが、生物の成長と再生産に分かちがたく結びついている。生物の持つこの生きるための方法という関係が意識の始まりである。
人間は、生存を外部の方法にきわめて多く依存している生物である。人間は、服を着たり、家を作ったり、火を起こしたり、道具を持ったりしなければ、人間として生きていくことが難しい。このように多くの方法に依存した生物は、人間以外にはいない。
しかし同時に、人間は、これらの方法を、声や動作や図形や記号によって表すことができる柔軟な発声器官と手足を持っている。この、豊富な方法を必要とする脆弱な身体と、それらを表現する柔軟な表現力とを持つ身体のゆえに、人間は言語を持つことができた。
だから、道具との関係という方法の実体化したものが意識であり、その意識が言語という形で更に強固に実体化したのである。
やがて、言語は、言語と言語の関係を持つようになる。この関係が理解であり、意識は理解によって更に実体として独立したものになっていく。(しかし、この意識の始まりから言語への話は、更に詳しく考える余地がある。)
ところで、最初に述べたように、物には物としての性質と波としての性質があり、それは相互に換算できるものであった。この物と波との関係を、生命や意識にもあてはめることができるのではないか。つまり、生命も、物と波の両方の性質を持ち、意識もまた、物と波の両方の性質を持つということである。(ちょうど、最近、イギリスのノーベル賞化学者が、DNAが弱い電磁界の中でテレポートするという研究結果を発表した。これも、生命が物と波の両方の性質を持つからだと言えるかもしれないが、まだ確実な事実ではない。)
ここから、意識の活用の仕方についての大きな示唆が得られる。
人間の生活は、単に物理的な環境や身体的な条件だけでなく、意識の持ち方によって大きく左右される。例えば、同じように雨が降っている暗い日にも、明るい気持ちを持ち続けることのできる人がいる。
もちろん、物理的な条件は人間の生活を左右する最も大きな要素だから、意識の価値を過大評価するべきではないが、現代の社会ではまだこの意識の活用の仕方についての研究が十分には進んでいない。
これは、教育についても同様で、やる気のある短時間は、やる気のない長時間よりはるかに優れているというのは、多くの人が知っている。しかし、どうしたらこのやる気を活用できるかということについては、未解明の部分がほとんどである。
しかし、今回、物から意識への発展が一応基礎づけられたと思うので、今後はこの土台の上に意識の研究を進めていきたいと思っている。(おしまい)
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吉田松陰の「留魂録」は、松陰が処刑される前日に、門下生に向けて書いた約5000字ほどの手紙のような書です。半紙を四つ折りにして十九面に細書きしてコヨリでとじて冊子にしてあります。
この書の初めに、松陰の和歌が書かれています。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置(とどめおか)まし大和魂」。
この書は、内容ももちろん心を打ちますが、私はそれ以上に、これを十数年も守り続けた囚人沼崎吉五郎(ぬまざききちごろう)の生き方に感銘を受けました。
松陰と同じ獄舎にいた牢名主の沼崎は、処刑の前日、松陰に次のように頼まれます。「自分は、(この書を)別に一本郷里に送るが、無事に届くかどうか危ぶまれる。そこで、(あなたが)出獄したらこの書を長州人に渡してもらいたい」と。
松陰の「留魂録」は、門下生らによって郷里の萩に送られ、ひそかに回覧されますが、やがて所在が不明になってしまいます。
もう一本の書を預けられた沼崎は、その後三宅島に流されます。十数年後、幕府が倒れ、沼崎は流人の身から解放され本土に戻ることができましたが、既に老人になっていました。
神奈川県の権令(ごんれい)という役職にいた野村靖という松陰の門下生のところに、沼崎が突然訪れたのは、松陰の処刑から十七年もたったころでした。
沼崎は、野村に、「貴殿が長州人と聞いたので」と、変色した「留魂録」を渡すと、そのまま静かに去っていきました。
私は、ここに、目先の損得や欧米流の合理主義とは異なる、人間どうしの義を重んじる生き方の強さを感じました。
日本は、今、不況に沈み、格差は拡大しています。子供たちの教育も、果たして確実に行われているのかどうか不安が残ります。
しかし、日本が今後復活するための最も確実な土台は、経済力よりも、学力よりも、何よりも国民一人ひとりが、相手の信頼に応えるという、この義の精神を失わないことだと思いました。
では、なぜ、「経済力よりも」なのかというと、経済力は今後の工夫次第で必ず発展させることができるからです。それも、中国依存や移民拡大というような方向ではなく、日本独自の工夫で内需の拡大ができるようになるはずです。
また、なぜ、「学力よりも」なのかというと、学力は、よりよい社会を作るための必要条件ではないからです。もちろん、将来の日本は学力の大国にしていかなければなりません。それは未来の子供たちの教育にかかっています。しかし、今の若者たちの学力に不安があるとしても、学力の不足は信頼感さえあれば補うことができます。
「葉隠」の中で、山本常朝は、人間に必要なものとして「勇・知・仁」の三つを挙げ、「知」とは、「人に相談することだ」と述べています。社会の中に信頼感さえあれば、学力の不足は克服できるのです。
日本の社会の治安のよさは、先進国の中では群を抜いています。タクシーの中に置き忘れた財布が、無事に持ち主のところに戻るだろうとほとんどの人が思っている国は日本だけです。
私たち大人の役割は、この信頼感を確実に守り、その土台の上に、新しい経済力と学力の花開く国を作っていくことだと思います。
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「遥かなり三宅島」吉田松陰「留魂録」外伝(永富明郎著)
吉田松陰先生の真筆「留魂録」を世に伝えた人は、松陰先生が投獄された折の牢名主沼崎吉五郎であった。
「留魂録」を託されてから17年後、門人野村靖に「留魂録」を手渡し松陰先生との約束を果たした。
沼崎吉五郎は、至誠の人であり、松陰先生にとって恩人でもある。
この沼崎吉五郎に対する長州人の「惻隠の情」の欠落を嘆き、小説として取り上げたものであり、松陰先生没後153年、著者永富明郎氏が長州人として沼崎吉五郎の厚志に報いた書でもある。
mino阿弥さん、貴重な情報をありがとうございます。
こういう形で、歴史に残らずに自分の義務を貫いた人が維新の時代には数多くいたのでしょうね。
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2月3日(木)、東京でセミナーがあったので、片道1時間、手持ちぶさたにならないように本を2冊持っていきました。
行きは、吉田松陰の「留魂録(りゅうこんろく)」を、帰りは、「下流社会」(松田展著)を読んできました。
電車の中では付箋読書はしにくいので(するときもありますが)、シャーペンで線を引きながら読んでいます。あとで、この線を引いた箇所だけ読み返せば、2回読んだのと同じです。読んだ本の定着度が、かなり違ってきます。
さて、東京でのセミナーの内容は、「Web戦略をどう進めるか」というような内容のものでした(本当のタイトルは、少し違いますが)。2005年ごろのWeb状況と今の状況は、大きく変わっているという話を聞いてきました。例えば、今、習い事を探すのに「ケイコとマナブ」を見るような人はいず、すべてインターネットになっているというようなことでした。
言葉の森のWeb開始は、1996年ですから、インターネットの本当の黎明期です。当時は、Yahoo!の学習塾というカテゴリーに、数えるほどのサイトしかありませんでした。言葉の森のサイト開設は、たぶん学習塾のようなところではいちばん早かったぐらいだと思います。
Webを動的なページにするために、PHPとMySQLで全ページを作り直したのも、言葉の森が最も早く、コンピュータの専門の業界の人から、「今度うちの会社もウェブデータベースを入れようと思うのですが、言葉の森は、なぜMySQLにしたのですか」という質問があったほどです。(当時、MySQLは少数派でしたから)
その後、プログラミングを独学で勉強し、調子に乗って作文の自動採点ソフトを作り、やがてソフトの特許も取得しました。また、言葉の森のホームページをブログ仕様にしたのも、まだブログが普及していなかったころです。
しかし、そのように先進的に取り組んでいたインターネットにも、だんだん飽きてきて(笑)、今いちばん関心を持っているのは、人間の知的能力の開発についてです。そのため、インターネットの開発の方は、あまり手をかけなくなりました。その結果、現在の言葉の森のサイトは、ごちゃごちゃしてかなり見にくく、動作も不十分なものが多くなっています。いずれ時間をとって、もっとすっきりしたものにする予定です。(^^ゞ
東京のセミナーで聞いたことは、「これからは、SEOではなくSGOだ」ということでした。(SEO=サーチ・エンジン・オプティマイゼーション。SGO=ソーシャル・グラフ・オプティマイゼーション。グラフとは、人間どうしの関係の図のようなもの)
これは、私もかなり前から思っていたことで、これからは宣伝のよしあしよりも、やはり本物が生き残るというという社会になっていくのだと思いました。
しかし、ソーシャル・グラフというと、人間どうしのコミュニケーションの得意な人が活躍しそうな気がしますが、そういう状態は初期のうちだけです。
人間が他の人間になぜ関心を持つかというと、その相手がおもしろいことを言うからです。おもしろいことというのは、独創性や創造性のあることです。その独創性や創造性が基本にあって、そのあとそれを補強するものとして、コミュニケーションのリテラシーがあるということです。
作文も同じです。表現力というのは確かに大事ですが、それはあくまでも表現する当の内容の価値を伝える手段であって、表現力そのものが価値あるものなのではありません。
というようなことをふと考えました。(つづく。次回は「留魂録」と「下流社会」について)
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第三の違いと第五の違いの間で、第四の話が抜けていました。
第四は、小学校1年生から、高校3年生までの長期間の展望を持って作文指導をしていることです。
言葉の森は、もともと大学生の文章指導の教室からスタートしました。それを、高校生や中学生や小学生の作文指導にも広げていったのです。ですから、最初のころの小学生の指導は、かなりレベルの高いものでした。小学校4年生のぐらいの子に、今の6年生が勉強するのと同じようなことを教えていました。しかし、当時の子供たちはなぜか、どの子も文句を言わずに勉強していました。
今、学校や他の国語教室などで教えている作文は、その学年で上手に書くことを目的にしたものが多いと思います。小学生が、小学生のときに上手な作文を書くことももちろん大切ですが、もっと大切なのは、中学、高校に進んだときに必要な力をつけていくことです。
わかりやすい例で言うと、生活作文における情景や心情の描写力は、小学生のときには高い評価を受けますが、中学生や高校生になったときに書く意見文や論説文の文章ではあまり書く機会が出てきません。意見文や論説文で重要になるのは、社会実例を幅広く入れる力や、自分の意見に対する反対意見を考える力などです。
一般に、女の子は、会話やたとえや心の動きなどを上手に書くことができます。男の子は、そういうことにはあまり関心がなく、それよりも、数字や名前など堅い説明を書くことに関心を示します。これは、文章力の差ではなく、興味や関心の差なのですが、小学校の間は、女の子的な作文の方がずっと高く評価されます。
しかし、言葉の森では、中学生や高校になったときの展望があるので、数字や名前や説明中心の味気ない男の子の作文にも、将来優れた意見文を書く素質があることを見抜きます。学校の先生やお父さんやお母さんが、決して上手だと思わないような作文の中に、実は将来伸びる可能性があるのを見ることができるのです。(おわり)
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東工大の後期の小論文入試の過去3年間の問題は、次のようなものでした。(テーマのみ。実際の問題は100-300の短い文章や図)
○2010年「河川管理のあり方(災害防止と環境整備について)」
○2009年「経済成長率と人々の信頼感の関係」
○2008年「食品産業での偽装の社会的背景と対策」
これらのテーマを見ると、その話題について何らかの予備知識がないと書けないような気がします。
取り上げられた課題は、その年の主要な時事問題と絡んでいますから、予備知識の対策が立てられないわけではありません。しかし、受験生が日々のニュースに関心を持ち、新聞を読むというような余裕はまずありません。まして、関心のある時事的な話題について、自分の考えを深めるために参考になる本を読むというようなことは通常はありません。予備知識がある人は、たまたま偶然その話題に関する知識があったというだけでしょう。
では、なぜこのような予備知識の有無によって出来具合が大きく違ってくる小論文課題を、大学側は出題するのでしょうか。それは、後期の試験での選抜の基準を次のように考えているからだと思います。
| 予備知識ある | 予備知識ない |
文章力ある | ◎ | △ |
文章力ない | × | × |
つまり、本当は文章力(思考力)のある生徒を採用したいのですが、予備知識の有無にかかわらず文章力のある人を選抜するのは大変なので、予備知識のある人の中で文章力のある人を選抜するようにしたということです。だから、文章力はあるが予備知識のない人(△の人)は、実力はあるが合格しなくてもやむをえないということです。
こうなると、予備知識をつけるための勉強を今からしなければならないかという気がしてきます。実際に、過去問の載っている赤本の解説にも、「様々な社会問題について関心を持とう」などと書いてあります。しかし、受験生が様々な社会問題に関心を持っている余裕はありません。
ところが、これらの課題は、実は小論文の力がある人であれば、予備知識はほとんどなくても書けるのです。それは、与えられたテーマを立体的に考え、構成的に書く方法によってです。
例えば、河川管理のあり方についてであれば、災害防止と環境整備の割合を(1)過去、(2)現在、(3)未来にわたって論じ、そのそれぞれについて背景や対策を考えるというような書き方です。
経済成長率と信頼感の関係では、(1)成長率が高く信頼感が高い国、(2)成長率が低く信頼感が低い国の原因分析を中心に、(3)成長率が低いのに信頼感が高い国、(4)成長率が高いのに信頼感が低い国の分析を行っていくことです。このように論点を4つぐらいに分けると、1000字ぐらいの小論文を書く見通しが立ちます。1000字120分という枠ですから、文章力のある人であれば、字数も時間も比較的余裕があります。
食品産業での偽装については、考えられる原因を、(1)途上国の追い上げ、(2)内部告発意識の高まり、(3)顧客志向から利益志向へ、(4)保存加工技術の進歩など4つぐらいに分け、そのそれぞれについて250字ずつ書いていけば1000字の小論文になります。
このように、本当に考える力があれば、予備知識がなくても、構成のはっきりした小論文を書くことができます。構成が明確で、わかりやすい小論文であれば、予備知識の裏づけがなくても合格圏内に入る文章を書くことができます。更に、表現力のセンスがある人でしたら、考え方の光る意見を書くことができます。これで合格の確率はかなり高まります。
小論文対策は、予備知識をつけることよりも、普段から考える力をつけ、表現力をつけておくことなのです。
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言葉の森が行っている独自の指導法には、構成作文、森リン採点などのほかに、暗唱指導、問題集読書などの自習の指導もあります。
言葉の森では、世間で音読の重要性が唱えられるずっと前から独自に長文音読の指導をしていました。しかし、真面目に長文音読をする子は実力がつくのですが、音読は飽きやすいという弱点がありました。
そこで考えたのは、暗唱です。音読にしても、効果があるのは、同じ文章を繰り返して読み、その文章を丸ごと自分のものにしたようなときです。しかし、学校などで行われている音読のほとんどは、教科書に載っている文章を何度か音読するだけで、とても丸ごと自分のものにするところまではいきません。そこで、音読よりも、最初から暗唱を目標に文章を読むようにしたのです。
暗唱といっても、何も方法がない中で、ただ暗唱してきなさいと言ったのでは、ほとんどの子が挫折します。言葉の森の暗唱は、毎日10分の練習だけで、例外なくだれでも1000字の文章が覚えられる暗唱です。ただし、大事なことは文章を覚えることではなく、覚えることを目標にする中で同じ文章を繰り返し読むことです。
同じ文章を繰り返し読むことが目的ですから、方法は、読書でも、音読でも、暗唱でも何でもいいのです。しかし、黙読で同じ文章を繰り返し読むということは、その文章によほど興味がないかぎりなかなかできません。また、音読も繰り返し読むということをしっかり自覚していないとまずできません。その点、暗唱は、覚えるという目標がはっきりしているので、繰り返し読むことが自然にできるようになるのです。
ただ、暗唱もやはり同じように毎月1000字の文章を暗唱できるようになるだけでは変化がなくて飽きる面もあります。そこで、今後は、暗唱検定のような形で成果がはっきりわかるような工夫をしていきたいと思っています。
問題集読書も、言葉の森が独自に行っている自習です。これは、やり方自体は簡単で、問題集をばらして分冊にし、それを毎日4-6ページ読んで四行詩を書いてくるという練習です。これも、大事なことは、一回で終わるのではなく、最後まで読み終えたらまた最初から読み直し、1年間で1冊の問題集を4回以上繰り返し読んでいくことです。
問題集読書は、ただ読むだけでは形として残らないので、自分なりに気に入ったところを選んで四行詩を書くようにしています。しかし、毎日しっかり読んでいて、考える力のある子は、毎週優れた四行詩を書いてきますが、勉強の自覚があまりない子は、問題集を読むよりも、形に残る四行詩だけを書いてくるということになりがちな面もあります。そこで、今後は、いちばんの目的は毎日読むことで、四行詩はその副産物だということを徹底させていきたいと思っています。(つづく)
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言葉の森と他の作文教室や国語教室との違いを続けて書いていきます。
第六は、作文の添削だけではない独自のノウハウが多数あることです。
作文の添削というものは、だれでもその人の文章力や文章のセンスの範囲でだれにもできます。そこに、特に複雑なノウハウがあるわけではありません。しかし、作文の添削ができるからといって、その添削指導を何年間も続けられるかというと、そういうことはありません。数回添削をすると、上手に書ける子については、もうそれ以上特に要求することがなくなるからです。
小学校高学年以上になると、作文の指導が少なくなるのには、このような事情もあります。小学校低学年のころには、正しい表記に関することで教えることがたくさんありますが、高学年になると、よく書ける子にはもう教えることがなくなってくるのです。
しかし、教えることがなくなるのは、事前の指導の目標がなく、ただ書かせたものを添削するという方法で指導をしているからです。言葉の森の指導の特徴は、事前に、どのテーマをどういう方向でどんな表現を工夫しながら書いていくかという指導があります。その指導に沿って評価をしていくので、小学生から高校生まで一貫した指導ができるのです。
また、作文は、書く練習をするだけでは力がつかない面を持っています。読む力がない子は、語彙力も乏しいわけですから、そのような子に、書く工夫をさせるだけで上手に書かせることはできません。語彙力という土台がどれだけあるかということが、書き方を教える以前に重要です。しかし、語彙力は、ドリルのような勉強では身につきません。語彙力は、ある程度の難しさを持った文章を心を込めて読む中で身についていきます。だから、本をよく読んでいる子は、作文の勉強を始めると上達が早いのです。
言葉の森では、この語彙力をつける練習をするために、作文に使える文章を暗唱したり、難しい語彙の文章を繰り返し読んだりするという自習を行っています。作文を書く指導だけでなく、読む指導も含めていることが言葉の森の勉強の特徴です。
また、作文を書くことについても、言葉の森は独自のノウハウを持っています。構成をあらかじめ決めて書くというのもそのひとつです。言葉の森では、構成の仕方や表現の仕方について、いくつもの指導のパターンを持っています。これが生きてくるのは、受験の作文や小論文に取り組むときです。
受験の作文課題には、どう書いていいか見当のつかないような書きにくいテーマが出ることがあります。しかし、言葉の森では、どのようなテーマが出されても、そのテーマをどういう切り口で書くかということを、理屈で説明することができます。その切り口が、構成の仕方なのです。例えば、「一つの意見と複数の理由」「複数の意見と総合化のまとめ」「社会問題と複数の原因」などという構成の仕方を、テーマごとにあてはめて説明することができます。
この構成をあらかじめ決めて書くという書き方にどういう利点があるかというと、どんなに書きにくいテーマであっても、最低限の骨組みはできるということです。骨組みさえできれば、文章力のある子は、合格圏内の作文を書いてきます。合格するかどうかは、採点者の主観もからむので微妙なところがありますが、少なくとも合格圏内に入る作文は書けるというのが、この構成を重視した指導法です。(つづく)
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第五は、言葉の森の作文指導は、作文だけの専門の指導だということです。
作文教室という名前をつけているところでも、作文だけの指導をしているところは実は少なく、ほとんどは国語の勉強の一部として作文もやっているという形のところが多いと思います。それは、なぜかというと、国語であれば教えることはたくさんあるが、作文では教えることがあまりないからです。
言葉の森は、それとは逆です。国語の勉強のようなことは、自分の力だけでもできる勉強です。特にだれかに教えてもらう必要などありません。
国語の得意な生徒を見ればわかるように、それらの子供たちは国語の勉強の仕方を特にだれかに教わったから得意になったというわけではありません。学校の勉強にも、塾の勉強にも関係なく、ただ生まれつき国語が得意だったという子がほとんどです。
しかし、実は、それは生まれつきではありません。ひとことで言えば、難しい文章を読む習慣があり、その文章を理解して考える習慣があるから国語が得意になったということです。ですから、国語力は、低中学年では多読力に、高学年では難読力に比例しています。
言葉の森で勉強をしているとなぜ国語力がつくかというと、小学校高学年からは難しい長文を読んで感想文を書く勉強が中心になっているからです。
そして、更に重要なことを言うと、今の中学、高校での国語の授業における国語力には、作文力はまず含まれていません。中学、高校では、作文の授業をすること自体が難しいからです。そのため、中学生や高校生で国語が得意だと思っている生徒でも、その国語力は作文力を除いた国語力であることを自覚している人はあまりいません。
しかし、社会に出てまずいちばんに必要な国語力は、この作文力、表現力で、その次が読解力です。読解力は、正解がほぼ決まっていますから、できるできないの差があるというのは、国語の苦手な人も含んだ場合の話であって、あるレベル以上の人になれば読解力の差はなく、みんな同じように文章を読み取る力を持っています。すると、最も大きな差になるのは、作文力、表現力の方なのです。
この作文力は、他の教科の勉強と違い、独学で身につけるのが最も難しいものです。それは、作文を書く勉強というものが、他の教科の勉強に比べて負担の大きい勉強であることもありますが、それよりももっと本質的な違いは、作文というものが自分で評価できない面を持っているからです。
自分の書いた作文は、自分で評価することはできません。これが、正解が決まっている他の教科の勉強との最も大きな違いです。そのために、作文以外の教科の勉強は、よい参考書と問題集があれば自分ひとりの力でも勉強を進めていけますが、作文だけは第三者に評価してもらう必要があるのです。
言葉の森が、作文指導を専門にしているのは、このような事情があるからです。そして、作文の指導をする中で、文章を読む力も自然に育っていくのです。ただし、自然に育つとは言っても、その際の最低限の条件として、毎日何らかの形で文章を読むという習慣を作っておくことは必要です。(つづく)
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