ログイン ログアウト 登録
 Onlineスクール言葉の森/公式ホームページ
 
記事 1168番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/1/29
小1の作文は、1、2行しか書けなくても褒めてあげる as/1168.html
森川林 2011/02/12 12:33 


 幼長の子のお母さんから相談がありました。「絵はたくさんかくのに、それを作文で表すことができない」ということでした。

 しかし、そういうときは、「絵がとてもよくかけたねえ」と褒めてあげるだけです。そのあと、だから、それを作文にどう書かせるかということまで求めなくていいのです。

 小学校1年生の子の作文は、最初はみんな2、3行です。絵をかくのに1時間ぐらいかけて、作文は2行ぐらいで終わりとなると、作文の勉強という感じがしないと思います。しかし、そういう子供たちがみんな学年が上がれば自然に長く上手に書けるようになっていきます。

 勉強には、成績として出てくる結果の部分と、その結果を出すために費やした努力という原因の部分があります。

 小学校低学年の普通の勉強、つまり、計算の練習や漢字の書き取りの場合は、結果と原因が結びついています。計算の練習をするから計算ができるようになり、漢字の書き取りをするから漢字が書けるようになるという関係です。

 しかし、こういう結果と原因が結びついている勉強は、レベルの低い間の勉強です。勉強の内容が高度になると、問題を解くから力がつくということはなくなってきます。問題を解くのは結果であって、解く以前の勉強が重要になってきます。

 作文の勉強も、勉強の結果と原因が大きく離れています。ここを多くの人が誤解しています。作文を書くから作文が上達するという面は、文章を書きなれるということでは確かにありますが、作文のほとんどは、書く以前の読む力をつける中で育っていきます。

 しかし、読む勉強をしているだけでは、書く力はわかりません。そこで作文を書きますが、それはその子の実力の結果ですから、その結果を直そうとするのではなく、結果はたっぷり褒めてあげるだけにして、原因の勉強である読む力をつけるようにしていくのです。

 作文の勉強がなぜ難しいかというと、作文は、穴埋め式の勉強のような作業的な勉強ではなく、自主的に何かを考えるという勉強だからです。作文は、自分で考えて書くという勉強ですから、うまく書けないときというのはどうしても出てきます。そこで、勉強のさせ方の工夫が必要になるのです。

 その工夫には、いろいろな方法があるので、もし家で作文を書いていて、うまく書かせられないときは、遠慮なく教室に電話をして聞いてください。

 工夫の方法の共通点をひとことで言えば、子供が楽しく明るく負担なくできるようにするということです。作文の勉強でそのような工夫の仕方がわかれが、作文以外のほかの勉強は簡単です。作文の勉強は、お母さんにとっては勉強のさせ方の勉強というふうに考えていくといいのです。

この記事に関するコメント
コメントフォームへ。

同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。
小学校低学年(79) 家庭で教える作文(55) 作文の書き方(108) 

記事 1167番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/1/29
本当の合否は、あとからわかる as/1167.html
森川林 2011/02/10 15:12 


 今年、中学入試を作文試験で受けた子から不合格の連絡がありました。よく書ける子でしたし、教科の成績もよかったはずで、勉強もよくがんばっていましたから、本人も納得できない気持ちがあったと思います。

 しかし、試験とはそういうものです。実力があっても、運が悪くて不合格になることもあります。大事なのはそれからです。

 不合格になったとき、勉強をやっていて自信があった子ほどくやしい思いをします。そのくやしさがばねになって、これからの勉強に生きてきます。すると、早い子では1年もたたないうちに、第一志望に不合格になっていてかえってよかったと思えるようになってきます。そして、ほとんどの子は、3年後、又は6年後の次の入試のときにはすっかり、その最初の不合格を克服して、逆に、「あそこで不合格になっていたから、それをばねにして自分が成長したんだ」と思うようになってくるのです。

 そして、そのように自分が成長するだけでなく、不合格になったことの痛みを知っているので、自分よりも弱い人に対しても優しい気持ちを持てるようになります。

 また、いつか、自分が大人になり、人の上に立つようになったり親になったりしたときに、部下や子供の失敗をより大きな視野で見てあげられるようになるのです。

 ですから、合格不合格の結果は、ただ第一ラウンドが終わったということに過ぎません。不合格になった人が、いつまでもその不合格をひきずって、「あそこで合格していれば、もっといい人生だったかもしれない」などと思っていては、第二ラウンドでも不合格です。

 たとえ、第二ラウンドではまだすぐに立ち直れなくても、第三ラウンド、第四ラウンドで、「あそこで不合格になっていたから、かえっていい人生になった」と素直に思える日が必ず来ます。

 本当の合格不合格は、何年もたってからわかってきます。そして、あとからわかった合格が、本物の合格なのです。

この記事に関するコメント
コメントフォームへ。

同感です。 20110210  
素晴らしいアドバイスに感動しています。

森川林 20110212  
 失敗のあった人の方が味があるのです(笑)。

同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。
受験作文小論文(89) 

記事 1166番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/1/29
国語、作文の苦手はあとあとまで続く―小1から国語、作文を得意に as/1166.html
森川林 2011/02/09 20:40 


 小学校1年生の国語の勉強は、まだ初歩的なものでだれでも楽しくできると思っています。ところが、このだれでもできる国語の勉強で、小学校1年生に既に大きな差がついています。それは作文を書いてみるとわかります。

 小学校の低学年では作文をじょうずに書く必要はまだないのですが、作文を書くと、その子の国語力がその作文に表れてきます。

 低学年のころは、漢字も読解もやさしいので、国語力の差は出てきません。だれでも同じようにできるので、だれでも国語の力があると思ってしまいます。しかし、実は表面に出ない大きな実力の差があるのです。

 なぜかというと、子供たちの家庭での日本語環境の差があるからです。毎日本を読んでいる子と、毎日テレビしか見ない子とでは、日本語の語彙力に大きな差があります。ところが、低学年の国語の勉強はやさしいので、どの子も同じようにできてしまいます。

 しかし、やがて学年が3年、4年と上がり、読む文章の質が変わってきます。すると、もともと国語の得意だった子は、国語の勉強が楽しくなりますが、あまり国語の実力がなかった子は、次第に国語が苦手になってきます。

 学年が5年生以上になると、国語力の差は決定的になってきます。しかし、このころに国語の勉強を始めようと思っても手後れです。というのは、国語の勉強は成果が出るまでに時間がかかるので、いったん苦手意識を持った子は、その苦手意識を得意意識にまで変えるのはかなり難しくなるからです。

 これが、算数数学や英語など、ほかの勉強と違うところです。算数数学や英語の勉強も、力をつけるために時間がかかるのは似ていますが、やり方さえよければ、中学生になってからでも2、3ヶ月の集中学習で苦手を得意にすることもできます。しかし、国語の勉強は、そういうわけにはいきません。

 ときどき、短期間で国語の成績を上げるという宣伝をする塾がありますが、実は少しだけ国語の成績を上げることは簡単です。読解のテストのコツを教えると、だれでもすぐに成績が上がります。しかし、その上昇は、本人の実力のあるところまでです。実力そのものを引き上げるというのは、決して短期間にはできないのです。

 国語の読解力については、それでも実力を徐々に上げていく方法があります。時間はかかりますが、毎日難しい文章を繰り返し読む練習をすることで、読解の実力は少しずつついていきます。しかし、作文力を上げるのはもっと大変です。作文の苦手な子が作文が得意になるのは、読解力をつけるよりも更に難しいのです。

 最近、通信指導の教室や学習塾などで、低中学年から作文を教えるところが増えてきました。教材はビジュアルで一見楽しく勉強できそうです。しかし、悪口を言うわけではありませんが(笑)、果たしてこれで国語力や作文力がつくのかというと疑問です。

 確かに、作文を提出すれば、赤ペンの添削がついてくるでしょう。しかし、赤ペンでただ褒めるだけの添削では上手にはなりません。また、赤ペンでただ間違いを直すだけの添削でも次第にやる気がなくします。また、このようにただ書かせて赤ペンで直すだけの指導では、子供が作文を提出するという意欲を持てなくなります。

 すると、結局、楽しそうな感じがして始めてはみたものの、やはり続かなかったということになり、しばらくやっていた期間は何のプラスにもならなかったということになります。

 国語、作文の勉強は、方針を決めて取り組む必要があります。言葉の森の作文の勉強は、小学校1年生から高校3年生まで一貫した教材で行っています。そして、実際に、小学校低学年から大学受験まで言葉の森で勉強を続けられてよかったという子がかなりいます。国語、作文のようにあとまで響くものほど、最初にしっかりした方針で勉強をしていく必要があるのです。

この記事に関するコメント
コメントフォームへ。

同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。
小学校低学年(79) 言葉の森の特徴(83) 

記事 1165番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/1/29
作文が長く書けない子は書き写しでもよい as/1165.html
森川林 2011/02/08 13:40 



 作文がなかなか長く書けない子がいます。字数は実力に比例している面がありますから、長く書けない子は大体作文が苦手です。

 ただし、低学年のころ長く書きすぎる子の中には、正しい表記で書いていないという子もいます。また、高学年で長く書けない子の中には、物事をよく考えていて、文章のセンスがいいために長く書けないという子もいます。

 そういう例外はあるものの、作文の字数と作文の実力の間には、かなり高い相関があります。



 長く書けない子に対して、言葉の森の作文テストの週などに(3ヶ月に1回ある)、目標の字数まで何が何でも書くようにがんばらせると、そのあと急に長く書くことが楽になるということがよくあります。

 この、「何が何でも長く書くようにがんばらせる」という方法は実は簡単で、近くで先生や親がつきっきりになって手助けをしてあげればいいのです。

 長く書けない子は、説明風に書いてまとめてしまうことが多いので、そのときの会話などをできるだけ思い出すようにさせます。また、話が終わって一段落してしまいそうなときは、途中で昔の似た話を思い出して話題を転換します。話題の転換には、本人の話だけでなく、お父さんやお母さんの似た話も入れられます。ほかに、「どうしてかというと」「もし……だったら」「これから私は……」などという言葉をつなぎにして書かせることもできます。

 このように無理やりの方法であっても、いったん長く書かせると、次回からはその長さまでは書けるという自信がつきます。しかし、この方法の欠点は、親や先生がつきっきりで応援しないとできないということです。また、いったん長く書くと決めて親や先生が手助けをしたにもかかわらず目標の字数まで書けないで終わりにしてしまうと、かえって子供は自信をなくします。無理に長く書かせる方法は、応援する大人にもそれなりの覚悟が必要になるので、それほど気楽にはできないのです。



 ここで考えたのは、書き写し法です。

 言葉の森の暗唱長文は、小1から高3までどの学年も1000字程度で、1ヶ月の練習で1000字をまるまる暗唱することができます。この暗唱長文を利用して、自分の作文の字数不足の分を、書き写しするという方法です。

 例えば、小学校3年生の目標字数が600字なのに、300字までしか書けなかったというときは、残りの300字を暗唱長文の書き写しにします。暗唱長文は、既に頭の中に入っているので、いちいち文章を見ないでも書くことができます。特に、小学校低学年の子は、目と手と頭がまだ連動していないので、文章を目で見ながら書き写すということがなかなかできません。暗唱した長文であれば、楽に書き写しができます。

 言葉の森の学年ごとの作文の字数の目標は、小学校の学年の100倍から200倍の字数です。小1なら100-200字、小2なら200-400字、そして、小6以上は中も高も、600-1200字です。毎回の作文で、常に目標の字数までは書くということが徹底できれば、作文の力は確実についていきます。

この記事に関するコメント
コメントフォームへ。

同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。
暗唱(121) 作文の書き方(108) 

記事 1164番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/1/29
これから中学生になるみなさんに―春休み中に勉強法の本を読もう as/1164.html
森川林 2011/02/07 18:27 


 小学校から中学に上がると、勉強の仕方がかなり違ってきます。小学校までも、テストはありましたがそれほど大きな意味は持っていませんでした。中学生になると、テストと成績が大きな意味を持ってきます。そして、その成績をよくするのは本人の責任だと見なされます。

 だから、中学生になって、これまでと同じようにただ漠然と授業を受けているだけだったり、与えられた通信教材をこなしているだけだったりすると、やがて、勉強をしているはずなのに成績が上がらないという結果が出てきます。

 多くの生徒や保護者は、成績が上がらないと、塾に通えば何とかなるのではないかと考えますが、塾の授業も、学校の授業と本質的には変わりません。勉強というのは、自分の責任で、自分なりに工夫した方法でなければ力がつかないのです。

 そこで、これから中学生になるみなさんにおすすめするのは、3月の春休みまでに、中学生の勉強法に関する本をまとめて読み、勉強の方針を立てておくことです。生徒本人が読む前に、お父さんやお母さんも読んでおくといいと思います。中学生の勉強法に関する予備知識が両親にないと、学校や塾のペースに流されてしまうからです。子供の勉強にいちばん責任を負っているのは家庭だということを自覚しておく必要があります。

 中学生の勉強法に関する本は、書店には2、3冊しかないと思うので、インターネットの書店を利用するといいと思います。どんな分野でも、新しく何かを始めるときには、10冊をひとつの基準にして読みます。10冊読むと、その分野の全体像が確実につかめるようになります。

 勉強法の作戦を立てなかったために成績が伸び悩み、塾や家庭教師に頼るようになることを考えれば、最初の10冊の本代などは安い投資です。きれいに読めば、古本として引き取ってもらうこともできます。

 私が昔読んで参考になった「中学生の自宅学習法」という本は、今ではもう絶版ですが、もともと1,500円ぐらいだったものが、中古として2,500円で売られています。高校生向けの国語の参考書として定評のあった「国語1・2」という本は、当時1,000円ぐらいだったと思いますが、今では中古で15,000円です。; ̄ロ ̄)!!

 そして、この勉強法の本を読んだあと、家庭でどういう勉強をしていくかを決めます。学校の授業を聞いて、学校で出された宿題だけやっていくというのでは力はつきません。学校の宿題とは別に、自分なりに家庭での勉強の計画を立てておくことです。

 おおまかに言うと、国語については、読書と問題集読書で難しい文章を読む時間を毎日必ず確保することです。英語については、教科書を何度も音読し丸ごと暗唱できるようにしておくことです。数学については、少し難しい市販の問題集を1冊用意し(学校でそういう問題集が出ればそれでもかまいませんが、学校の問題集は易しすぎることが多いので)その問題集を百パーセントできるようになるまで繰り返し解くことです。

 いずれも、冊子となっているものの方がよいのは、その1冊を繰り返し使うことができるからです。学校や塾や通信の教材で、1枚のプリントで渡されたり薄い冊子で渡されたりするものは、保管しにくいので、結局一度解いておしまいという形になりやすく有効な活用ができません。

 中学の国語の試験では、文法の問題がかなり出ます。文法の勉強は、練習量が伴わないことが多いので、国語のよくできる子でも成績が悪くなることがあります。試験の前に、文法の問題集を繰り返し解いておく必要があります。しかし、国語の文法の問題は、高校入試にも大学入試にも出ないので、成績が悪くても気にすることはありません。

 中学生になってから勉強のよくできる子は、例外なく家庭での学習をきちんと行っています。くれぐれも、漠然と学校の授業を聞いて宿題をこなすだけという勉強スタイルにならないように、春休み中に勉強の基本方針を立てておきましょう。

この記事に関するコメント
コメントフォームへ。

同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。
勉強の仕方(119) 

記事 1163番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/1/29
高校入試の作文試験 合格体験記 as/1163.html
森川林 2011/02/07 03:49 
 高校入試の作文試験に合格したO君が体験記を書いてくれたので紹介します。

 これから作文試験を受ける人は、次の点を参考にしてください。まず第一は、過去問をもとにして自分で書いた作文を繰り返し読んでおくことです。第二は、受ける学校に関連した本を読んでおくことです。(大学入試なら受験する学部に関連した本、高校入試や中学入試なら学問や人生に関する本)

 これから少子化が進むと、受験の形態も次第に、時間をかけてじっくり評価する小論文や面接が中心になってきます。普段から本を読んだり文章を書いたりする習慣を持つことが大切です。



合格体験記  中3 渓翡翠 (名前はペンネームです)

 第一志望の高校に合格した。

 しかも、難しい前期選抜でだ。

 他人に自慢できるような内申点があったわけでもないのに、なぜだろうか? やっぱり、作文がよかったのだろうか!?

 私が受けた試験の内容は、午前中に作文試験、午後に面接試験だった。

 この、高校に行って最初に始まった作文試験。普通の人なら、かなり緊張してしまって、なかなかいい文章を書くのは難しいと思う。しかし私は、事前に作文試験の過去問題をゲットし、練習していて、言葉の森の先生に添削して貰ってかなり自信をつけ、しかもその作文を持っていって、それを読みながらシミュレーションしていたので、まったくといって良いほど緊張しなかった。試験官の、「はじめ」という声を聞いて、「アー始まっちゃったな、よしがんばろうっと」という具合である。

 しかし。一生が決まるといっても過言ではない高校入試は、甘くはなかった。作文用紙を見て私は愕然とした。

 なぜか。驚いた点は簡単に言って2つあった。

 1つめ。時数制限があり、800字しか書けなかった。800字くらいだと、逆に喜ぶ人もいるかもしれない。「やった!! 僕作文苦手だけど、800字くらいなら何とかなるかも!!」というふうにである。しかし、私は違った。普段から言葉の森で1200次以上の作文を書き、その時数に慣れっこになってしまっていた私は、かなり困った。過去問で練習した時も、「まぁ、時数制限なんてないだろうから、書けるだけ書きまくってやる」と考えて、1200字くらいの文しか書いていなかった。そのせいで、考えや書きたいことを短くまとめるのが大変だった。実際、書きたいことが、かなり書けなかった。それでも、言葉の森で使う要約の技術なんかを駆使して、何とか800字に収めることが出来た。

 2つめ。作文のテーマが、過去のものと大きく違っていた。私の受けた学校は商船の学校で、作文試験のテーマも「船員として広がる私の夢」だとか、「君にとっての船」といった、「自分の夢や考え」を強調しやすいものだったのだ。だが、私が受けた作文試験のテーマは「船・自動車・鉄道・飛行機・世界・環境、これらの言葉を使ってあなたの意見を書きなさい」。正直、どんなことを書けばいいか分からなかった。自分の考え、というよりもいろんなデータを重視する試験内容だからだ。でも、よいことがあった。言葉の森の先生に、「出来るだけたくさん、船の話や本を読め」といわれて、そのとおりにしていたので、読んだ本のデータなどを基にして、データとともに自分の考えをうまく書くことが出来た。言葉の森でいろんな練習をつんでいたおかげで、急に変わった試験内容と環境にも対応できたのである。

 かくして、私は合格した。

この記事に関するコメント
コメントフォームへ。

同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。
受験作文小論文(89) 合格情報(27) 

記事 1162番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/1/29
ちょっと哲学の話―存在と意識の量子論的解釈 as/1162.html
森川林 2011/02/06 05:49 


 哲学の話というと、このホームページの記事としては、内容にギャップを感じるかもしれません。(^^ゞ しかし、私はいつも、ものごとは根本的に考える必要があると思っています。言葉の森が、これからどういう作文教育を行っていくかを考えるとき、人間と世界とは何かという哲学が必要になります。

 今回は、その哲学的基礎を述べていきたいと思います。

 内容はすべて、自分が考えて確信を持ったものだけにとどめ、あいまいなことは極力書かないようにしていきます。

 しかし、これは学術的な論述ではなく、ただ自分で納得するために考えたことなので、論議を補強するための必要以上の論証は行いません。また、わかりやすい具体例も入れられればなおよいとは思いますが、そうすると話が長くなってしまうので、ほとんどは基本的な骨格だけで話を進めていきます。ただし、もし具体的な例を聞きたいという質問があれば、それはそのときに答えたいと思っています。

 以下の記述の大きな流れは、ヘーゲルの論理学のスタイルと似ていると思います。私の考えの進め方は、20代に読んだヘーゲルから大きな影響を受けていると思うからです。しかし、単なるヘーゲルの援用ではなく、すべて自分の中に消化されたものとして書いているので、どこからどこまでがヘーゲル的かということはよくわかりません。今さら読み返すのも大変なので(笑)。

 文章は、常体になりますが、これは自分がひとりで考えるときは常体で考えているからで、敬体になるとたぶん考えが滞りがちになるからです。



 さて、ここから、始まり。



 最初に無があった。無があるとは、別の言葉で言えば何もなかったということである。(だからどうした、というつっこみが入りそうだが。)

 最初のものごとの定義として、何かがあったとしてもよいし、何もなかったとしてもよい。しかし、何かがあったとすればそれは空虚な全体があったか、あるいは同じことだが何もなかったかということである。

 この何もなかったということと、空虚な全体があったということは、実は、量子論的に述べると同じことなのだが、それはあとで述べたい。

 わかりやすくひとことで、最初に無があったということで話を進めていくと、次のようなことが言える。

 無があったということは、無があり続けたということだ。無があり続けるということは、無が、無でないものに抗して無であり続けたことであるから、無があるということそのものが、無がないこと、つまり有があることを前提にしていたということである。

 この有をイメージとしては、物質の最小の単位として定義される量子のようなものと考えてもよい(現代では量子よりも小さい構造が存在するという説もあるが、このことについては保留して話を進める)。

 無があるがゆえに有があったということは、あくまでも論理的な話のスタートであって、それが具体的に世界の最初の状態を説明しているわけではない。また、この段階の話は、まだ現実の物事の説明に適用するほどの具体性を持っていないから、適当に読み進めていってもかまわない。しかし、この考え方の道筋は、あとからより重要な具体性に結びついていく。



 何らかの有があるということは、その有を量子のような極小の球体のようなものをイメージすればわかるように、必ずその有の大きさを持つ。量子のような最小のものであっても、その最小なりに最小の直径を持つということは、直径の向こう側のA点とこちら側のB点という2つの点を持つということである。

 こうして、1つの有から2つの有が生まれる。すると、そこに1つの有と2つの有との関係という3つめの有が生まれることになり、その3つめの有と最初の有との関係から、4つめ、5つめ、6つめの有が生まれるということである。このようにして、1つの有は、そのまま多数の有となる。




 さて、最初の無があるということは、空虚な全体があるということであり、それがそのまま最小の有があるということであった、ということを量子論的に説明すると、次のようなことになる。

 量子の世界では、ド・ブロイ波の公式があてはまると言われている。それは、波長λ=h/mvという式で表される(hはプランク定数。mは質量。vは速度)。

 空虚な全体があるということは、空虚な全体があり続けたということであるが、それは空虚な全体の大きさを波長とする波があったと見なしてもよいのではないか。すると、その波長に対応する極小の質量と速度を持った粒子がそこに誕生する。巨大で空虚な全体は、巨大で空虚な波として考えれば、極小の有と同義だったということである。

 このように考えると、無と有と全体と個は、ただそれだけの論理によって、つまりほかの媒介を一切必要とせずに、説明することができる。

 ここまでが話の前提である(笑)。長かった。



 ここから、話がやや具体的に。



 1つの有は、そのまま多数の有を生み出す。

 すると、やがて多数の有の間に、関係が生まれる。例えば、有Aと有Bの間に関係Cが生まれるとする。

 この関係Cが反復して生成されるとき、その反復をひとつの波として考えると、やはりλ=h/mvの関係と同じように、関係Cの波長を持つ粒子C’が存在すると考えることができる。

 つまり、関係の反復は実体になるということである。ここから、現代の科学ではまだ説明しにくいさまざまな現象を説明することができる。

 例えば、ある事Cが起こるとする。事Cとは、物Aと物Bとの関係である。すると、その事Cを波とする物Cも同時に生まれている。物Aと物Bは、その事Cが終わればなにごともなかったように、もとの物Aと物Bに戻っていると思うかもしれないが、実は物Cは物として残っている。そして、物Cは公式の上では事Cに換算することができる。だから、事Cが何度も反復されればそれだけ、物Cも強固になり、事Cはより反復されやすくなると考えられる。

 この、反復が実体となるということが、世界の進化の最も根本的な動因である。



 さて、有と有との関係が実体化したものを存在物と呼ぶことができると思う。ここでやっと抽象的な有から、具体的な物が登場する。

 この存在物もまた、他の存在物との間に関係を持つ。その関係が反復され実体化され、世界にはさまざまに複雑な物が生まれるようになる。これが最初は無であった世界が多様性を持つようになった理由である。



 やがて、存在物と存在物の関係の中に、成長する関係が生まれる。それは、例えば、鉱物の結晶のようなものである。また、存在物の関係の中に、自らの形を再生産する関係が生まれる。それは、例えばフラクタル図形のようなものである。この成長と再生産の関係が組み合わさって実体化したものを生命と呼ぶことができる。生命の定義は、成長と再生産だからである。生命の誕生の理論的説明は、このように考えることができる。

 生命は、最初は単なる成長と再生産であるから、まだ抽象的なものである。しかし、やがてその生命が、他の存在物や他の生命と一定の関係で結びつくことによって成長と再生産を行うようになるとき、つまり生命が環境との相互関係の中で成長と再生産を行うようになるとき、その生命は具体的な生物の種となる。

 だから、例えば、スズメは、成長するとしても無制限に大きくなるわけではなくせいぜい手のひらに乗るぐらいのサイズの成長にとどまり、また、再生産すると言っても世界中がスズメで埋め尽くされるような再生産ではなくせいぜい年に何回か数個の卵を生むぐらいの再生産にとどまるのである。これは、スズメが単なる抽象的な生命ではなく、環境との相互関係を実体化した具体的な生物種だからである。(何をあたりまえのことを言っているんだと言われそうだが)



 さて、生物種を簡単に生物と言い換えて話を進めると、生物の中には、自分の身体の内部に成長と再生産の方法を持つだけではなく、身体の外部に方法を持つものがいる。例えば、貝を石で割るラッコ、木の枝を集めて巣を作る鳥、イモを洗って食べるサルなどである。

 このように自分の身体の外部に道具と方法を持つという関係は、生物の身体の中には存在しない。それは、生物の身体からは独立した関係であるが、生物の成長と再生産に分かちがたく結びついている。生物の持つこの生きるための方法という関係が意識の始まりである。



 人間は、生存を外部の方法にきわめて多く依存している生物である。人間は、服を着たり、家を作ったり、火を起こしたり、道具を持ったりしなければ、人間として生きていくことが難しい。このように多くの方法に依存した生物は、人間以外にはいない。

 しかし同時に、人間は、これらの方法を、声や動作や図形や記号によって表すことができる柔軟な発声器官と手足を持っている。この、豊富な方法を必要とする脆弱な身体と、それらを表現する柔軟な表現力とを持つ身体のゆえに、人間は言語を持つことができた。

 だから、道具との関係という方法の実体化したものが意識であり、その意識が言語という形で更に強固に実体化したのである。

 やがて、言語は、言語と言語の関係を持つようになる。この関係が理解であり、意識は理解によって更に実体として独立したものになっていく。(しかし、この意識の始まりから言語への話は、更に詳しく考える余地がある。)



 ところで、最初に述べたように、物には物としての性質と波としての性質があり、それは相互に換算できるものであった。この物と波との関係を、生命や意識にもあてはめることができるのではないか。つまり、生命も、物と波の両方の性質を持ち、意識もまた、物と波の両方の性質を持つということである。(ちょうど、最近、イギリスのノーベル賞化学者が、DNAが弱い電磁界の中でテレポートするという研究結果を発表した。これも、生命が物と波の両方の性質を持つからだと言えるかもしれないが、まだ確実な事実ではない。)

 ここから、意識の活用の仕方についての大きな示唆が得られる。



 人間の生活は、単に物理的な環境や身体的な条件だけでなく、意識の持ち方によって大きく左右される。例えば、同じように雨が降っている暗い日にも、明るい気持ちを持ち続けることのできる人がいる。

 もちろん、物理的な条件は人間の生活を左右する最も大きな要素だから、意識の価値を過大評価するべきではないが、現代の社会ではまだこの意識の活用の仕方についての研究が十分には進んでいない。

 これは、教育についても同様で、やる気のある短時間は、やる気のない長時間よりはるかに優れているというのは、多くの人が知っている。しかし、どうしたらこのやる気を活用できるかということについては、未解明の部分がほとんどである。

 しかし、今回、物から意識への発展が一応基礎づけられたと思うので、今後はこの土台の上に意識の研究を進めていきたいと思っている。(おしまい)

この記事に関するコメント
コメントフォームへ。

同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。
未分類(378) 

記事 1161番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/1/29
吉田松陰「留魂録」を伝えた信頼関係 as/1161.html
森川林 2011/02/05 12:21 


 吉田松陰の「留魂録」は、松陰が処刑される前日に、門下生に向けて書いた約5000字ほどの手紙のような書です。半紙を四つ折りにして十九面に細書きしてコヨリでとじて冊子にしてあります。

 この書の初めに、松陰の和歌が書かれています。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置(とどめおか)まし大和魂」。

 この書は、内容ももちろん心を打ちますが、私はそれ以上に、これを十数年も守り続けた囚人沼崎吉五郎(ぬまざききちごろう)の生き方に感銘を受けました。

 松陰と同じ獄舎にいた牢名主の沼崎は、処刑の前日、松陰に次のように頼まれます。「自分は、(この書を)別に一本郷里に送るが、無事に届くかどうか危ぶまれる。そこで、(あなたが)出獄したらこの書を長州人に渡してもらいたい」と。

 松陰の「留魂録」は、門下生らによって郷里の萩に送られ、ひそかに回覧されますが、やがて所在が不明になってしまいます。

 もう一本の書を預けられた沼崎は、その後三宅島に流されます。十数年後、幕府が倒れ、沼崎は流人の身から解放され本土に戻ることができましたが、既に老人になっていました。

 神奈川県の権令(ごんれい)という役職にいた野村靖という松陰の門下生のところに、沼崎が突然訪れたのは、松陰の処刑から十七年もたったころでした。

 沼崎は、野村に、「貴殿が長州人と聞いたので」と、変色した「留魂録」を渡すと、そのまま静かに去っていきました。



 私は、ここに、目先の損得や欧米流の合理主義とは異なる、人間どうしの義を重んじる生き方の強さを感じました。

 日本は、今、不況に沈み、格差は拡大しています。子供たちの教育も、果たして確実に行われているのかどうか不安が残ります。

 しかし、日本が今後復活するための最も確実な土台は、経済力よりも、学力よりも、何よりも国民一人ひとりが、相手の信頼に応えるという、この義の精神を失わないことだと思いました。



 では、なぜ、「経済力よりも」なのかというと、経済力は今後の工夫次第で必ず発展させることができるからです。それも、中国依存や移民拡大というような方向ではなく、日本独自の工夫で内需の拡大ができるようになるはずです。

 また、なぜ、「学力よりも」なのかというと、学力は、よりよい社会を作るための必要条件ではないからです。もちろん、将来の日本は学力の大国にしていかなければなりません。それは未来の子供たちの教育にかかっています。しかし、今の若者たちの学力に不安があるとしても、学力の不足は信頼感さえあれば補うことができます。

 「葉隠」の中で、山本常朝は、人間に必要なものとして「勇・知・仁」の三つを挙げ、「知」とは、「人に相談することだ」と述べています。社会の中に信頼感さえあれば、学力の不足は克服できるのです。

 日本の社会の治安のよさは、先進国の中では群を抜いています。タクシーの中に置き忘れた財布が、無事に持ち主のところに戻るだろうとほとんどの人が思っている国は日本だけです。

 私たち大人の役割は、この信頼感を確実に守り、その土台の上に、新しい経済力と学力の花開く国を作っていくことだと思います。



この記事に関するコメント
コメントフォームへ。

mino阿弥 20120912  
「遥かなり三宅島」吉田松陰「留魂録」外伝(永富明郎著)
吉田松陰先生の真筆「留魂録」を世に伝えた人は、松陰先生が投獄された折の牢名主沼崎吉五郎であった。
「留魂録」を託されてから17年後、門人野村靖に「留魂録」を手渡し松陰先生との約束を果たした。
沼崎吉五郎は、至誠の人であり、松陰先生にとって恩人でもある。
この沼崎吉五郎に対する長州人の「惻隠の情」の欠落を嘆き、小説として取り上げたものであり、松陰先生没後153年、著者永富明郎氏が長州人として沼崎吉五郎の厚志に報いた書でもある。


森川林 20120912  
 mino阿弥さん、貴重な情報をありがとうございます。
 こういう形で、歴史に残らずに自分の義務を貫いた人が維新の時代には数多くいたのでしょうね。
 

同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。
未分類(378) 
コメント1~10件
中根の担当する 森川林
YKさん、ありがとう。 私が子供にさせたいと思っていたのは 1/27
記事 5267番
中根の担当する YK
創造発表クラス面白くなりそうですね!イギリスの私立学校のカリ 1/27
記事 5267番
言葉の森のAI 森川林
 あおさん、ありがとうございます。  そんなオーバーじゃな 1/14
記事 5254番
言葉の森のAI あお
生成AIの講評の方向性と、言葉の森の講評の方向性が同じである 1/13
記事 5254番
これからの学力 森川林
 書き忘れたけど、ひとりの先生が全教科、全学年を教えるという 12/9
記事 5233番
読解問題の解き Wind
面白かった 10/11
記事 4027番
長文の暗唱のた たろー
この世で一番参考になる 9/30
記事 616番
「桃太郎」を例 匿名
役に立った 8/15
記事 1314番
日本人の対話と 森川林
ヨーロッパの対話は、正反合という弁証法の考え方を前提にしてい 8/6
記事 1226番
日本人の対話と よろしく
日本人は上に都合がよい対話と言う名のいいくるめ、現状維持、そ 8/5
記事 1226番
……次のコメント

掲示板の記事1~10件
2025年1月 森川林
●新年度の教材は、もう発行されています。 http 1/22
森の掲示板
Re: 中2の 森川林
 これは、読解問題の解き方の基本だから、よく覚えておいてね。 12/22
国語読解掲示板
2024年12 森川林
●新年度の教材 https://www.mori7 12/22
森の掲示板
中2の読解検定 毛利
問題2番のAが×なのが納得いきません。解説お願いします。 12/19
国語読解掲示板
2025年1月 森川林
2025年1月の教材のPDFがプリントできます。 http 12/17
森林プロジェクト掲示版
創造発表クラス 森川林
創造発表クラスとプログラミングクラスの今後  創造発表 12/12
森川林日記
Re: 読解検 森川林
> 問一 B 2.3行目の「むっつりと」という文章が問題文に 12/12
国語読解掲示板
読解検定小六  あかそよ
答えに納得できないので教えてください。 問一 B 2. 12/9
国語読解掲示板
Re: 標準新 あかそよ
ありがとうございます。 考えてみたけど、やっぱり難しいです 12/5
算数数学掲示板
WinSCPの 森川林
ダウンロードとインストールは、特に問題なく、次々と進めて 12/4
プログラミング掲示板

RSS
RSSフィード

QRコード


小・中・高生の作文
小・中・高生の作文

主な記事リンク
主な記事リンク

通学できる作文教室
森林プロジェクトの
作文教室


リンク集
できた君の算数クラブ
代表プロフィール
Zoomサインイン






小学生、中学生、高校生の作文
小学1年生の作文(9) 小学2年生の作文(38) 小学3年生の作文(22) 小学4年生の作文(55)
小学5年生の作文(100) 小学6年生の作文(281) 中学1年生の作文(174) 中学2年生の作文(100)
中学3年生の作文(71) 高校1年生の作文(68) 高校2年生の作文(30) 高校3年生の作文(8)
手書きの作文と講評はここには掲載していません。続きは「作文の丘から」をごらんください。

主な記事リンク
 言葉の森がこれまでに掲載した主な記事のリンクです。
●小1から始める作文と読書
●本当の国語力は作文でつく
●志望校別の受験作文対策

●作文講師の資格を取るには
●国語の勉強法
●父母の声(1)

●学年別作文読書感想文の書き方
●受験作文コース(言葉の森新聞の記事より)
●国語の勉強法(言葉の森新聞の記事より)

●中学受験作文の解説集
●高校受験作文の解説集
●大学受験作文の解説集

●小1からの作文で親子の対話
●絵で見る言葉の森の勉強
●小学1年生の作文

●読書感想文の書き方
●作文教室 比較のための10の基準
●国語力読解力をつける作文の勉強法

●小1から始める楽しい作文――成績をよくするよりも頭をよくすることが勉強の基本
●中学受験国語対策
●父母の声(2)

●最も大事な子供時代の教育――どこに費用と時間をかけるか
●入試の作文・小論文対策
●父母の声(3)

●公立中高一貫校の作文合格対策
●電話通信だから密度濃い作文指導
●作文通信講座の比較―通学教室より続けやすい言葉の森の作文通信

●子や孫に教えられる作文講師資格
●作文教室、比較のための7つの基準
●国語力は低学年の勉強法で決まる

●言葉の森の作文で全教科の学力も
●帰国子女の日本語学習は作文から
●いろいろな質問に答えて

●大切なのは国語力 小学1年生からスタートできる作文と国語の通信教育
●作文教室言葉の森の批評記事を読んで
●父母の声

●言葉の森のオンライン教育関連記事
●作文の通信教育の教材比較 その1
●作文の勉強は毎週やることで力がつく

●国語力をつけるなら読解と作文の学習で
●中高一貫校の作文試験に対応
●作文の通信教育の教材比較 その2

●200字作文の受験作文対策
●受験作文コースの保護者アンケート
●森リンで10人中9人が作文力アップ

●コロナ休校対応 午前中クラス
●国語読解クラスの無料体験学習